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「強い人と弱い人」 ローマの信徒への手紙15章1節

今日はこんなにきれいな花々に囲まれて礼拝をささげることができ、心から感謝いたします。ご準備してくださったみなさん、本当にありがとうございました。

「花鳥風月」という言葉がありますが、一説には、年齢を重ねると花鳥風月の順に、めでる、ようになるそうです。これは私の勝手な解釈ですが、自分の実感として「花」を好きになってきた感じがあります。もしかしたら、60代で鳥、70代で風、80代で月をめでるようになるのかもしれません。

心理学生時代の恩師はポール・トゥルニエという学者の専門家で、その代表作は「強い人と弱い人」です。私自身、人生の前半は「強い人」として生きてきたように思います。「弱い人」のことが、本当には分かっていなかったのだと思います。それで神さまは、私自身、人生の前半を「強い人」として歩むようにされたのではないかと思います。それで神さまは、私自身の人生の後半を「弱い人」として歩むようにされたのではないかと思います。しかし、そのことを受け入れるのに、15年かかってしまいました。これからの私の使命は、「弱い人」に寄り添い、共に生きることだと思っています。

今日の聖書は、信仰における、「強い人と弱い人」についてのパウロの結論が記されているところです。14章から「信仰の弱い人」と「信仰の強い人」について長い説明をし、最終的な結論として、強い者は、弱い者の弱さを担うべきだと言います。

キリスト教はユダヤ教の中からスタートしました。ですから特に、食べ物に関して、ユダヤ教の伝統をどうしてもそのまま引き継ぐ人たちも多くいたのです。しかしそのことで、裁き合うことになってしまっては、イエスさまが命を捨ててまで教えて下さった愛に従って歩んでない(14章15節)とパウロは言います。

現代を生きる私たちクリスチャンも、一人ひとり、さまざまな考え方、価値観をもっています。大切なのは、主イエス・キリストを信じることであり、その在り方は、多様であっていいのです。それが聖霊の働きなのです。

大きくて立派な花もあれば、小さいけれど可憐な花もあります。一本で凛としている花もあれば、あつまってより美しく見える花もあります。花々がそれぞれ精一杯自身を咲かせているように、私たちもそれぞれに与えられた賜物を生かして、自分なりの花を、信仰の花、希望の花、愛の花を咲かせたいと思います。そして教会が神さまの花畑になるように祈りたいと思います。

2017年6月18日 花の日礼拝 笹井健匡牧師

「私たちの中に」 エレミヤ書31章31~34節

エレミヤ書では、「民の心がかたくなで悪い」と繰り返し語られています。エレミヤは人間の罪深さと格闘した預言者でした。神はかたくなで悪い心を持つ「罪深い民」を救うために根源的なことをなされるということをエレミヤに告げました。「古い契約」は石の板に刻まれたものであり、書物に書かれたものでした。しかし、「新しい契約」は「私たちの中に」、「私たちの胸の中に、心の中に」記されるものであると言われるのです。私たちはもはや、外から律法が迫ってくることに対処することはなくなるのです。律法はすでに内面化されたものとして在るのです。「私たちの中に」すでに記されている髪から与えられた「新しい契約」によって、私たちは外側へと向かっていくようになるということではないかと思います。

「新しい契約」の成就として、イエスさまによる救いの業が私たちに与えられています。イエスさまの十字架の死によってすべての人の罪が赦され、復活によって新しい道を示され、聖霊降臨によって聖霊が私たちの中に入ってくるという出来事が起きました。そのイエスさまによる教え、救い、聖霊の働きを信じることができるのは、「私たちの中に」、「新しい契約」の言葉が刻まれているからではないかと思います。

意識、無意識といいますが、人間の意識(自意識)は海から突き出している氷山の一角であり、無意識は大部分が海の中にあるそうです。自分の中には「新しい契約」は記されていないと思う人もおられるかもしれませんが、それは意識化されないだけで、神さまから与えられた「新しい契約」はすべての人の中に刻まれているのであると思います。

しかし、時として、神さまを忘れ、この世の楽しみにのめりこみ、人に対してもつっけんどんになってしまうこともあるかもしれません。また厳しい現実の中で生きていくことの辛さを感じ、生きるのが嫌になることもあるかもしれません。どうしても許すことのできない人がいるかもしれません。また、どうせ人間は罪の塊なのだ、と開き直ることもあるかもしれません。しかし、自分のことは自分が一番よく知っているのです。どんなに堕落し、辛く、罪にさいなまれていたとしても、「新しい契約」が「私たちの中に」刻まれているのだ、ということを思い起こし、悔い改めて、神さまの愛の中でいきることができるようになるのではないかと思います。

「新しい契約」が「私たちの中に」刻まれていることを喜び、その喜びを人びとに伝えていく、そのような歩みをなしていく者でありたいと思います。

2017年6月11日 聖霊降臨節第2主日 平島禎子牧師

「聖霊の賜物」 コリントの信徒への手紙一12章4~7節

ペンテコステおめでとうございます。

本来なら、ハッピバースデー トゥ 教会 と言うべきかもしれません。今から約2000年前に、復活の主が約束された聖霊が降臨し、この地上に教会が誕生したのです。

聖霊というと、みなさんはどんなイメージをもたれるでしょうか。風、雨、息等さまざまなふうに例えられます。しかしイメージすることも大切ですが、本来人間に分かりにくいことをあれこれ考えるよりも、実際みんなに分かるかたちであらわれる、聖霊の賜物のことを思うほうがいいかも知れません。

今日の聖書には、その賜物について書いてあります。省略しましたが、8節以下には、当時、大切な賜物、代表的な賜物と考えられていたものが列挙されています。現代のクリスチャンにの私たちには、ちょっと、と思えるようなものもありますが、しかし大切なのは、それらの力が、聖霊によって、つまり神さまから与えられているということです。

現代の社会においては、また現代にふさわしい賜物が一人ひとりに与えられているのだと思います。どれが尊いとか、大事とか、そういうことではありません。
神さまは、一人ひとりにもっとも良き賜物を与えて下さっているのです。

よく言われることですが、私は弱ってしまって、あるいは高齢になり、何も奉仕ができません。賜物を生かす、なんて言われても無理です、と。しかし、それでも祈ることはできます。しかし、祈りが最後ではありません。病のため、祈ることすらできない状態になることもあります。しかし、その人が存在している、そこにおられる、それだけでも賜物を生かしているのです。さらに言うならば、最後に天に召された後も、残る賜物があります。それは記憶です。

その人が生きていた信仰の証しは、決して消えることはありません。それどころか代々教会において、語り継がれて行くのです。後に続く信仰者を勇気づけ、慰め、励まし続けるのです。

今年も一人ひとりが聖霊を受け、そして与えられた賜物を生かして、これからの信仰生活を豊かに送って行くことができるように祈りたいと思います。

2017年6月4日 ペンテコステ礼拝 笹井健匡牧師