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 激動の2023年も大晦日を迎えました。世間では、25日が終わると、急ピッチで衣替えがなされ、主役の座は、一気に「クリスマス」から「お正月」になります。救い主イエス・キリストをお迎えした私たちは、流されずに、ゆっくりと、じっくりと、1月6日公現日までのクリスマス週間(2週間)を過ごしたいと思います。

今日の聖書は、いわゆる3人の博士の場面です。昨年も、そして10年前の、いわゆる「お見合い説教」のときも、この箇所を取り上げました。イメージ豊かな、そしてそこから多くのメッセージを聞くことができるところです。

 今年は、暗闇と光というイメージが与えられました。ヘロデに代表されるこの世の闇と、希望の光である幼子イエスです。創世記のはじめで、「光あれ!」と言われた、神が「よし」とされた光が、ヨハネ福音書のはじめに「光は暗闇の中で輝いている。」と記されたように、今日の聖書でも闇の中にあったイスラエルに、イエスの光が輝いています。

 博士たちは、新しく誕生したユダヤ人の王に会うために、当然のごとくヘロデのところに来たのでした。しかしヘロデからすれば、寝耳に水の情報でした。自分には全く心当たりがありません。いわゆる王ではなく、メシアのことだと思い当たり、悪だくみをします。後で、16節以下の悲劇が起こります。光をなきものにしようとするこの世の権力者の悪あがきを越えて、神の業、神からの新しい光は輝き続けるのです。

博士たちは、この世の王を超える真の救い主メシアにあいまみえたことによって、その神的体験によって、もはややってきたときとは別人になっていました。夢のお告げを受け入れて、もはやヘロデというこの世の王のところには寄らずに、別の道を通って帰って行きました。博士たちは、それまでとは違う、まったく新しい、神が導かれる道を生きる者となったのです。

 ここにいます私たちも、クリスマスにおいてまことの救い主イエス・キリストを迎え入れて、それまでとは違う、神が備えてくださる新しい道を、希望をもって、祈りを熱くして歩んで行く者でありたいと思います。

 


   2023年12月31日 降誕節第1主日礼拝 笹井健匡牧師


 今日の聖書の箇所は、イエスの母となるマリアがヨセフと婚約していた、というところから始まります。その婚約中にマリアが妊娠するということが起きました。マリアの妊娠を知った婚約者のヨセフは、大変驚き、悩みました。申命記22章23、24節には、「ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町に引き出し、石で打ち殺さなければならない。」と記されています。マリアが町に引き出され、さらし者にされ、石打ちの刑で殺されるということは、ヨセフにとっては、耐えられないことであったかもしれません。しかし、別の方法もありました。それは離縁するということでした。離縁は婚約の場合は、比較的簡単であったらしく、法廷に持ち込むことなく、離縁状を渡したことを証する二人の証人がいればよかったのです。ヨセフは、マリアとひそかに離縁しようと決心しました。ヨセフがそのように考えていたところ、夢に天使が現れるということが起きました。天使は、マリアが聖霊によって身ごもっていること、そしてマリアの産む子どもに「イエス」という名前をつけるようにと告げました。イザヤ書7章14節に「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」と記されています。この言葉を引用し(23節)、生まれて来る子どもはインマヌエルと呼ばれるのだというのです。インマヌエルというのは、「神は我々と共におられる」(23節)という意味です。ヨセフはこの不思議な夢から覚めると、天使から言われたとおり、婚約者マリアと結婚し、生まれた子どもにイエスという名前をつけました。

 大工という職業を持ち、誠実に日々を生きていた青年ヨセフは、婚約者のマリアの妊娠を知り、絶望的な状況にあった時に「共におられる神さま」の存在を知らされました。また、寒空の下で、夜通し働いていた羊飼いたちは、「自分たちのためにおられる神」が来られたことを知りました。(ルカ2・11)マリアは受胎告知(ルカ1・26-38)の時に神さまが共におられることを知りました。絶望の中にある者へ、人生をあきらめていた者のもとへ、自分を大した人間ではないと思っている者のところへ、「神さまはあなたと共にいますよ。」と告げられたことが、イエスさまのお誕生のメッセージでした。そのメッセージは、今も私たち一人一人のもとへと届けられているのです。

 イエスさまは、インマヌエル、私たちと共におられる方として、この地上を生きられました。そして、復活のイエスさまは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28・20)と言われています。イエスさまは、昔も今も、そしてこれからの未来も、インマヌエルとして、私たちと共にいてくださるのです。

 「神われらと共に」という言葉をもって、クリスマスを祝う者でありたいと思います。

 

2023年12月24日 クリスマス礼拝 アドベントⅣ(降誕前第1主日) 平島禎子牧師


 7章において「インマヌエル」預言をなし、9章において「新しい王」について預言したイザヤは、この11章において「平和の王」の預言をします。前半の1~5節は、途絶えたかに見えたあのダビデ王朝、その子孫の中から真の平和の王が誕生することをあらためて預言します。現に存在するところからの、手の届くところにある新しいリーダーを預言しているようにも思えます。しかし後半の6~10節にいたっては、もはやそのような身近な、現実世界での平和を超えたところにある、神的な平和、聖なる平和について、まるで絵本の世界のように、美しいたとえで朗々と、平和な世界が歌い上げられているように感じます。

 狼、豹は、小羊、子山羊を食し、若獅子は子牛を食していました。それが共に宿り、共に伏し、共に育つというのです。そして大人ではなく、小さい子どもがそれらを導くと。

 さらに牛も熊も獅子も、その子らも、ひとしく干し草を食らう、と言います。そして乳飲み子が毒蛇の穴に入っても、幼子が蝮の巣に手を入れても大丈夫というのです。

 9節には、はじめて神が「わたし」と自己開示され、これらのことは神のなせる業であることが鮮明になります。そこでは、神の聖なる山では、危害も滅亡もないというのです。そしてその理由は、主を知る知識で満たされるからだと言います。

 「知識」という言葉は、情報をいっぱい知っているとかいうよりも、もっと根源的な理解、全身全霊での受け止め、のような感じだと思います。神に全信頼を置く、という感じでしょうか。6節にあるように、導くのは、小さい子どもなのですから。

 今、世界は、このイザヤの預言とは真逆の様相を呈していると感じられている方も多くおられるかも知れません。しかし神の言葉は必ず成就します。

 イザヤが預言した、神の聖なる山から始まる、言わば聖なる平和は、すべての民を救う旗印となりました。飼い葉桶に生まれられた主イエスこそ、聖なる平和への道です。

 だれも害を加えず、滅ぼすこともない世界が、この先に、必ず実現することを信じて、信仰の灯をともしながら、この時を、祈りを熱くして、クリスマスまで歩んで行きたいと思います。

 

2023年12月17日 アドベントⅢ(降誕前第2主日)礼拝 笹井健匡牧師


 アドベント・クランツのロウソクに、二番目の灯がともりました。世は暗闇の様相を呈していますが、クリスマスに向かって灯りは大きくなります。闇が深くなればなるほど、その中で灯りは強く輝くのです。

 イエスさまより約700年前に、預言者イザヤは活動しました。イエスさまの時代は、ローマの支配に苦しんでいましたが、イザヤの時代はアッシリアの恐怖が最大の課題でした。アッシリアは、ゼブルン、ナフタリ、つまりガリラヤから侵略を始め、BC722年に都サマリアが陥落、北王国イスラエルは滅亡します。

 南王国ユダの預言者イザヤは、王を叱咤激励し、この世の力ではなく、主なる神、ヤハウェに信頼し、落ち着くように諭しました。そんなイザヤが今日の個所では、後の日には、ガリラヤは栄光を受け、闇の中に光が輝く、と預言したのです。イザヤの念頭には、新しい王、次世代への期待があったのかも知れません。

 マタイはこの聖句(8:23b~9:1)を、イエスさまが宣教を開始された場面に置きました(マタイ4:15~16)。異邦人との混住、異邦文化の混在がすすみ、ヤハウェ信仰が脅かされている、その辺境の異邦人の地ガリラヤからイエスさまは登場されたのです。

 イザヤ書7章で預言されたインマヌエル預言は、この9章で、共におられる新しい王として実現すると預言されました。

 現代も違う意味で闇が深くなっている時代なのかも知れません。しかし闇が深くなればなるほど、希望の光は、その輝きを増すのです。

 アドベントのこの時、昼間の時間が短くなり、夜の時間が長くなって行きます。私たちは、この時こそ、真の、闇の中の光である主イエスをしっかりと見つめて、その光で自らの内にある闇、そして外にある闇をしっかりと照らしながら、祈りを熱くしてクリスマスまでの時を歩んで行きたいと思います。 

 

2023年12月10日 アドベントⅡ(降誕前第3主日)礼拝 笹井健匡牧師


 今年もアドベントを迎えました。アドベント・クランツのロウソクに、一番目の灯がともりました。世は暗闇の様相を呈していますが、間もなく降誕される主イエスの暖かい希望の灯りを、いつも以上に大切にしたいと思います。

イエスさまの宣教活動の前には、先駆者として、洗礼者ヨハネが登場します。ヨハネは、当時のユダヤで大きな存在でした。イエスさまの、弟子たちへの問い、「わたしを何者だと言うのか」という、いわゆるペトロの信仰告白の場面での問いが、今日の聖書では、ユダヤ当局がヨハネに「あなたは何者なのか」という問いになっています。ヨハネは最終的に預言者イザヤの言葉を引用し、「荒れ野で叫ぶ声」であり、水で洗礼を授けているだけの者だと答えます。

 ヨハネはやがて来たるべき方メシアが現れ、聖霊によって洗礼を授けられる。自分は、その道備えをする者、その為、水で悔い改めの洗礼を授ける者であるとの自己認識を持っていたのだと思います。

 パウロは、もともと迫害者でした。復活の主に出会い、宣教者となった初期の頃は、文字通り命を惜しまぬ伝道をなしました。その心には、迫害という取り返しのつかないことをしてしまった強い後悔、懺悔の思いがあったかも知れません。しかし、復活の主と共に宣教活動を続ける中で、晩年には、生まれる前から(ガラテヤ1:15)神のくすしき業によって、宣教者とされたのだと思うようになったのだと思います。

 今年もクリスマスの前に、自らの心にイエスさまを迎える飼い葉桶を準備して行きたいと思います。私たちも一人ひとり神さまに導かれ今日まで歩んで来ました。その内容は、人それぞれ、本当に多様だと思います。私はもともとキリスト教と無関係な環境に生まれ、中学から一応経験しましたが、ほぼ無関係が続き、しかし高校3年生のクリスマスイブに世光教会へ導かれ、クリスチャンになり、なんと牧師になって、今日に至っています。

 それぞれの時点でのイエスさまとの関係は、ほんとにいろいろですが、大切なのは、ヨハネがイエスさまの登場の時、自らを「声」とし、パウロが宣教活動を続ける中で自らを「生まれる前からの宣教者」と認識したように、今、ここにおける、自分は、イエスさまとどのような関係にあるのか、イエスさまとの関係において、自分は何者なのか、を問うことだと思います。

マリアが天使の御告げに、いろいろと思いめぐらせたように、私たち一人ひとりも、もう一度イエスさまと自分との関係を、今、ここ、の時点で、自分は何者であるのか、を心に持ちながら、アドベントの時を一日一日歩んで行きたいと思います。

2023年12月3日 アドベントⅠ(降誕前第4主日)礼拝 笹井健匡牧師