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「 復 活 」  ヨハネによる福音書21章1~14節

 イースターおめでとうございます。やっと、長い受難節を終えることができました。本来なら、もっと心から喜びを爆発させたいところですが、今年はそうも行きません。聖餐式、愛餐会もできなくなってしまいました。しかしその分、心の中では、イエスさまの復活を、いつも以上に喜びたいと思います。
 復活がなければ、つまり十字架で終わっていたら、キリスト教は誕生しなかったと言えると思います。各福音書がいろいろな復活を記していますが、なかには外側にいる人々からすれば、「そんなのは幻、幻想」と言われかねないものも、確かにあります。
 ヨハネ福音書でも、最初の復活、つまりマグダラのマリアと弟子たちへの顕現、そして8日後のトマスへの顕現は、信じない外側の人々から見れば、「あやしい」出来事に過ぎないかも知れません。しかし今日の聖書、つまり3度目の復活の話は、大変具体的であり、エルサレムから遠く離れたガリラヤ湖で起こっており、一緒に朝食を食べられたのです。そして、まだこの後も、やりとりが続きます。
 2度の復活の後、なぜ彼らはガリラヤに行ったのか、はっきりとはしません。ただ、マルコ福音書には、復活の主イエスが先にガリラヤに行かれ、そこで会えることを記しています(16:7)。とにかく2度の復活を経験しても、弟子たちはまだ動き出しません。それはペンテコステを待たなければということです。
 153匹の魚の意味や、復活の主イエスが食事をされること等に心を奪われてしまいますが、ひとつ重要な情報が、ここには含まれています。それは、復活の主イエスは、生前とは「見た目」が違うということです。しかし弟子たちは、心でイエスさまであることが、分かった、のだと思います。生前知っている姿とは何か違うけれども、確かにイエスさまだ、という感じです。
 復活、それはキリスト教の始まりであり、最初期の福音伝道の中心メッセージでした。しかし2千年という年月を経て、現実問題としては、つまりキリスト教の入り口としては残念ながら、躓きになってしまうことがあります。私自身の場合も、洗礼を受ける時、イエスさまを救い主と信じる、という一点だけでした。復活は、その後、信仰生活を続けて行く中で、そして信仰者となって聖書を読んで行く中で、信じる事ができるようになって行ったように思います。
 イエスさまの復活を喜び、そのことによって示された神の愛を人々に伝えて行く者でありたいと思います。

2020年4月12日 イースター礼拝 笹井健匡牧師

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