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 すったもんだの末、何はともあれオリンピックが始まりました。そして聖火がともされました。あの火が、文字通り、聖なる火となるように祈ります。

 今日の聖書は、有名な”メリバの水”のところです。この経験はイスラエルの民の心に深く刻まれました。飲み水は、私たち現代の日本人の想像をはるかに越える、貴重な大切なものでした。

 水を求める民に対して、神さまはモーセとアロンに、岩に命じて水を出すように言われました。しかしモーセは岩を2度打って水を出しました。神さまはあくまで言葉で命じて、水を出すように言われたのです。しかしモーセは、岩を打つという行為によって、しかも2度も打つという行為によって水を出しました。

10節の言葉にはモーセとアロンの心境がよく表れています。二人は民を反逆する者と呼び、「なんでおまえたちのような者のために、水を出さなければいけないのか、やってられねえ。」と言わんばかりの悪しき思いを持って、水を出しました。

二人の行為は、神への信仰から出た美しいものではなく、人間的な弱さから出た醜いものでした。そしてそれは結果的に、神さまの栄光を損なうものでしかなかったのです。これによって、二人は約束の地に入ることができなくなりました。

しかし神さまは、そんな人間同士の破れ合戦を通しても勝利されました。13節にあるように、この事件は、メリバ(争い)の水として後世まで語り継がれ、結果的に神さまが聖なる存在であることを雄弁に物語っているのです。

イエスさまの時代にも、この話はよく知られていたと思います。ヨハネ4章でサマリアの女性に対して、「わたしが与える水を飲む者は決して乾かない。…永遠の命に至る水がわき出る。」(14節)と言われました。

わたしたちは、イエスさまから命の水を与えられ、生かされていると言えるかも知れません。苦しみの中にある時、神さまに文句を言い、争いを挑みたくなる時、旧約の民と違って、イエスさまを仰ぎ見ることによって、魂の救いを得ることができます。

命の水を与えてくださる主イエスをしっかりと見つめて、心の渇きに打ち勝つ歩みをなしていく者でありたいと思います。

 

2021年7月25日 聖霊降臨節第10主日礼拝 笹井健匡牧師


 長い梅雨がようやく明けました。この辺りではあまりニュースになりませんが、四国では毎年のように水が十分に貯水されたかどうか、水不足問題が大きなニュースになっていました。水をめぐって自治体と自治体が対立し、協力ではなく、敵対で終わってしまうことが多かったように記憶しています。それはそれは非寛容な、残念なことでした。

 今日の聖書は、イエスさまがいかに寛容な方だったのかということをよく物語っています。めずらしくヨハネが発言しています。詳細は不明ですが、とにかくイエスさまにほめてもらおうとして、このような発言をしたのだと思われます。しかしイエスさまの答えは”NO”でした。

12人の弟子たちは、イエスさまから「特別に」悪霊を追い出す権能を授けられていると思っていました。そこに特権意識や閉鎖性が生じたかも知れませんが、ルカによる福音書を見ると、あくまでイエスさまのために、イエスさまの権威が守られるためにやったのかも知れません。しかしそれはとんだお門違いだったのです。

 民数記20:29には、同じような状況での、モーセの言葉が記されています。神さまから選ばれ、特別の使命と権能を授けられた存在は、決してそれを自身の特権として自慢したり、唯一無二のものとして誇ったりしないことがここにはよく表されています。後継者ヨシュアが、長老の中の二人が預言状態なので、やめさせてほしいと言ったのに対して、モーセは、主の民すべてが預言者になればよいと切望している、と答えます。真に神の使命に生きている人は、それを特権だなどとは夢にも思わず、むしろすべての人が自分と同じようになればいいと本気で思っているのです。

ここに真の寛容があります。神さまの愛を全身に感じることができたなら、そしてその愛に応えて生きて行こうとするならば、他者はあくまで仲間であり、友であるのです。キリスト教親派の方は、実は大勢おられます。そして一杯の水、どころか多くの尊いものをささげて、支えてくださっている方もおられます。大切なのは、たとえ状況がどんなに厳しくとも、守りに入り過ぎず、閉鎖的にならずに、あくまで信仰をもって、寛容であることだと思います。そしてやがてまた来る喜びの時まで、希望を持ち続け、イエスさまに従う歩みをなしていく者でありたいと思います。

 

2021年7月18日 聖霊降臨節第9主日礼拝 笹井健匡牧師


ローマの教会が具体的にどのような状態だったかは、はっきりとはしません。おそらく他の多くの地中海世界の教会と同じように、ディアスポラのユダヤ人の間に芽生え、成長と共に周囲の異邦人も参加するようになり、さらにその地の有力な信仰共同体として発展して行ったのではないかと思います。

パウロはいつか必ず訪問したいという熱い思いを込めてこの手紙を書いています。その意味では、自己紹介の目的もあったと思われます。なので、ローマの教会の、具体的な問題等はほとんど触れられず、パウロの信仰理解が中心になっています。その中で、今日の聖書の個所は、少しローマの教会のことを念頭に置いているのかなと思わせられる個所です。

14章から、信仰の弱い人と強い人についての記述が続いています。もしかしたらですが、当初教会に集った人々の中には、いわゆるユダヤ的なものをも大切にしようとしていた人々がいたのかも知れません。後から加わった異邦人信徒の多くは、そうしたユダヤ的なものに触れずに、飛び越えて、イエス・キリストの福音にダイレクトにつながった人々が多かったかも知れません。両者の間に食べ物や特定の日等についての考え方の相違があったかも知れません。そしてそれが軋轢を産んでいたかも知れません。

これも定かではないのですが、使徒言行録で言及されているプリスキラとアキラがコリントからローマに戻っていたとするならば、ローマの教会の課題についてもパウロがなにがしかのことを聞いていたかも知れません。いずれにしてもパウロは、この手紙の受け取り手の人たちと自分自身を強い者としています。しかしその信仰(の在り方)を弱い人たちに強要してはいけないと言うのです。そうではなく、重荷を負い合うように、その弱い人たちの弱さを担うべきことを教えます。

パウロは、自身は何でも食べますが、あえて自己満足を捨て、キリストにならって、隣人の喜ぶことを選択します。そして何より大切なのは、心を合わせて神をほめたたえることであると言います。

私たちが自己満足を越えて、他者を配慮し、互いに、心を合わせて神に向かうことができたとき、イエスさまは喜んでくださるに違いありません。

裁き合い、非難し合うことをやめ、尊敬し合い、愛し合うことを目標に、互いに心を合わせて、イエスさまにならって、神さまを信じて生きて行く者でありたいと思います。


2021年7月11日 聖霊降臨節第8主日礼拝 笹井健匡牧師


 今日、7月4日は、アメリカの独立記念日です。以前にもお話しました映画、「7月4日に生まれて」の中で、主人公が、誤って殺してしまった戦友の家族に謝罪した時、その戦友の連れ合いから「私は一生あなたをゆるさない。しかし神はゆるされるでしょう。」という言葉をかけられます。神は愛であることを見事に、雄弁に語っているシーンです。

 今日の聖書、7節から12節には、「愛」という言葉が15回も登場します。12節まで読んで、最後に7節に戻ると、結論として「互いに愛し合いましょう」という呼びかけがより明確になります。

 愛を阻むものは、いろいろありますが、その代表的なものとして「ゆるせない」という感情があるように思います。なかなか取り除くのが困難な感情ですが、どうしてもできない、というとき、先に挙げた映画の、「わたしにはできない、しかし神にはできる、神はゆるされる。」と思うのが大切かも知れません。

 10節にあるように、もともと神さまがイエスさまを遣わされたのは、わたしたちがすべての罪からゆるされるためでした。言い換えれば、神の愛は、わたしたちの罪をすべてゆるすということです。わたしたちは、心からゆるされたときに、はじめて本当に愛されていることを実感するのかも知れません。

 互いに愛し合いましょう、は言い換えれば、互いにゆるしあいましょう、ということになります。

 イエスさまによって、その無償の愛によって、すべてをゆるされた者として、自らも他者をゆるしていく者でありたいと思います。そして教会が、ゆるされた者の共同体として、互いにゆるしあい、愛し合う歩みを神さまと共にすすめて行きたいと思います。

 

2021年7月4日 聖霊降臨節第7主日礼拝 笹井健匡牧師