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「私にとってのイエス」 マルコによる福音書2章13~17節

 今年も部落解放祈りの日を迎えました。いろいろと考えた末、今から約33年前、1991年11月17日(日)に、今治教会で話した説教題と聖書の個所を再度取り上げることにしました。

 今日の聖書の律法学者の言葉「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(16節)という言葉は、当時のイスラエルの一般常識をよく表しています。それに対してイエスさまは「わたしが来たのは、…罪人を招くためである。」と言われました(17節)。

 罪人というのは、イエスさまの時代の被差別者たちです。徴税人はその代表的な存在で、他に皮なめし職人(使徒9:43)、行商や牧畜、その他種々のいわゆるマイナーな職業が存在します。イエスさまは、そのような当時のイスラエル社会の中で、厳しい差別にあっていた人々を招き、救われたのです。

 律法主義のファリサイ派の人々にとっては、あり得ないことでした。律法を忠実に守り、生活の隅々にまで行きわたらせることが彼らの目標であり、そのことを率先してやっている自分たちこそ、救われる存在だと自負していました。そんな彼らにとってイエスさまは大きな脅威だったに違いありません。3章6節では、早くもイエスさまへの殺意をむき出しにしています。

 長い信仰生活の中で、皆さんもそれぞれ自分なりのイエス像をもっておられることと思います。富士山が見る人によってその姿が変わるように、イエスさまも、キリストと信じる信仰は一緒でも、主にどの面を見るのかによって、現れるイエスさまの姿は変容します。

 信仰を持った初めのころ、私にとってのイエスさまは、よく分からない、でも自分を救ってくれる救い主、キリストでした。その後「しょうがい者」に関わるようになり、しょうがい、難病を癒される、真の愛の人という像が加わりました。召命を受け、献身し、浪人中に、部落差別と出会った私にとってのイエスさまはあらゆる罪、不条理、そして差別からの解放者となりました。それからあらゆる隔ての壁を取り壊し、真の和解(平和)を実現し、対等な共生社会を生み出して行くことがライフワークとなりました。

 不完全な33年の歩みでしたが、これからも曲がりくねりながら、遅々たる歩みを、私にとってのイエスさまに従って歩んで行く者でありたいと思います。

 

2024年7月14日 部落解放祈りの日(聖霊降臨節第9主日)礼拝

                           笹井健匡牧師


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