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 今年もこうして野外礼拝を行うことができ、大変うれしいです。特に今年は、児島(児島半島、児島湾等広い意味で)のピスガとも言うべき金甲山で礼拝しています。見慣れた瀬戸内海の景色がまるで違って見えます。…。

 イエスさまも、もちろん会堂でも教えられましたが、屋外でもよく教えられました。湖のほとり、平野、等々。そしてマタイでは、山で教えられたことが大きく記されています(5~7章:山上説教)。そこには弟子たちと一緒に、大勢の群衆が集まって来ていました。イスラエルとその周辺地域から、おびただしい人々がイエスさまに従っていたのです。その様子は、まるで飼う者のない羊のような状況でした。人々は、精神的にも肉体的にも大きな不安を抱えて生きていたのです。そんな人々に対してイエスさまが開口一番言われたのが、「幸いだ!」という言葉です。原文では、この「幸いだ」(マカリオイ)という言葉が強調構文として、文の最初に置かれています。列挙されている「こういう人」は、もちろん一つひとつ大切な意味があります。しかしもともとは、そこに集まって来た人々に対して、いろいろあってもあなたがたは幸いなんだ、大丈夫だ、とまずそこにいる人々を全肯定されたことがメッセージの中心にあるのだと思います。病気や苦しみに悩む者をいやされ、そしてその人々に、もともと本来は、あなたたちは、神に愛されている幸せな存在なんだ、幸せ者なんだと言われたのではないかと思います。

 イエスさまに出会うことが出来、病をいやされ、苦しみから解放された人々は、本当に幸せ者だったと思います。それまで飼う者のない羊のような状態だった人が、もう一度神を信じ、希望をもって生きて行く者へと変えられたのです。

 私たちも、イエスさまから招かれ、イエスさまと一緒に生きる者へと変えられた者です。そういう意味では、私たちも「幸せ者」です。イエスさまと出会うことができたこの幸せを、自らの人生を通して人々に証しし、伝えて行けるよう、信仰の歩みを共に助け合い、励まし合いながら、前にすすめて行く者でありたいと思います。

 

2021年10月31日 野外礼拝(於:金甲山) 笹井健匡牧師


 神との平和に生きる者は、神の栄光にあずかる「希望」を誇る者であるというのです。クリスチャンの抱く「希望」とは、神の栄光にあずかること、神の国に招き入れられることを意味しているのであろうと思います。何のいさおしもない者を神さまはイエスさまを通して救い、導き、やがては神の国へと招き入れてくださるのです。しかし、そのことで傲慢になるのは間違いです。パウロは人間の誇りは取り除かれた(ローマ3・27)と言っています。私たちは私の誇りをすべて取り除かれ、神の国へと入れられる「希望」を誇る者となったのです。

そしてパウロは「苦難をも誇りとする」と言っています。自分の苦しみを誇るというのです。苦難というものは本当に嫌なものです。できるなら避けて通りたいものです。しかし、そのような「苦難」を誇りとし、「苦難」は「忍耐」を、「忍耐」は「練達」を、「練達」は「希望」を生むのだというのです。クリスチャンはこの世の外ではなく、この世のただ中で生きる者です。この世には、私たちを苦しめ、悩ませ、圧迫するものが満ちているのです。しかし、そのような「苦難」から逃げるのではなく、「忍耐」をもって対することが大事なのであろうと思います。「苦難」の中にあっても神を信じ、神により頼んでいくということをなし、忍耐強く生きることによって、人は「練達」し、前の自分より強くなった自分となり、「希望」を持ち、誇ることができるようになるのです。

5節には、「希望はわたしたちを欺くことはありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」と記されています。「愛が注がれる」ということほど幸せなことはありません。それだからこそ、私たちの持つ「希望」は、私たちを欺かないのです。「希望」を持って生きていく者の幸いがここに記されているのではないかと思います。

クリスチャンにとっての「希望」とは神の国に入れられることです。しかし、ルカによる福音書17章20節後半から21節において、イエスさまは、「神の国は、見える形では来ない。… 実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と言われています。イエスさまのいわれる「あなたがたの間にある神の国」に入れられることもまた「希望」です。教会は神の国の先取りであるとも言えるかもしれません。「神の国」の先取りである「教会」が成長していくということもまた、大切な「希望」ではないでしょうか。私たちの小さな群れが、「神の国」の先取りとして成長していく「希望」を持つ者でありたいと思います。そして、希望は決して欺かないということを信じ、忍耐を持って教会生活をなしていく者でありたいと思います。

 

 

2021年10月24日 降誕前第9主日礼拝 平島禎子牧師


父、笹井一(はじめ)が10月8日(金)に永眠しました。87年と7カ月の人生でした。10日(日)午後、故郷で葬りの業が行われました。

今日の聖書はパウロ(またはその弟子)がアジア州またはその周辺の諸教会に宛てて書かれたものです。

15節を見ると、初代教会が、イエスさまを信じることと、互いに愛し合うことを中心としていたことがうかがい知れます。そして19節以下にあるように、神の力がキリストを復活させ、そのキリストを教会に与えられたこと、したがって教会は神の愛が満ちているキリストの体であることが述べられています。

キリストの体というと、コリント一12:12以下の印象的な記述を思い起こします。そこでは、教会を構成する人々が「頭」「目」「耳」「足」等に例えられ、様々な役割があることが述べられています。

今回私は、キリストの体、という言葉から、マルコ3:31以下を思い起こしました。肉親の家族が面会に来た時に、イエスさまは、ここに家族がいる、神の御心を行う人こそ家族だと言われました。

教会は、そこに集う人々は、イエスさまの家族、つまり神の家族です。このことは、浮世を生きて行く私たちに、ものすごい大きな力、この世を生き抜く力を与えてくれます。

7年9カ月前に母が永眠したときも、不思議な感覚を得たのを覚えています。当時伊予小松教会に、何人か母と同世代の方が居られました。たくさんいる母の内の一人が亡くなった、というのが正直な感覚でした。今回も、児島教会はもちろん、他教会の関係者等にもたくさんの父がいて、その信仰の交わりによって、力強く支えられていることを実感しています。

神さまがイエスさまをこの世に与えられ、その体として教会を与えて下さったことは、他の何にも代えがたい大いなる喜びです。

イエスさまを信じ、互いに愛し合って、キリストの体である教会につらなってこれからも歩み続けて行く者でありたいと思います。

 

2021年10月17日 聖霊降臨節第22主日礼拝 笹井健匡牧師


説教題「近くにおられる神」 申命記4章1~8節

 

今日の聖書の最後の方には、神さまが近くにおられる、ということが記されています。それは、出エジプトをなし、荒れ野の40年間の旅をしたイスラエルの民と神さまとの関係から来るものであろうと思います。その中で、神さまが民に「律法」を与えられたという大きな出来事が、神さまから人間への近しい関与であったといえるのではないかと思います。

1節には、「イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。」と記されています。この箇所の冒頭は、原文では、「イスラエルよ、掟と法に聞け。」となっているそうです。「聞く」ことは、神と人間の関係の中で、最も大切なことです。聞いて、守り、行うということが申命記の信仰理解です。神さまに聞くことなしに、「行え」ということが先にくると、ただ律法を守ることのみが目的となり、その目的を果たせば幸せになるというご利益宗教に陥ってしまう危険があります。神さまに聞くということを大切にしなければならないと思わされます。

7節には、「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神」と記されています。偉大な神は遠く離れたところではなく、われわれの近くにおられる神なのです。近くにおられるからこそ、イスラエルの民が掟と法を受け取ることができたのです。

私たちの神は「近くにおられる神」です。呼び求めれば、応えてくださる方です。しかし、誤った願いは退けられます。私たちは、神さまの前に罪を犯すことがあるかもしれません。

近くにいてくださる神さまのことを忘れてしまうこともあるかもしれません。その度に、神さまは怒られ、嘆かれ、悲しまれておられるかもしれません。そのような人間の罪のために神さまはその独り子であるイエスさまを地上に遣わしてくださったのです。イエスさまは、「インマヌエル」と呼ばれる方です。インマヌエルとは「神はわれわれと共におられる」という意味です。(マタイ1・23) 目には見えないが近くにおられる神さまが、目に見える形で地上に送られたのがイエスさまです。イエスさまによって、律法は本来の意味を取り戻し、イエスさまを信じるとによって救われるという道が開かれたのです。

イエスさまは律法を成就するために来られました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成させるためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、

天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去るとはない。…」(マタイ5・17)と言われました。律法の成就者としてイエスさまは来られたのです。そのイエスさまは私たちと共にいてくださる方、近くにおられる神を指し示す方なのです。

私たちは、近くにおられる神さまに「聞く」ということを大事しなければなりません。神さまの言葉を直接聞くとはできませんが、聖書に書かれているみ言葉に聞き、神さまの思い

を知り、行い、神さまに喜ばれる、そのような信仰者としての歩みをなしていくことができるように祈る者でありたいと思います。

2021年10月10日 聖霊降臨節第21主日 平島禎子牧師


 人類の歴史の一つの大きな特徴は、言葉にあります。様々な経験から習得してきた大切なもの、倫理、道徳、価値観等を言葉にして、後代に残して来ました。ある意味、律法はその代表的なものと言えるかも知れません。

 マタイによる福音書は、5章からの山上の説教において、律法に代わるイエスさまの教えを集約して示しました。今日の聖書は、その最後の教えになります。

 「狭い門」と「広い門」、「良い木」と「悪い木」で、救われる者と滅びる者を対比させ、直前の21節以下ではイエスさまの名前を呼ぶだけでは救われないことを明言します。そして今日のところで、イエスさまの言葉を聞いて行う者、すなわち一連の山上の説教で教えられた隣人愛を実践する者こそが、ずっと救いにあずかることができると言われています。それに対して「砂の上に家を建てた愚かな人」は、種まきのたとえの石だらけの所に蒔かれたものに似ています。根がないため、艱難や迫害が起こるとすぐつまずいてしまうのです。

 愛の実践は、その根を伸ばして行くことかも知れません。実践すればするほど、根は太く長く伸び、何があっても大丈夫になるのかも知れません。

 人類は長い歴史を通して多くのことを学んで来ました。それでもまだ懲りないのが人間だと言えるかも知れません。しかしもうそろそろ、何を土台に基礎にして世界を形成していくのか、分かり始めているようにも思います。

 私たちは、イエスさまに招かれたことによって、イエスさまに救われ、愛されたことによって、互いに愛し合うことこそ、隣人愛こそが大切であることを知らされました。隣人愛こそ、これからの世界の礎にふさわしいと思います。

 これからも世界が持続可能な世界として続いて行くために、先に愛を知らされ、その内に生かされる喜びを知った者として、世界の礎に愛という岩を据えて行く為、祈りながらできることを為して行きたいと思います。

 

2021年10月3日 聖霊降臨節第20主日礼拝 笹井健匡牧師