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「祈りの実」 ヘブライ人への手紙11章1~3節

 聖霊降臨節も第5主日を迎えました。聖霊は見ることができません。そもそも信仰も見ることができません。そして信仰の大切な核である「祈り」も見ることができません。

 私たち信仰者は、言わば「見えないもの」を信じて生きている不思議な存在です。今日の聖書は、この後膨大な数の信仰の先達たちを記していきます。約2千年前に誕生した教会にとっては、それは大きな信仰の支えだったのかも知れません。

翻って私たち今を生きる信仰者にとっては、自分が実際に出会って来た信仰者たちこそが、自らの信仰の支えになっているかも知れません。しかし、もはや長い信仰生活を送って来た者にとっては、これまでの自身の信仰の歩みこそが、つまり自分自身こそが、何よりも確かな信仰の証になっているのだと思います。

 とはいえ、信仰は見えないものであり、その意味で不確かでもあります。そしてその信仰生活の中心にある「祈り」も、同じ意味で実感を持ちにくい面があります。

 それぞれの人生の中で、どのような「祈り」をささげて来られたでしょうか。何度も言葉にしたものもあれば、「思い」のような非言語のままで心深く持ち続けられたものもあるかも知れません。

 今日の聖書の1節の冒頭は、「祈り」にも置き換えられると思います。目には見えなくても、望んでいることを確信することが祈りです。祈りが聞かれない、ということをよく聞きますが、本当にそうでしょうか。時に違う形でかなっていたり、また、祈り続けるその行為そのものによって実はすでにかなったと同じことだったりするものです。つまり祈ることによって、過去の自分を越えて、新しい地点に達している、それによって、実は祈りの課題は克服されている、そういうことがあるのだと思います。そしてそうした言わば自身の成長した姿こそ、祈った結果であり、祈りの実と言えるのではないでしょうか。

 これからの世界、また私たち一人ひとりの人生もどのようなことが待っているかは分かりませんが、どんな時も、神さまへの祈りをささげ、何があっても祈り続け、それぞれの信仰の歩みを前に進めて行く者でありたいと思います。

 

   2024年6月16日 聖霊降臨節第5主日礼拝 笹井健匡牧師


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