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「見えるということ」 ヨハネによる福音書9章35~41節

 今日の聖書の箇所は9章の最後の部分ですが、9章全体が一つの話となっています。ここには、イエスさまが生まれつき目が見えなかった人の目を見えるようにされたことが記されています。生まれつき目が見えなかった人は、イエスさまによって、肉眼を癒してもらいました。物理的に見えるようになったのです。それは、想像できないくらい、とても嬉しいことであったと思います。皆は、その人の癒しを共に喜ぶべきであったのではないかと思います。しかし、その奇跡の不思議さによって、驚きと怪しみしか周囲には伝わらなかったのです。見えるようになった人は、宗教的指導者であるファリサイ派の人たちから尋問を受け、自分を癒したイエスさまを罪人であると言うようにと迫られますが、この人にはそれができませんでした。自分の身に起きた奇跡は、罪ある人がなせる業ではないと信じたからです。この人は、そのため会堂から追放されますが、そこでイエスと再び出会います。二回目の出会いでしたが、この人にはそれがわかりませんでした。イエスさまから、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」(37節)と言われ、心の眼が開かれたのではないかと思います。目の前にいる知らない人だと思って話をしていた人が、実はイエスさまだったのだ、と驚きと喜びをもって、イエスさまを直接見ることができたのではないかと思います。

 見えるということは、単に物理的に見えるということではなく、心の眼を開かれて、物事の本質が見えるということではないかと思います。私たちは物理的にイエスさまを見ることはできません。しかし、聖書を読み、祈ることによって、心の眼を開かれ、イエスさまを直接見ることができるようになるのではないでしょうか。見えるということは、心の眼が開かれることなくしては、なされないものであると思います。心の眼を開いていただき、主イエスを仰ぎ見る者でありたいと思います。 

 

  2024年2月25日 受難節第2主日 平島禎子牧師(文責)


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