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 イースターおめでとうございます。やっと、長い受難節を終えることができました。本来なら、もっと心から喜びを爆発させたいところですが、今年はそうも行きません。聖餐式、愛餐会もできなくなってしまいました。しかしその分、心の中では、イエスさまの復活を、いつも以上に喜びたいと思います。
 復活がなければ、つまり十字架で終わっていたら、キリスト教は誕生しなかったと言えると思います。各福音書がいろいろな復活を記していますが、なかには外側にいる人々からすれば、「そんなのは幻、幻想」と言われかねないものも、確かにあります。
 ヨハネ福音書でも、最初の復活、つまりマグダラのマリアと弟子たちへの顕現、そして8日後のトマスへの顕現は、信じない外側の人々から見れば、「あやしい」出来事に過ぎないかも知れません。しかし今日の聖書、つまり3度目の復活の話は、大変具体的であり、エルサレムから遠く離れたガリラヤ湖で起こっており、一緒に朝食を食べられたのです。そして、まだこの後も、やりとりが続きます。
 2度の復活の後、なぜ彼らはガリラヤに行ったのか、はっきりとはしません。ただ、マルコ福音書には、復活の主イエスが先にガリラヤに行かれ、そこで会えることを記しています(16:7)。とにかく2度の復活を経験しても、弟子たちはまだ動き出しません。それはペンテコステを待たなければということです。
 153匹の魚の意味や、復活の主イエスが食事をされること等に心を奪われてしまいますが、ひとつ重要な情報が、ここには含まれています。それは、復活の主イエスは、生前とは「見た目」が違うということです。しかし弟子たちは、心でイエスさまであることが、分かった、のだと思います。生前知っている姿とは何か違うけれども、確かにイエスさまだ、という感じです。
 復活、それはキリスト教の始まりであり、最初期の福音伝道の中心メッセージでした。しかし2千年という年月を経て、現実問題としては、つまりキリスト教の入り口としては残念ながら、躓きになってしまうことがあります。私自身の場合も、洗礼を受ける時、イエスさまを救い主と信じる、という一点だけでした。復活は、その後、信仰生活を続けて行く中で、そして信仰者となって聖書を読んで行く中で、信じる事ができるようになって行ったように思います。
 イエスさまの復活を喜び、そのことによって示された神の愛を人々に伝えて行く者でありたいと思います。

2020年4月12日 イースター礼拝 笹井健匡牧師

説教題「低き王」       聖書 ヨハネによる福音書12章12~19節

 新しい2020年度の最初の主日は、棕櫚の主日となりました。1日(水)の祈祷会の時は、雨が降り、そしてこれからの新年度のスタートが、受難週からになるというのは、何とも言えませんが、光を信じて、この受難週を最後まで歩み切り、イースターの良き日を迎えたいと思います。
 ヨハネによる福音書には、他の福音書にはない、ラザロに関する記述があります。そのことによって、イエスさまがエルサレムに入城されるとき、より大勢の群衆が出迎えたのだと記されています。そして最後には、ファリサイ派の人々の落胆が記されています。
 しかし中心は、あくまでもイエスさまがろばの子に乗って入城された、というところにあると思います。これは全福音書に共通するものです。15節の言葉はゼカリヤ書9章9節からの引用です。そこでは、人々に大いに踊り、歓呼の声をあげるよう記されています。それは「王」が来られるかだと言うのです。そしてその王は神に従い、勝利を与えられた者であり、高ぶることなく、ろばの子に乗って来られる、と記されています。
 通常の王の入場は、馬に乗って行われるものでした。しかも当然、とびきり立派な馬に乗って。しかしイエスさまは馬ではなく、ろば、しかも子どものろばを選ばれたのです。さらにゼカリヤの預言を越えているのは、この先に十字架の死が待っていることを覚悟されてろばの子に乗られた、という点です。
 この先に受難が待ち受けているにも関わらず、イエスさまは預言どおり、ろばの子に乗って、歩みをすすめて行かれました。一緒にいた弟子たちは、いったい何が起きているのか全く理解できませんでした。復活の主と出会う、喜びの時、イースターを迎えて、はじめてすべてのことが腑に落ちたのです。
 馬小屋に生まれられ、貧しい大工として働かれ、そして、多くの人の病をいやされた、そのイエスさまの最後に待っていたのは十字架だったのです。言わば、徹底して低きを生き、歩まれた方、それが私たちの救い主イエスさまであり、言うならば「低き王」と言えるのではないかと思います。
 受難節最後のこの受難週を最後まで歩み切り、イースターの喜びの日を共に迎えたいと思います。

2020年4月5日 棕櫚の主日礼拝 笹井健匡牧師   

 新しい2020年度の最初の主日は、棕櫚の主日となりました。1日(水)の祈祷会の時は、雨が降り、そしてこれからの新年度のスタートが、受難週からになるというのは、何とも言えませんが、光を信じて、この受難週を最後まで歩み切り、イースターの良き日を迎えたいと思います。
 ヨハネによる福音書には、他の福音書にはない、ラザロに関する記述があります。そのことによって、イエスさまがエルサレムに入城されるとき、より大勢の群衆が出迎えたのだと記されています。そして最後には、ファリサイ派の人々の落胆が記されています。
 しかし中心は、あくまでもイエスさまがろばの子に乗って入城された、というところにあると思います。これは全福音書に共通するものです。15節の言葉はゼカリヤ書9章9節からの引用です。そこでは、人々に大いに踊り、歓呼の声をあげるよう記されています。それは「王」が来られるかだと言うのです。そしてその王は神に従い、勝利を与えられた者であり、高ぶることなく、ろばの子に乗って来られる、と記されています。
 通常の王の入場は、馬に乗って行われるものでした。しかも当然、とびきり立派な馬に乗って。しかしイエスさまは馬ではなく、ろば、しかも子どものろばを選ばれたのです。さらにゼカリヤの預言を越えているのは、この先に十字架の死が待っていることを覚悟されてろばの子に乗られた、という点です。
 この先に受難が待ち受けているにも関わらず、イエスさまは預言どおり、ろばの子に乗って、歩みをすすめて行かれました。一緒にいた弟子たちは、いったい何が起きているのか全く理解できませんでした。復活の主と出会う、喜びの時、イースターを迎えて、はじめてすべてのことが腑に落ちたのです。
 馬小屋に生まれられ、貧しい大工として働かれ、そして、多くの人の病をいやされた、そのイエスさまの最後に待っていたのは十字架だったのです。言わば、徹底して低きを生き、歩まれた方、それが私たちの救い主イエスさまであり、言うならば「低き王」と言えるのではないかと思います。
 受難節最後のこの受難週を最後まで歩み切り、イースターの喜びの日を共に迎えたいと思います。

2020年4月5日 棕櫚の主日礼拝          笹井健匡牧師

 児島教会創立72周年、おめでとうございます。今年はちょうど3月29日の創立記念日に礼拝をささげることができました。…中略…。
 これまで多くの姉妹兄弟たちが、そして教師たちが、人間的に見れば様々な破れや、弱さがあったとしても、また時には大変厳しい対立や、出来事があったとしても、神を信じて、そしてその神を愛し、信仰の友を愛して歴史を刻んで来たからこそ、今日があるのだと思います。
 今日の聖書には、2010年7月19日、献堂式記念の栞に書かれた言葉「神は愛です」が含まれています。
 ヨハネによる福音書とヨハネの手紙は内容的に通じるところが多いのですが、なんと言ってもそれは「愛」を中心に書かれているからです。
 21節には「掟」という言葉がありますが、その源泉は、ヨハネによる福音書13章に示されたイエスの愛であり、特に34節に「新しい掟」として「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と記されています。
 今、全世界が「恐れ」の中にあるように思われますが、18節にあるように愛には恐れがないのです。もちろん、この世を生きて行く以上、様々な問題に直面し、ときに戸惑うこともあります。しかし、そんな時こそ、私たちはイエスさまによって示された神の愛を思い出しましょう。神が私たちを愛して下さっているのですから、もはや何も恐れるものはないのです。
 そして20節にあるように、神への愛と友への愛は不可分です。それは福音書にも記されている通りです。神を愛し、隣人を愛して生きるのが、私たちクリスチャンの生き方です。
 最初に言いましたように、今日、児島教会は72歳の誕生日を迎えました。これまで神さまに愛され、ここまで歩みを導いて下さったことに心から感謝をし、新しく歩み出す、これからの歩みの上にも、必ず神の愛が注がれることを確信し、私たちも応答として、神を愛し、人を愛して、信仰の歩みを続けて行く者でありたいと思います。

2020年3月29日 教会創立72周年記念礼拝    笹井健匡牧師