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「小さな者として」 マタイによる福音書25章31~49節

「小さな者として」 マタイによる福音書25章31~49節

 ミカ書5章1節には、「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者」と言われています。しかし、その小さな町から「イスラエルを治めるいと小さき者が出る」と言うのであります。この預言の成就として、お生まれになったイエスさまの誕生の場というのは、ルカによる福音書2章1~7節を見ると、ベツレヘムにある宿屋のおそらく馬小屋であったことが記されています。イエスさまはベツレヘムという小さな町の宿屋の馬小屋で小さな者としてお生まれになったのです。
 マタイによる福音書25章31~40節には、最後の審判の時に、神の前に正しいとされた人達に対して、王であるイエスさまが述べられる言葉が記されています。35、36節には、正しい人たちをよしとされる言葉が述べられています。ここにあは、「助けを必要としている人間」に対してなされたあ「愛の業」が記されています。しかし、このような言葉をかけられた人たちは、それが何のことかわかりません。これらの人たちは、このような慈善の業をしたと誇ることなく、当たり前のこととしてしたのでしょう。自分で善行をしていると自負したとたん、それは偽善に変るのだと思います。これらの言葉をかけられた人たちは、驚き、いつ自分たちがそのようなことをしたのか、と訊き返しました。すると、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の1人にしたのは、わたしにしたのである。」と驚く人たちに答えられました。あらゆる貧しい人、危険にさらされている人、抑圧されている人、社会から疎外された人の中にイエスはおられ、それらの人たちに善き行いををしたことは、イエスにしたことと同じなのである、と言われるのです。日常生活の中で出会わされる子どもたち大人たちの中にもイエスを見出す者でありたいと思います。そして、表面化されないところで苦しんでいる人たち、孤立している人たちとの出会いを求め、それらの人たちと友となることができるように、祈り求めていきたいと思います。
 イエスさまは「小さな者として」私たちの世界にお生まれになりました。また、ここにいる私たち1人1人も「小さな者」であるかもしれません。しかし、イエスさまは、このような「小さな者」を救い、生かしてくださるのです。そして、私たちがより「小さな者」をを愛する行いをするように、背中を押してくださるのです。私たちの日常生活においでになるイエスさまを喜んでお迎えするあと1週間のアドベントの時、そのような心を培いながら歩む者でありたいと思います。

2016年12月18日 待降節第4主日 アドベントⅣ 平島禎子牧師

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