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「愛の星」 ルカによる福音書2章8~20節 
 
 アドベントクランツの5本のロウソクに火がともりました。
 今年は、キリスト教の暦通りに、クリスマスを迎えることができました。みなさんもアドベントのときを、ゆっくりと、じっくりと、過ごされたのではないかと思います。
 今日の聖書の個所は、羊飼いたちが登場する場面です。子どもたちのページェントでは一番人気のない、地味な役が羊飼いですが、しかしルカによる福音書は、その羊飼いたちに、一番に主イエスのご降誕が知らされたことが記されています。このことは、大きな意味をもっていると私は思います。
 そして、かれらは、赤ちゃんイエスに会いに行くのです。おそらく空には、多くの星がまたたいていたに違いありません。当時の人々は、星の巡りに従って夜でも移動、旅をすることができました。そして、イエスさまに出会い、神を賛美して帰って行ったのです。
 現代を生きる私たちは、地球が小さくなり、また多くの情報が入ってくる中で生きています。世界を見渡すと、とてもクリスマスなんか、祝えない、そんな気持ちになれないと思うことがあります。しかし、世界が闇に包まれているからこそ、クリスマスには、私たちの希望となるのだと思います。
 主イエスが誕生されたとき、空には多くの星が輝いていました。そしておそらく、マタイによる福音書を読むならば、ひときわ大きく輝く星があったことだろうと思わせられます。博士たちを導いたその星は、主イエスのご降誕を告げる星「愛の星」だったのだと思います。
 日本でも、私たちは、ふつうに、「あの人は、あんな星の下に生まれてかわいそうだ」とか「きっとわたしは、こんな星の下に生まれたんだ」とか言ったりします。私たちの救い主、この世の救い主である、主イエスはまさに「愛の星」の下に誕生されたのです。
 2000年の年月が流れました。いつになったら、・・・という思いを持ちがちな私たちですが、神さまの前には1日は千日のよう、千日は1日のようなものです。あきらめずに、主イエスを信じて、この地に御国が来たらんことを節に祈りながら、今年も1月6日までの公現日までの、クリスマスの時を過ごしたいと思います。
 そして、クリスマスの光、愛の光の中で、行く年を送り、くる年を迎えて行きたいと思います。

2016年12月25日 降誕節第1主日 クリスマス 笹井健匡牧師

「小さな者として」 マタイによる福音書25章31~49節

 ミカ書5章1節には、「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者」と言われています。しかし、その小さな町から「イスラエルを治めるいと小さき者が出る」と言うのであります。この預言の成就として、お生まれになったイエスさまの誕生の場というのは、ルカによる福音書2章1~7節を見ると、ベツレヘムにある宿屋のおそらく馬小屋であったことが記されています。イエスさまはベツレヘムという小さな町の宿屋の馬小屋で小さな者としてお生まれになったのです。
 マタイによる福音書25章31~40節には、最後の審判の時に、神の前に正しいとされた人達に対して、王であるイエスさまが述べられる言葉が記されています。35、36節には、正しい人たちをよしとされる言葉が述べられています。ここにあは、「助けを必要としている人間」に対してなされたあ「愛の業」が記されています。しかし、このような言葉をかけられた人たちは、それが何のことかわかりません。これらの人たちは、このような慈善の業をしたと誇ることなく、当たり前のこととしてしたのでしょう。自分で善行をしていると自負したとたん、それは偽善に変るのだと思います。これらの言葉をかけられた人たちは、驚き、いつ自分たちがそのようなことをしたのか、と訊き返しました。すると、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の1人にしたのは、わたしにしたのである。」と驚く人たちに答えられました。あらゆる貧しい人、危険にさらされている人、抑圧されている人、社会から疎外された人の中にイエスはおられ、それらの人たちに善き行いををしたことは、イエスにしたことと同じなのである、と言われるのです。日常生活の中で出会わされる子どもたち大人たちの中にもイエスを見出す者でありたいと思います。そして、表面化されないところで苦しんでいる人たち、孤立している人たちとの出会いを求め、それらの人たちと友となることができるように、祈り求めていきたいと思います。
 イエスさまは「小さな者として」私たちの世界にお生まれになりました。また、ここにいる私たち1人1人も「小さな者」であるかもしれません。しかし、イエスさまは、このような「小さな者」を救い、生かしてくださるのです。そして、私たちがより「小さな者」をを愛する行いをするように、背中を押してくださるのです。私たちの日常生活においでになるイエスさまを喜んでお迎えするあと1週間のアドベントの時、そのような心を培いながら歩む者でありたいと思います。

2016年12月18日 待降節第4主日 アドベントⅣ 平島禎子牧師

 「『裁き』から『救い』に」 ヨハネによる福音書3章16~21節

 アドベントクランツの三本のロウソクに火がともりました。
 8日(木)早朝、鴨居シヅエ姉が天に召されました。ご遺族の御意向で、家族葬というかたちで葬儀を行いました。
 式の最後に、お子さんが言われた「母は、若いころは父とよくケンカしていたが、晩年は、いいことだけしか覚えておらず、写真に、いい男!と書いておりました。」とあいさつで言われたことばが心に残りました。
 武公子牧師から、長久キヌエ姉が病院で出会われ、児島教会に連れて来られたことをお聞きしました。・・・。-中略ー
 今日の聖書には、神さまがイエスさまをこの世に送られたのは、「裁く」ためではなく、「救う」ためであると記されています。古代の神信仰は、多くの世界でそうですが、「恐れ」が中心にあります。そのため、祟らないようにとか、裁かれないようにとか、人類は、いろいろな宗教的儀式を生み出して来ました。しかし、イエスさまは、そうではなく、神の本質は「愛」であることを、それゆえご自身は、「裁き」ではなく、「救い」のために神から遣わされたことをよくよくご存知でした。しかも、その「救い」を開く道は、決して生易しいものではなく、十字架へと続く荊の道だったのです。
 私たちは、今一度このことを、つまりイエスさまが、世を裁くためではなく、世を救うために来られたことを心に深く刻みたいと思います。クリスマスは、だからこそ、大いなる喜びの出来事であるのですから・・・。
 教会は、いろいろな人が集まって出来ています。人間的な思いでは、なんであんなやつが、という思いをもつことも、牧師でさせあります。しかし、一人として不要な人はいないのです。神さまは、それぞれの教会に必要な人を集め、その信仰共同体が地域にあって、神の栄光を現し、イエスさまの愛の業を実践していくようにされているのです。いわば神の摂理によって私たちは出会い、そしてひとつの教会を、児島教会を形成しているのです。
 アドベントのこのとき、今年はゆっくりと、じっくりと、主イエスのご降誕の意味を共にかみしめていきたいと思います。そして、こころからの喜びをもって、クリスマスの良きときを迎えることができるように、一人ひとり心の備えをなしていく者でありたいと思います。

2016年12月11日 待降節第3主日 アドベントⅢ 笹井健匡牧師

「解放の光」 ルカによる福音書4章16~19節

 アドベントクランツの2本のロウソクに火がともりました。いつもの年ですと、あと1回しかアドベントがないのですが、今年は、ちょっとゆっくりというか、ゆったりし過ぎている自分がいます。こんなにちがうのかな、と不思議ですが、わたしは基本的に「あせり」なので、もうあと一回しかアドベントがない、とあせってしまうわけです。しかし今年は、まだ2回も、アドベントがある、とちょっと余裕があるわけです。それでもう一度、初心に帰って、じっくりとクリスマスを迎えて行きたいと思わされました。私の今年のテーマは「じっくりすます」です。そこでイエスさまは、どんな使命をもって、この世に誕生されたのか、神さまから遣わされた原点を考えてみたいと思います。
 今日の聖書18節には「貧しい人」という言葉が出て来て、その人たちに福音を告げるために、神さまはイエスさまを聖別された、とあります。「貧しい人」というのは、単に経済的な困難を指しているのではない、そのことは次の108頁をみればよくわかります。最後に「被圧迫者」を「自由」にすると記されています。文字通り獄にある人だけでなく、「律法」に縛られている人も連想されます。また、視覚しょうがい者だけではなく、様々なしょうがい、また難病の人たちのことが思われます。そしてローマ植民地であったために、今の沖縄と同じように、軍人によるさまざまな暴力があったことが目に浮かびます。
 そんな状況下で、主イエスは「主の恵みの年」を告げる、と言われたのだと思います。レビ記25章に詳しく書かれていますが、恵みの年とは、ヨベルの年のことであり、50年に一度、この年には全住民に解放の宣言がなされたのです。
 イエスさまは、ルカでは、宣教活動の最初に、しかもたった一人で、ふるさとに行かれました。そして殺されそうになったのです。マルコ、マタイでは、「預言者がふるさとで敬われないこと」が記されています。ルカでは命まで、落とされかけたのです。
 ヨハネ3:16~19には、人々が、「光」よりも「闇」を好んだことが記されています。私たちはどうでしょうか。…。
 すべての人を完全に解放する、まことの光として来られた主イエス。アドベントクランツに明かりを1本1本ともしながら、またアドベントカレンダーを一日一日開けて行きながら、主イエスを迎える、心の飼い葉桶を準備していく者でありたいと思います。

2016年12月4日 待降節第2主日 笹井健匡牧師