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 フィリポは食事の世話をする係に選ばれた、霊と知恵に満ちた7人のうちの一人でした。しかし、宣教をする賜物があり、至る所で宣教の業をなしていました。フィリポはサマリアで宣教をなし、大成功をなしました。しかし、そのようなフィリポにエルサレムからガザへ下る道へ行くようにと、主の天使から言われたのです。そこは「寂しい道」であると記されています。「寂しい道」へ行かなければならないのは、つらいことではないかと思いますが、フィリポは「すぐに」従いました。

 その道には馬車が走っていました。エチオピア人の宦官がエルサレムに礼拝に来て帰る途中だったのです。エルサレムからエチオピアまでは千数百㎞以上の距離があります。そのような長旅をするほど、この宦官は信仰熱心だったのです。宦官とは去勢された官吏のことです。申命記23章2節によると、宦官は「主の会衆に加われない」者でした。ユダヤ教徒にはなれない者でしたが、彼は、それでも熱心に神を求めていたのです。

 この宦官は、馬車の中で、イザヤの書を声をあげて読んでいました。フィリポはその馬車に追いつき、宦官に向かって、「読んでいることがおわかりになりますか。」と言いました。宦官は、「手引きをしてくれる人がなければ、どうしてわかりましょう。」と答えました。宦官はフィリポに馬車に乗ってもらい、聖書の解き明かしをしてもらいました。その箇所は、イザヤ書の53章、主の僕のところでした。フィリポは、その箇所から説き起こし、その主の僕こそナザレのイエスであること、そのイエスこそが私たちの救い主であることを詳しく話し、イエスの福音を告げ知らせたのです。この解き明かしを聞いた宦官の胸には熱いものが走ったのではないかと思います。また宦官の救いについて、イザヤ書56章3節から5節に記されています。私の想像ですが、フィリポはこの箇所をもひもといて話したのではないかと思います。

 この宦官は、イエスの福音を知り、信じる者となりました。そして、水のあるところに来た時、「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」と言いました。宦官は、フィリポから洗礼を受けました。しかし、二人が水から上がると、主の霊がフィリポを連れ去り、宦官はもはやフィリポを見なくなりました。普通なら悲しい気持ちになることだと思います。しかし、宦官は喜びにあふれていました。フィリポという人にではなく、神によって救われたという喜びで胸がいっぱいになったのだと思います。フィリポには感謝の気持ちが大きかったと思いますが、それ以上に救われた喜びが大きかったのだと思います。宦官は喜びにあふれて、旅を続けていきました。エチオピアへの帰路でありましたが、それまでの自分とは異なる自分となって、心軽やかに、喜びにあふれての旅であったと思います。

 私たちも、救いの喜びを心に持ち、この喜びを人に伝えていく者でありたい、喜びにあふれて、日々の生活を送っていく者でありたいと思います。

    2023年6月25日 聖霊降臨節第5主日 平島禎子牧師


 今から約2千年前、誕生したばかりの教会は、いわばマグマが燃え滾っているような状態でした。2章で教会の誕生を記したルカは、続く3章4章で具体的な大事件を記します。「美しい門」での奇跡です。

今日の聖書の個所は、ペトロとヨハネの様子と、それに相接したユダヤ当局の動揺がよく描かれています。それにしても、二人の「大胆な態度」(13節)はどこから来ているのでしょうか。

 ペトロは、神殿での説教(3:12~26)において、この癒しの奇跡は、「自分の力や信心」(12節)によるのではなく、「イエスの名を信じる信仰」(16節)によることを力強く証しました。また、直前の最高法院での弁明でも、この奇跡は「イエス・キリストの名による」(4:10)ことを語りました。

 二人は、自分たちの力によって強くなったのでも、立派な信仰心によって強くなったのでもありません。それはただ、神の前に自分を置くことができたからだと思います。生前のイエスとの交わり、そして十字架と復活の経験が、彼らを文字通り、生まれ変わらせたのです。彼らはユダヤのお歴々の前に立ったのではなく、神の前に立ったからこそ、何者をも恐れぬ、大胆な人間へと変えられたのです。これが聖霊に満たされた人間の姿だと思います。

 一方、ユダヤ当局の人々は、自己保身しか頭になかったようです。14~18節にある、ある意味悲しい姿は、現状を変えたくない時の権力者たちの「弱い」姿を露呈しているように思えます。約40年も「美しい門」に「置かれていた」一人の人間のことなど、どうでもいいのです。

 今や、ペトロとヨハネの方が、大胆で強い存在であり、権力者たちは我が身かわいいだけの、弱々しい存在です。その命令に対して二人は、自分たちは、あなたがたではなく、神に従うと言うのです。

 この世での歩みに日々をいそしんでいると、ついつい大事なことを忘れてしまいます。人の目ばかり気になり、人の事ばかりに心を奪われて行くと、自分の中がスカスカになり、枯れ木のようになってしまいます。そんなとき、もう一度、神の前に立ち戻る者でありたいと思います。そして神の息である聖霊を受け、神の愛に満たされて、大胆に語り(4:29、31)、生きて行く、生きなおして行く者になりたいと思います。

 

  2023年6月18日 聖霊降臨節第4主日礼拝 笹井健匡牧師


 今日の聖書は、空の鳥、野の花、ということで有名な箇所です。山上の説教の中に含まれている部分です。この箇所の中心的テーマは「思い悩むな」ということです。

 食べること、飲むこと、着ることで思い悩むな、と言われています。空の鳥は、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に収めることもしない、つまり、農作業と思われる労働をするわけではないけれども、神さまは養ってくださるのだ、それならば人間はなおさらではないか、と言われるのです。着ることについては、野の花がどのように育つのかを注意して見なさい、と言われます。栄華を極めたソロモンでさえ、「この花の一つほど」にも着飾っていなかったと言われています。イエスさまは、自然が豊かな山上で、人々に教えを説かれました。空には鳥が飛び、地には花が美しく咲いている、そのような状態のなかで、身近にある鳥、花でたとえ話をされたのです。神さまは、命の短い花でさえ美しく装ってくださるのだ、まして、あなたがた人間にはなおさらではないか、何を着ようと思い悩むな、と言われたのです。

 しかし、聖書を読む上で注意しなければならないことがあります。それは、イエスさまは誰に対して、どのような人たちに対して語られたかということです。それは、一般民衆であり、貧しい人たちがほとんどであったのではないかと思います。その日食べるもの、飲むものも十分ではない、着る服にしても限られたものしかない、そのような人たちであったと思います。生活をしていく上で本当に大丈夫だろうか、という思い悩みを持つ人たちであっただろうと思います。そのような人たちに対して、「思い悩むな」と言われたのです。悲惨であると思われる立場に置かれていても、必要なものは必ず与えられると信じることが大切なのではないかと思います。

 「思い悩むな」とイエスさまは言われます。空の鳥、野の花をたとえに用いて、私たちにわかりやすく、必要なものは必ず与えられるということを教えてくださっているのです。空を飛ぶ鳥を見る時、美しい花たちを見る時、私たちは、神さまの御業を思い、鳥や花のように私たち人間を神さまは大切にしてくださっているのだということを感じることができるのです。

 最後に、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」とイエスさまは言われました。人々が苦労をして日々生きていることをイエスさまはご存じだったのだと思います。その日の苦労はその日だけで十分なのだから、明日のことを思い悩んで心の負担にしてはいけない、と言われているのかもしれません。

今日は花の日礼拝です。明日枯れるか、いつ枯れるか、などと思い悩まず、今を精一杯輝かせている花たちから、「思い悩むな」ということを学ぶ者でありたいと思います。あらゆる「思い悩み」から解き放たれて、花のように思い悩まず生きていく人生を歩む者でありたいと思います。

   2023年6月11日 花の日礼拝 聖霊降臨節第3主日 平島禎子牧師


 ペンテコステによって、ペトロを中心とした120人ほど(1:15)の集団に3000人ほど(2:41)の仲間が加わり、教会が誕生しました。

しかし初めからユダヤ教の会堂のような建物、わたしたちがよく知っているような教会があったわけではありません。今日の聖書は最初の頃の様子をよく伝えてくれています。

 教会が誕生した、といっても、それはイエスをキリストと信じる集団が誕生したということで、違う神を信じる集団が誕生したのではありません。同じ神を信じていたのです。そこからキリスト教の新しいあり方が少しずつ誕生していったのです。

 一番最初は、同じ神を信じる礼拝を、毎日神殿で行っていたのです。そしてもうひとつ、家ごとに集まってパンを裂き、一緒に食事をし、神を賛美していたのです。そしてこれが地中海世界に広がっていったのです。やがて後者の、家での集会が、キリスト教の礼拝となり、そこが教会となっていったのだと思います。家の教会、の誕生です。

 現代でも、同じようにして、教会が誕生し、成長していくケースは多いのです。

児島教会もそうです。いろいろな家庭において礼拝が続けられ、そしてそれが、やがて会堂が建築されることになっていきます。

家の教会に集まっていた人たちはどんな感じだったでしょうか。先週来られた脊山姉の、礼拝後の挨拶を聞いていて、その当時の情景が思い浮かびました。もっとゆっくりお聞きしたかったです。おそらく約2000年前の家の教会も、あの頃の児島教会と同じように、熱く、楽しい、主にある交わりがなされていたのではないかと思います。

 ペンテコステに、約2000年前の教会の誕生を想起すると共に、児島教会の誕生を思い起こすようにと、神さまが脊山姉を送ってくださったのかも知れません。

聖霊の風を受けて、心を熱く燃やされ、初代教会の伝道を心に思いながら、今の時代、わたしたちの児島教会の歩みを、主に導かれながら、共にすすめて行く者でありたいと思います。

 

  2023年6月4日 聖霊降臨節第2主日礼拝 笹井健匡牧師