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「キリストの体」 エフェソの信徒への手紙1章15~23節

父、笹井一(はじめ)が10月8日(金)に永眠しました。87年と7カ月の人生でした。10日(日)午後、故郷で葬りの業が行われました。

今日の聖書はパウロ(またはその弟子)がアジア州またはその周辺の諸教会に宛てて書かれたものです。

15節を見ると、初代教会が、イエスさまを信じることと、互いに愛し合うことを中心としていたことがうかがい知れます。そして19節以下にあるように、神の力がキリストを復活させ、そのキリストを教会に与えられたこと、したがって教会は神の愛が満ちているキリストの体であることが述べられています。

キリストの体というと、コリント一12:12以下の印象的な記述を思い起こします。そこでは、教会を構成する人々が「頭」「目」「耳」「足」等に例えられ、様々な役割があることが述べられています。

今回私は、キリストの体、という言葉から、マルコ3:31以下を思い起こしました。肉親の家族が面会に来た時に、イエスさまは、ここに家族がいる、神の御心を行う人こそ家族だと言われました。

教会は、そこに集う人々は、イエスさまの家族、つまり神の家族です。このことは、浮世を生きて行く私たちに、ものすごい大きな力、この世を生き抜く力を与えてくれます。

7年9カ月前に母が永眠したときも、不思議な感覚を得たのを覚えています。当時伊予小松教会に、何人か母と同世代の方が居られました。たくさんいる母の内の一人が亡くなった、というのが正直な感覚でした。今回も、児島教会はもちろん、他教会の関係者等にもたくさんの父がいて、その信仰の交わりによって、力強く支えられていることを実感しています。

神さまがイエスさまをこの世に与えられ、その体として教会を与えて下さったことは、他の何にも代えがたい大いなる喜びです。

イエスさまを信じ、互いに愛し合って、キリストの体である教会につらなってこれからも歩み続けて行く者でありたいと思います。

 

2021年10月17日 聖霊降臨節第22主日礼拝 笹井健匡牧師


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