• 記事検索

RSS

「『裁き』から『救い』に」 ヨハネによる福音書3章16~21節

 「『裁き』から『救い』に」 ヨハネによる福音書3章16~21節

 アドベントクランツの三本のロウソクに火がともりました。
 8日(木)早朝、鴨居シヅエ姉が天に召されました。ご遺族の御意向で、家族葬というかたちで葬儀を行いました。
 式の最後に、お子さんが言われた「母は、若いころは父とよくケンカしていたが、晩年は、いいことだけしか覚えておらず、写真に、いい男!と書いておりました。」とあいさつで言われたことばが心に残りました。
 武公子牧師から、長久キヌエ姉が病院で出会われ、児島教会に連れて来られたことをお聞きしました。・・・。-中略ー
 今日の聖書には、神さまがイエスさまをこの世に送られたのは、「裁く」ためではなく、「救う」ためであると記されています。古代の神信仰は、多くの世界でそうですが、「恐れ」が中心にあります。そのため、祟らないようにとか、裁かれないようにとか、人類は、いろいろな宗教的儀式を生み出して来ました。しかし、イエスさまは、そうではなく、神の本質は「愛」であることを、それゆえご自身は、「裁き」ではなく、「救い」のために神から遣わされたことをよくよくご存知でした。しかも、その「救い」を開く道は、決して生易しいものではなく、十字架へと続く荊の道だったのです。
 私たちは、今一度このことを、つまりイエスさまが、世を裁くためではなく、世を救うために来られたことを心に深く刻みたいと思います。クリスマスは、だからこそ、大いなる喜びの出来事であるのですから・・・。
 教会は、いろいろな人が集まって出来ています。人間的な思いでは、なんであんなやつが、という思いをもつことも、牧師でさせあります。しかし、一人として不要な人はいないのです。神さまは、それぞれの教会に必要な人を集め、その信仰共同体が地域にあって、神の栄光を現し、イエスさまの愛の業を実践していくようにされているのです。いわば神の摂理によって私たちは出会い、そしてひとつの教会を、児島教会を形成しているのです。
 アドベントのこのとき、今年はゆっくりと、じっくりと、主イエスのご降誕の意味を共にかみしめていきたいと思います。そして、こころからの喜びをもって、クリスマスの良きときを迎えることができるように、一人ひとり心の備えをなしていく者でありたいと思います。

2016年12月11日 待降節第3主日 アドベントⅢ 笹井健匡牧師

コメント
name.. :記憶
e-mail..
url..

画像認証
画像認証(表示されている文字列を入力してください):