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 クリスチャンの信仰生活の大きな柱は、言うまでもなく礼拝です。信仰生活が長くなって来ると、礼拝においてみ言葉をいただき、それを糧にして一週間を生きる、というのが生活のリズムとしてしみついて来ます。それはそれで良いことであり、大切なことでもあるのですが、「いただいて」→「生きる」ということだけになってしまうと、それは言わば受け身の信仰ということになるのではないでしょうか。
 もうひとつの大切なものに、「祈り」があります。礼拝が共同体としての教会の中心であるとするならば、「聖書を読み、祈ること」は、信仰者個人として最も大切なことなのかも知れません。礼拝が教会を成長させ、祈りは信仰者個人を成長させます。欠かすことのできない、二つの大切な両輪です。
 さらに祈りにも、ざっくり言って二つのものがあるように思います。一つは、神さまへの感謝です。これは礼拝と同じく受け身のものかも知れません。もう一つは、願いです。これは自分の方から神さまにお願いするわけで、その意味で受け身ではなく、能動的、主体的な信仰です。
 神さまは一人ひとりに必要なことをよくよくご存知であり、その時に応じて必要な物を下さいます。ですから基本的にはそのことを感謝して生きるのが、私たち信仰者の在り方だと思います。しかし、時に私たちは心からの願いを神さまに申し上げるのも大切なのかも知れません。必要十分なものはすでにいつもいただいているわけですが、その上に自らのオリジナルな願い、思いを持つのが私たち人間だからです。自由意志と言ってもいいかも知れません。
 今日の聖書は大変有名な個所です。自らの内にある心からの願いを神さまに求めることの大切さを改めて思わされます。この、私たちと神さまの関係は、赤ちゃんと親の関係に似ているかも知れません。ふだん満たされているとき、赤ちゃんは健やかですが、何かあると、泣くことで知らせ、それが聞き届けられると笑顔になるのです。決してわがままではありません。愛情のコミュニケーションです。そして自分がしてほしいことは、他の人も同じであることを知り、人にもして行く、隣人愛が大切であり、旧約聖書が告げていることだとマタイは記しています。イエスさまは律法と預言書を完成するために来られたからです。
 私たちも究極的には、具体的な願いの根底にある、愛を求めて愛を受けて、生きているのかも知れません。神さまを愛し、互いに愛し合って信仰の歩みをすすめて行く者でありたいと思います。
               2021年1月31日 降誕節第6主日礼拝 笹井健匡牧師

 説教題を考えるのは、楽しい反面、難しいことも多々あります。今日の聖書で言うと、見出しにあります「地の塩、世の光」が一番いいと、まず思うわけですが、何とか一ひねり等といろいろ考えてしまうのです。今回は思い切って縮めてみよう、そうだ「塩と光」でいい、と思いました。そして説教のための準備をしていると、ある専門書には「地の塩、世の光」は単に「塩と光」とも言う、とあって、何ともなあと複雑な気持ちになりました。
 旧約聖書の中心にある契約、つまり十戒をはじめとする律法ですが、この契約を「塩の契約」(民数記18:19、歴代誌下13:5)と表現しています。これは腐ることのない永遠の契約、という意味だと思います。おそらく捧げ物に塩をかける(レビ記2:13)ことから転じた言葉だと思われます。イエスさまはそのことをふまえて地の塩と言われたのだと思います。
 当時の塩は、死海の塩であり、現代のような精製技術がありませんので、時間の経過とともにその効き目が失われやすかったようです。だからこそ気をつけて、塩の効き目が持続するように、つまりこの世を腐らせないように地の塩としての役割を果たすように言われているのだと思います。
 光の方は、創世記冒頭の「光あれ」から、多くの書で、特にヨブ記や詩編で記されています。例えば詩編34篇6節では、信仰者は光と輝くことが歌われています。そして光を隠さないで、公にすることが勧められています。これはおそらく、当時荒れ野で隠遁生活をしていた諸集団との違いを強調されているのではないかと思います。洗礼者ヨハネは荒れ野にとどまりましたが、イエスさまは町々村々を巡回して宣教されました。
 立派な行い、と言われると、すぐ否定したくなりますが、自分の中にある光を人々に見せる、くらいに思えばいいのかも知れません。この光は、もともと真の光であるイエスさまからいただいたものです。私たちはイエスさまからいただいた光を受けて、心を磨いて、少しでもその光が多く反射するように、そして人々に届くように祈りながら歩めばいいのです。
 先が見えない、混迷を深めている時代だからこそ、イエスさまを信じて生きる者として、「塩と光」を大切に、信仰の歩みをすすめて行く者でありたいと思います。

              2021年1月24日 降誕節第5主日礼拝 笹井健匡牧師

 イエスさまは一人で、ガリラヤで宣教活動をなされ、集まってきた人々に、「神の国」、「神さまがこの世を治める時」が近づいているのだと言われ、そのために「悔い改め」るようにと語られました。「悔い改め」とは自分の所有だと思っていたものを捨て、神さまの方を向くことです。端的に言いますと、「神の国」の実現の時に向けて、「悔い改め」なさいと言うことであったろうと思います。
 イエスさまは話終わった後、一人でガリラヤ湖畔を歩いておられました。その時、漁師であるシモン(ペトロ)とその兄弟アンデレを御覧になり、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われました。当時のラビ、ユダヤ教の教師になろうとする学生は自分から師を探し、弟子にしてもらうというのが一般的なことでした。しかし、そのような既成の在り方とは全く異なる形で師が弟子たちを選ぶことをしたのです。ペトロたちはガリラヤ湖畔で魚をとる網のつくろいをしていた時に、イエスさまの話が聞こえてきたことがあったかもしれません。イエスさまの方もペトロたちの様子を見かけておられたかもしれません。そして「時」が来て、イエスさまの方から漁師たちに声をかけたのです。ヨハネによる福音書15章16節には、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と記されています。自分が思うより先に神さま、イエスさまの方から私たちは選ばれていたのです。
 ペトロたちの所有していたものは労働に必要な魚をとる網でした。しかし、イエスさまの呼びかけに応えて、網を捨て「すぐに」イエスさまに従いました。
 イエスさまは弟子に漁師を選び、弟子たちと共に宣教活動をなされ、時に弟子たちの家で、リラックスして楽しい会話のひと時を持つこともあったかもしれません。しかし外に出れば戦場のようなもので、イエスさまに敵対する人たちと論戦をなさなければならなかったのです。
 イエスさまの弟子たちは、イエスさまに教えを乞うこともありましたが、それ以上にイエスさまと敵対者の言葉、また逆に、イエスさまが癒しの業をなされたときの様子と、治された人との会話から多くのことを学んでいったのではないかと思います。
 イエスさまの時代から約2000年経った今、世界中に主イエスを救い主とする教会が建てられています。私たちも聖書に書かれているイエスさまの言葉、また行為を知り、教会がイエスさまの弟子の集まりとなるように祈る者でありたいと思います。
          
                 2021年1月17日 降誕節第4主日 平島禎子牧師

 ヨルダン川、荒れ野を経て、ガリラヤへイエスは行かれました。バプテスマのヨハネが捕らえられたのを合図に、満を持して伝道を始められたのです。ここからイエスの公生涯の本番がいよいよスタートです。
 当時、多くの人々はメシアが現れるのを待っていました。律法学者たちは、その時には先駆けとしてエリヤが現れると言っていました。山上の変容(9章)からの帰り、イエスさまはヨハネこそエリヤだったのだと、弟子たちに言われました。そのヨハネが捕らえられて、イエスさまが活動を開始されたということは、イエスさまはメシアとしての自覚を持って活動を始められたということです。しかし人々が待望していたメシアとイエスさまが言われる「人の子」はかなり違った存在でした。
 もちろんイエスさまはこの時のために、誕生され、生きて来られたのですから、いよいよ、という気持ちもあったと思います。しかし人々の思いとは違い、言わば受難のメシアの道を歩みだされた訳ですから、心中は複雑だったのではないかと思います。
 時が満ちた、という言葉にはそのようなイエスさまの複雑な思いが込められているように思います。人々にとっては、救いの時が近づいたのですから、それは喜び以外の何物でもありません。しかしその救いをもたらすために、この後苦難の道を歩まれるイエスさまご自身にとっては、ことは複雑であり、いろんな感情が渦巻いていたのではないかと思います。それはゲッセマネの祈りに集約されて行くと私は思います。
 私たちは自分自身の人生の中で、「時が満ちる」という経験をすることはあまりないかも知れません。しかし、神さまの時は、私たちが知らなくても、理解できなくても、静かに満ちて行くものなのかも知れません。もしかしたら人生の最後に、時が満ちた感じを覚えるかも知れません。
 イエスさまが言われてから2千年の年月が経ちました。もしかしたら今も私たちが知らないところで時は満ちようとしているのかも知れません。イエスさまのこの言葉を改めて新鮮な思いをもって聴き、そしてそれぞれの人生を神さまの時を旅する旅人として、すすめて行く者でありたいと思います。


              2021年1月10日 降誕節第3主日礼拝 笹井健匡牧師

 2021年、新年あけましておめでとうございます。みなさんは、どんな気持ちで、新しい年を迎えておられるでしょうか。
 今日の聖書は、イエスさまが洗礼を受けられたところです。イエスさまは宣教活動を始められるとき、最初にヨハネから洗礼を受けられました。公に行動された、その最初が洗礼だったのです。
 洗礼というと、私たちにとっては救いであり、その意味ではゴールとも言えると思います。しかしイエスさまが洗礼を受けてその公生涯を始められたように、私たちも洗礼を受けてクリスチャンとしての生涯を歩み始めます。その意味では、スタートということもできると思います。
 イエスさまが洗礼を受けられたとき、天から「わたしの愛する子」という声が聞こえました。洗礼を受けると、聖霊が降り、神の声がした、という何ともすごい光景です。今までわたしは、これはイエスさまだから、イエスさま限定のこと、としてだけ捉えて来ました。しかしイエスさまはあえて人間としてこの世に来られました。私たちはイエスさまを救い主と信じて洗礼を受けます。それは結果的に、イエスさまに従って洗礼を受ける、ということもできるのではないでしょうか。そしてそんな私たちに神さまは広い意味で、やはり「わたしの愛する子」という声をかけてくださるのではないかと思います。
 2021年がどのような年になるのかは、知る由もない私たちですが、今年もそのスタートにあたって、神さまが大きな愛をもって背中を押してくださっている、そのことだけは確かだと思います。
 新しい年を、クリスマスの大いなる喜びを胸に歩み始めて行く者でありたいと思います。

           2021年1月3日 新年礼拝(降誕節第2主日) 笹井健匡牧師

 2020年最後の主日礼拝を迎えました。大変な1年でありましたが、皆さんは今、どんなことを感じて過ごしておられるでしょうか。
 私は、2018年くらいから、なぜか「変わる」という感覚がありました。しかし、まさかこんなことが、しかも世界中に同時に起きるなんて、思いもよりませんでした。
 恒例の今年の漢字は「密」でしたが、私の漢字は「止」です。いろんなことがストップした1年だったのではないかと思います。信仰的に考えると「強制終了」がかかったと言えるのかも知れません。
 神さまの思いは深すぎて、知る由もありませんが、今から2000年も前に救い主であるイエスさまを地上に送って下さいました。そして神が愛であること、互いに愛し合うことこそが、人間のすすむべき道であることを示して下さいました。しかし、その後の人間の歩みは、残念ながら、争いが絶えず、特にここ数十年で大きな格差世界になってしまいました。あの世界大戦を経験したにもかかわらず、すぐに「物」「金」に心を奪われる、支配される世界になってしまいました。このまま突き進むと……。
 神さまは大きな痛みをもって、この状況を見ておられると思います。クリスマスを迎えた私たちは今こそ、私たちの救い主であり、真の愛のお方であるイエスさまに立ち帰りたいと思います。
 今日の聖書にあるように、私たちは神から出て、この地上での歩みを豊かに導かれ、そしていつかはまた神さまのもとに帰る存在です。そしてその人生の指針としてイエスさまという、これ以上ない愛に満ち、そして誰にでも分かりやすいお方を与えられています。
 今年世界規模で「立ち止まった」とすれば、来年はとんでもない激動の年になるかも知れません。しかしその大変化の先には、必ず救い主である復活の主がいてくださり、新しい、平和な、愛に満ちた世界があることを信じる者でありたいと思います。そういう意味で、今はまだ、道の途中なのかも知れません。
 真の愛そのものである赤ちゃんイエスを胸に抱きながら、今年もクリスマスの光の中で古き年を送り、新しい年を共に迎えて行きたいと思います。

             2020年12月27日 降誕節第1主日礼拝 笹井健匡牧師

 クリスマスおめでとうございます。1年を振り返ると本当に大変な2020年でしたが、それでも私たちは暗闇の中の光として来られた救い主、イエスさまの誕生を心からお祝いしたいと思います。
 神、というとあまりにも大きすぎて、具体的にイメージすることが難しいという面があります。それはイスラエルの民も同じでした。私たちの想像を遥かに超えた存在であり、どんな様子か、知る由もない、というところでしょうか。
 旧約聖書の記述を見ると、それでもどこか身近な存在でもあったようにも感じます。しかし時代がすすむにつれて、手の届かない、どこか遠い存在になっていったのかも知れません。つかみどころがない、そんな感じでしょうか。
 イエスさまはそんな時代、状況下に、救い主として誕生されたのです。
 今日の聖書は、いわゆる「受肉」のところです。神と共にあった言、そして光であったイエスさまが、まことの人としてこの世に誕生してくださったのです。そしてその後の人生を通して、神を示して下さいました。私たちはイエスさまを通して神を知ることができるようになったのです。
 もともと人間は、創世記1章にあるように、神の似姿に創造された存在です。だから本来は、人間の中に、神の姿が落とし込まれているのです。しかし実際は人間は神に背を向け、神を知らない存在となってしまいました。そこにイエスさまが、真の神が、真の人として来られたのです。そして人間の姿で、創造主である神さまを示してくださったのです。
 さらに言えば、このクリスマスの時のイエスさまは赤ちゃんです。赤ちゃんは最も弱い存在ですが、実は、神さまの前に最も強い存在なのかも知れません。完全にすべてを委ねて生きることが出来ているからです。そして周りの人々の愛を呼び起こします。
 クリスマスの赤ちゃんイエスは、神を示すとともに、その神との関係をも示しているように思います。
 私たち、一人ひとりも、神さまの前に幼子のように、赤ちゃんのようになり、イエスさまが示してくださった「神が愛である」ことを心から信じ、すべてをお委ねして、信仰の道を歩んで行きたいと思います。

             2020年12月20日 クリスマス礼拝 笹井健匡牧師

 クリスマスはすべての人にやってくる喜びの出来事です。そのクリスマスの喜びを最初に経験したのはイエスさまの母となるマリアでした。ルカによる福音書1章47節から55節に「マリアの賛歌」が記されています。マリアは主にある喜びを高らかに歌い上げています。その「マリアの賛歌」のベースになっているのが、今日の聖書サムエル記上に記されている「ハンナの祈り」です。
 ハンナは子どもを与えられるまでは、悲しみの中にいました。ハンナにはエルカナという夫がいましたが、エルカナにはもう一人ペニナという妻がいました。ペニナには娘も息子もいました。今の時代と比べると、ハンナの気持ちはいかばかりであったかと思います。サムエル記上1章10節には、「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。」と記されています。ハンナは自分の苦しみを神さまに激しく注ぎ出したのです。そして、子どもが与えられたら、その子どもを神に捧げるという誓願を立てます。そして、神さまはハンナの祈りを聞かれました。ハンナは身ごもり、男の子を産み、その子をサムエルと名付けました。ハンナの喜びはいかばかりであったかと思います。ハンナはそれまでの人生の苦しみや悲しみから解き放たれ、神さまがハンナを愛しておられることを知り、喜びの声を上げずにはいられなかったと思います。そして、ハンナはその子どもが乳離れするまで手元に置き、それからはその子どもを神さまに捧げるため、神殿の祭司のもとに連れて行きました。ハンナはその後で、主にある喜びの祈りをなしたのです。
 ハンナの祈りの主題は、傲慢を打ち砕かれ、自分の力ではなく神の力に依り頼む、「主にある喜び」です。ハンナはただ神のみに頼り、自分の苦しみ、悲しみを神のみに注ぎだしました。そして、その祈りを神さまは聞いてくださったのです。私たちも一人一人、持てる悩みや苦しみは違うかもしれませんが、人間の知恵に頼らず、どんなことでも神さまに寄り頼むということをしていかなければならないと思います。神さまの恵の中で生き、正直に自分の持っている苦しみや悲しみを神さまに申し上げるならば、人知を越えた神の平和が、喜びが私たちにも与えられるのです。クリスマスの出来事、イエスさまの誕生は、母マリアに訪れた突然の不思議さの中から生まれた喜びの出来事でした。イエスさまの誕生から約2000年経った現代においても、喜びの出来事であり、人間が誰一人想像できなかった救い主の誕生の出来事です。
 私たちも主にある喜びを喜び、神さまに祈ったことは必ず成るということを信じ、今年もイエスさまのご降誕を待ち望みたいと思います。
2020年12月13日 アドベントⅢ待降節第3(降誕前第2)主日 平島禎子牧師

 11月の下旬に山形のある牧師の方から一冊の本が送られて来ました。その題名が「汝を宇宙の主につなげ」でした。以前から宇宙時代の今日、もっと宇宙を意識した信仰へと成長するべきでは?との思いをもっていましたので、さっそく使わせていただきました。11月29日(日)アドベントの始まりを告げるかのように、西日本で「火球」が観測されました。宗教改革から500年を経たプロテスタントの私たちですが、そろそろ「変わらないために、変わり続ける」、という言葉があるように、新しい変化を必要としているのかも知れません。
 今日の聖書は、ある意味イエスさまを宇宙的大きさで捉えていると言えるかも知れません。神と共にあった言が、光となってこの世に来られた、それが私たちの救い主イエス・キリストであると書き出されています。
 私たちがふだん考える、あるいは思い描くイエスさまは、一言で言えば「友」なるイエスではないでしょうか。福音書には、同時代の律法学者たちとは一線を画する、多くの人の友となり、また最後の日々では、弟子たちを「友」と呼ばれた(ヨハネ:15:15)イエスさまの姿が記されています。讃美歌でも私たちは好んで「友」であるイエスさまを賛美しているように思います。もちろん、そこにイエスさまの救い主としての神髄があるのだと思います。そしてだからこそ神が愛であることを知ることができたのだと思います。
 しかし、そのイエスさまは、友であると同時に、宇宙の主でもある、というのが大切な点なのではないかと思います。ふだんの信仰生活で忘れがちな面、この宇宙的な存在としてのイエスさまを、このアドベントのとき、少し心に抱いて歩んでみるのも新しい発見があって、いいかも知れません。
 これから人類の歩みの先にどのようなことが待ち受けていようとも、私たちの信じる救い主イエス・キリストは、友であると同時に宇宙の主でもあります。そうであるなら、私たちは何も恐れることはありません。
 今年もそのイエスさまが私たち一人ひとりのところに誕生してくださいます。そのための準備、私たちの心を愛で満たし、心の飼い葉桶を暖かくして、イエスさまの誕生を待ち望みながら、このアドベントのときを歩んで行く者でありたいと思います。

            2020年12月6日 アドベント第2主日礼拝 笹井健匡牧師

 今年もアドベントを迎え、クランツのロウソクに一つの灯りがともされました。これを見るたび、自分のそれまでの歩みを照らし出されるような気持ちになります。クリスマスがやって来る、といううれしい気持ちと共に、イエスさまを迎える準備をしていかなければ、と思わされます。そして自分はこの一回り、神さまを信じて、心から生き生きと輝いて生きている人だっただろうか、それとも…といろんな気持ちが思い出とともによみがえります。
 今日の聖書、4節には「このような確信」と書かれています。前の部分を何度読んでもはっきりしませんが、福音(新しい契約)は、私たちの心に(石の板ではなく)書きつけられている、というような意味でしょうか。つまり文字や板という外側にある物質ではなく、私たちの心に、魂に、福音は刻まれていると言っているのだと捉えられます。
 パウロはもともと律法を熱心に学んで実践していました。しかし復活の主と出会ってからは、それまでとは180度方向転換し、迫害者から伝道者へと変えられて行ったのです。
 私たちもそれぞれの人生の中で、大きな方向転換を経験することがあるかも知れません。クリスチャンになったこともその一つだと思いますが、いずれにしても、それまでまるで死んでいるかのような存在だった者が、生き生きと輝いて生きるようになる、そういう、本当の意味での人を生かす力を経験することは、人生の最大の喜びかも知れません。
 イエスさまは、出会った人々を、真に生きる者へと変えて行かれました。クリスマスまでのアドベントの過ごし方は人それぞれあると思いますが、一日一日イエスさまによって新しくされて行く、新たな気づきを与えられて行く、そんな歩みをできればいいなあと思います。
 神さまの方から、一方的に与えられたクリスマスの恵み、私たちを真に生かす救い主イエス・キリストのご降誕の日まで、それぞれの歩みを、静かに、しかし確実にすすめて行く者でありたいと思います。

           2020年11月29日 アドベント第1主日礼拝 笹井健匡牧師

 今日は収穫感謝日です。長い期間愛情を込めて育てられた作物は、本当においしいものです。旬のものを食べることができる、これ以上に贅沢なことはないのかも知れません。
 先週は、鷲羽山で野外礼拝をささげました。その時私が感じたのは、神さまも大いなる愛情をもって、この大自然を創造された、ということです。まわりのものすべてが神さまの愛にあふれているように見えました。
 今日の聖書は、「愛」についてパウロが語る、ちょうど扇の要のような位置に書かれているものです。13章の前の個所では、愛が無ければ、命をささげたとしても、何にもならない、と記されています。どんな善行も、愛あればこそ、大きな実を結ぶのではないかと思わされます。
 また後の個所では、有名な「信仰」「希望」「愛」の永遠性が語られ、その中で最も大いなるものは「愛」だと言うのです。パウロがイエス・キリストへの信仰の中で愛を一番大事にしていることがよく分かります。
 今日の個所には、愛について、いろいろな大切なことが述べられています。一つ一つすべてに触れることはできませんが、パウロらしさが出ているように私が感じるのは、「忍耐強い」に始まり「「すべてに耐える」で終わっていることです。大変な伝道活動をした彼だからこその重い言葉だと思いました。
 愛、というと、私たちはすぐ相手、つまり他者のことを思います。つまりあの人のためにこうしようとか、この人のために祈ろうとか、そういう具合です。しかし、その前に、今日の聖書が教えているのは、自分自身が愛になる、そのために必要なことが列挙されているように思いました。つまり自らがまず愛の人になることが大切だとパウロは言いたいのかも知れません。
 自分自身が愛で満たされて行ったなら、その愛は自然と周りにあふれて、多くの人々や動植物、自然を愛して行くことにつながって行くのかも知れません。
 イエスさまも愛にあふれた方でした。次週からアドベントに入りますが、神さまが私たち人間を愛して、その印としてイエスさまをこの世に誕生させて下さったことを、そしてそのことによって、弟子たちは、愛を知ったことをもう一度深くこころに覚えたいと思います。


    2020年11月22日 降誕前第5主日礼拝    笹井健匡牧師

 創世記の始めには、「天地創造」の物語が記されています。地球の大自然、全生命は、科学的にいうと、ビッグバン、地殻変動、人間を含む動植物の進化などによって、現在に至っていると言われています。しかし、信仰者は、物語的なものであるが、天地創造の業を神さまがなされたということを信じていますが、それは決して科学を否定するものではありません。例えば、教会堂の建築を考えると、建築士、建築作業に携わる人たちがなしてくれるのですが、それらの人たちに感謝をすると共に、信仰的には神が教会を建てられたという思いをもち、その会堂を神さまに捧げるという献堂式を行ないます。そのことを考えると、神さまがこの世界を造ってくださったと信じるのは、おかしなことではないと思います。
 今日の聖書、創世記1章31節には「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」と記されています。神さまは何もない暗闇から、光、自然、植物、動物を造られました。そして、最後に人間を造られました。その業は6日かかりました。その中に「神はそれを見て良しとされた。」という言葉が6回記されています。しかし、神さまは最後にご自分の姿にかたどって創造された人間については、「良しとされた。」という言葉が記されていません。しかし、神さまは、人間に神が造られた自然、生物を支配するように、という祝福の言葉を述べられました。人間は他の生物たちと違って、神の似姿い造られました。人間はその造られたままの形にとどまるのではなく、大地を大海を治め、成長していく存在なのだ、ということであるかもしれません。
 しかし、現在に至るまで、人間は自然界を保全するどころか、破壊してきていると思わされることもしばしばです。環境破壊をし、絶滅危惧種と言われる動植物も増えてきています。そのような自然界をどのように守るのか、ということも考えなければなりません。
 神さまは、造られたすべてのものを御覧になり、「極めて良かった」と言われました。しかし、現在は神さまが良しとされた世界を壊すような在り方で、
人間は生きているのかもしれません。「極めて良かった」という世界を回復させるように、私たち一人ひとりが「極めて良い存在」として、創世記の始め、
天地創造の業に心をよせて、自分たちにできることをなしていく者でありたいと思います。

          2020年11月15日 野外礼拝(於:鷲羽山)誕前第6主日 平島禎子牧師

 先週の主日礼拝は、聖徒の日、召天者記念礼拝でした。コロナ禍にあったため、いつものメンバーで礼拝をささげる予定でしたが、正直言って少し寂しい思いをもっていました。するとKさんたちが3人で来て下さり、またOさんも来て下さり、心の中で喜びを覚えている私がいました。本当は…。
 今日の聖書は、「おびただしい証人の群れ」が私たちには存在することを告げています。ともすれば厳しい現状の中で心を暗くしがちですが、私たちには天上に上げられた多くの姉妹兄弟たち、そしてそのご遺族の方々がおられることを改めて思わされます。実際には、目に見えない多くの存在を私たちは知っていますし、そうした存在を覚えて、言わば共に生きているように思います。
 著者は、まだ厳しい迫害を経験したことのない信仰の友に対して、先達たちの労苦と働きを示すことによって、あなたたちも、どんなことがあっても乗り越えて行けると言いたかったのかも知れません。その時に大切なのは、先達たちがそうであったように、イエスを見つめて生きて行くことです。イエスを見つめて生きていけば、どんなことがあろうとも、それを乗り越えて、信仰者として最後まで生き抜いていけるのです。
 本来なら、最も喜びに満ちた人生を送ることが可能であったイエスさまは、私たちの救いのために、最終的には受難の道、しかも十字架の死を、忍耐をもって選び取って下さったのです。ここに愛があります。十字架の愛です。
 私たちが生きている「今」という時代も、違う意味で大変厳しい状況にあると言えるかも知れません。しかし私たちは、イエスさまによって神が愛であることを知らされた信仰者です。信仰の創始者、完成者であるイエスさまを見つめて歩むならば、恐いものなど何もないのです。
 これからも、どのようなことが待ち受けているか分かりませんが、共に励まし合いながら、天上の姉兄を偲びながら、そしてイエスさまを見つめながら、人生の旅路を最後まで、笑顔で歩み続けて行く者でありたいと思います。

              2020年11月8日 降誕前第7主日礼拝 笹井健匡牧師

 今日は「聖徒の日」、「召天者記念礼拝」です。天にあげられた児島教会の先輩たち、ゆかりのある人たちを覚え、記念するための礼拝です。「汝、死すべき者であることを覚えよ」という西洋の格言にもありますが、自分が「死すべき者」であると自覚すると不安や恐怖を持つ人がいるかもしれません。また一方では、死ぬまでの人生を精一杯生きようと思う人もいるかもしれません。今年はSさんが10月26日に天へと旅立っていかれました。寂しく、悲しい思いがしますが、思い浮かぶのは笑顔の背板さんです。背板さんは神さまの御許で、笑顔の時を過ごしておられるのだろうと思います。
 今日の聖書の4章18節には、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」と記されています。人間は生きている間は「見える存在、触れることのできる存在」です。しかし「死」に移されると「見えない存在」となり、見ることも、触ることもできなくなります。しかし、それぞれの心の中で、その姿をしのぶことはできるのです。
 今日の聖書の次のところになりますが、5章1節には「人の手で造られたのではない永遠のすみか」があると記されています。地上の人間では思いもよらない「天のすみか」があるというのです。天に召された人々は、その「天のすみか」で安らかに、永遠の時を生きているのであろうと思います。
しかし、このことはクリスチャンであるから、洗礼を受けているから、ということで縛ってはいけないと、私は思っています。個人の遺志や遺族の意志より、クリスチャンではない人の葬儀を教会員同様に行ったことが数回あります。一人ひとりの状況を鑑みて、柔軟な対応をしていくことが大事ではないかと思わされます。
 コヘレトの言葉3章11節には、「神はすべてを時宜に適うように造り、また永遠を思う心を人に与えられる。」と記されています。見えないものは永遠に存続するものであり、私たちは時を越えて、永遠に存続する神さまに、また永遠に存続する者へと移された人々に出会うことができるのです。
目に見えないもの、触れることができないものに心を向けていくことをしながら、それぞれの残された人生の歩みが、天に召されるまでずっと、日々新たにされる歩みとなるよう、祈る者でありたいと思います。

    2020年11月1日 聖徒の日 召天者記念礼拝 降誕前第8主日 平島禎子牧師

 今日から降誕前に入りました。最近はハロウィン騒ぎで、なんとも言えない感じを持ちますが、私たちは、イエスさまのご降誕に向けて、少しずつ心を整えて行きたいと思います。
 みなさんの中にも、人生の歩みの中で、「暗闇」を経験された方がおられるのではないでしょうか。八方塞がりに陥り、絶望的な気持ちになってしまう、しかし、そんな「時」を乗り越えて、今、こうして生きて礼拝の民として、教会に集えていることを心から神さまに感謝したいと思います。
 今日の聖書は、マタイにおける、イエスさまの伝道開始が記されているところです。最初に、ガリラヤに「退かれた」とありますので、なんとなくイエスさまが逃げられた、という印象を受けます。しかし、実は、そうではなく、いよいよご自身の伝道を始める時が来た、と思われたのではないでしょうか。故郷のナザレではなくカファルナウムに住まれたことがそのことを表し、そして17節で実際に宣教を開始されたのです。
 マタイはこのことを預言者イザヤの言葉が実現した、と記します。イザヤ書8章の終わりから9章の初めの言葉が引用されています。イザヤ書9章5節には有名な「ひとりのみどりご…」が記されています。アッシリアの脅威の中、王に対して、最後まで神に頼るように、信じて静かにしているようにイザヤは進言しました。そして最後にダビデを越えるような指導者が現れる、と預言したのです。それが700年の時を経て、実現したのが、イエスさまだ、とマタイは語るのです。
 光あふれる時代になり、なかなかそのありがたさが分かりにくくなっていますが、真っ暗闇にいるとき、ほんの小さなロウソクの光でもあれば、私たちの心は強くされ、生きる希望を持つことができます。
 コロナ禍にあって、いろいろままならず、また将来に対して不安を感じたりすることもありますが、私たちにとってはイエスさまこそ希望の光です。その救い主イエスが今年も誕生してくださるクリスマスを遠くに見ながら、信仰の歩みをすすめて行く者でありたいと思います。

             2020年10月25日 降誕前第9主日礼拝 笹井健匡牧師

説教題「生きる力」         ローマの信徒への手紙1章16~17節
 
 以前は感じなかった感情ですが、この「秋」という季節が妙にしっくりくるというか、自分自身の人生の時と一致しているように感じるからなのかどうか分かりませんが、不思議な親しみを感じます。数年前までは、まだまだ夏、という感覚で生きていましたが、さすがに今は夏は過ぎて、秋を生きているように素直に思えるようになりました。
 どのような秋にするのかは自分次第です。ただ、座して冬を待つ、というのではなく、まだ何かははっきりとは分かりませんが、何らかの実りの秋になったらいいなあと思っています。それには秋には秋なりの生きる力が必要です。
 今日の聖書、ローマの信徒への手紙はパウロの「秋」に書かれた手紙だと言えると思います。復活の主と出会い、多くの宣教の働きを通して様々な経験をし、困難を乗り越えて生き抜いて来た一人の宣教者の神への信仰にあふれています。
 パウロは自らが伝えている福音を恥としない、とまず言います。そしてそれどころか、福音は神の力だと言うのです。信仰者にとって、信じる者にとって福音はこの上ない宝物なのです。そしてその宝を人々に伝えているのがパウロたち、伝道者なのです。
 最後に、パウロはハバクク書を引用します。ハバクク書2章4節では、傲慢な者を批判した後に、「神に従う人」は信仰によって生きる、と記しています。これをパウロは「正しい者」と言っています。つまり正しい者とは、神を信じ、神に従って生きる者であり、そういう人は、その人生を神への信仰によって生き抜いて行くことをパウロは言いたかったのではないかと思います。この後いわゆる信仰義認について、いろいろと書かれていますが、一番言いたかったのは、今日の聖書にあるようにシンプルなことです。イエス・キリストを、つまり福音を信じて、その人生を生きるならば、そこに神の力が働き、豊かな人生を送ることができるということです。だから、福音は、神の力であり、生きる力そのものであると言えるのだと思います。
 コロナ禍にあり、またそれぞれに困難を抱えておられることと思いますが、私たちは最高の力、神の力を生きる力として与えられている信仰者です。これからも何があろうと福音を信じて信仰によって生きて行く者でありたいと思います。

  2020年10月18日 聖霊降臨節第21主日礼拝   笹井健匡牧師

 イエスさまが教えてくださった最も重要な掟の中に「隣人を自分のように愛しなさい。」(マルコ12:31、マタイ22:39)というものがあります。「隣人を愛しなさい。」だけではなく「自分のように」という言葉があります。自分で自分を愛することもここでは言われています。キルケゴールは「自己の二重性」ということを言っており、「私」の中には2人の「私」がいるのだ、ということを言っていますが、本当はもう少したくさんの「私」がおり、あれやこれやとそれぞれが主張し、最後に一番重要な私が決断をなして、語ったり、行動したりしているのではないかと思います。
 パウロは「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きているのです。」と言いました。イエスさまを信じる者は、いろいろな種類の自分がいる中にイエスさまを受け入れること、心の中でイエスさまの声を聴き、それを行動に移すこと、それが心のうちにキリストが生きているのであろうと思います。時にはイエスさまと対立しながらも、最終的にイエスさまの言葉に従うということを成せるようになるのです。
 「律法」ではなく、「イエスさまへの信仰」によって、私たちは生きるのです。旧約聖書には嫌というほど「律法」について書かれていますが、しかし、旧約聖書の中には私たちの指標となる言葉もあります。それは「神は愛」だからです。人間は何度でも罪を犯し、悪へ走ってしまうことが、特に預言書には
記されていますが、そんなどうしようもない人間たちを愛するが故に、神さまは、イエスさまをこの世へ送ってくださったのです。そのイエスさまは、外にいる存在ではなく、内にいる存在なのです。私の中に何人かの私の中の最高峰にイエスさまはいてくださり、時にはほめてくださり、時にはたしなめてくださるのです。
 「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」とパウロは言いました。ここにいる私たち一人ひとりも、「もはやわたしではなく」キリストが自分の中にいてくださる、内在するキリストと共に歩いてゆくためにも、聖書を読むということを大切にし、聖書の言葉によって、イエスさまが私たちに行く道を示してくださる、ということを信じる者でありたい、また、イエスを内に宿すなどできるはずはないという思いを聖書の言葉が打破していくことを信じて、「もはやわたしではない」自分、「イエスさま中心の自分」となり、自分にこだわらず、イエスさまのみにこだわって生きていく者でありたいと思います。

               2020年10月11日 聖霊降臨節第20主日 平島禎子牧師

 長い聖霊降臨節を過ごして来ましたが、今月の25日は、降誕前第9主日になりますので、日曜日で言うと今日を入れて後3回、聖霊降臨節の主日礼拝をささげます。聖霊の働きは「目にも見えず」、現代人には特に分かりにくいところも多いのですが、かなり鈍感な私でも、人生の節目、節目に、大きな導きがあるように感じています。
 最近よく、会社を辞めて牧師になる決心をした、いわゆる召命の時のことを思い出します。長い年月が経ち、その時思っていたのとはずいぶん違う歩みをしているように感じるときもあるのですが、しかし神さまの目から見れば、きっとこれでいい、それはそれでいい信仰生活だったのかも知れません。
 教会で一番私が衝撃を受けたのは、いろいろなことがこの世の価値観、今まで自分が経験してきた常識と真反対である、という姿でした。信仰をもってから、聖書の読み方が変わりました。今日の聖書もまさにその典型的な個所です。
 マタイでは少しぼかしたように、まるでふらっと弟子たちがイエスさまのところに何かの用事で来て、そのついでにたずねたように記されていますが、同じことが書かれているマルコ、ルカを見れば、弟子たちが、自分たちの中で一番偉いのはだれか、と議論していたことが書かれています。人が集まると、そこに、序列をつけたくなる、そんな心理をこそ、イエスさまは一喝されたのではないか、と私は思います。
 4節の「自分を低くして」という言葉は、マタイがマルコ9章35節の言葉を言い換えたものだと思います。「低くして」というのは単に低姿勢になって謙虚になってということではなく、相手を尊重する、敬愛する、つまり相手を「高くして」ということだと思います。そしてそれは当時の社会で最も低い存在と思われていた子どもたちを想起させます。
 私たちはイエスさまがそうであったように、神さまのことを、まるで子どもが親を無条件で愛しているように、愛して行く者でありたいと思います。神さまを愛する者こそが、真の「偉い者」なのです。
 互いに受け入れ合い、愛し合い、神さまの導きを信じて、共に信仰の歩みをすすめて行く者でありたいと思います。

           2020年10月4日 聖霊降臨節第19主日礼拝 笹井健匡牧師

説教題「求めなさい」          マタイによる福音書7章7~12節
 
 私自身、今までの人生を振り返ると、どちらかというと、いや、かなりな程度で受け身、な歩みをして来たように思います。自分で選び取る、とか、どうしてもこうしたいとか、そういうことは非常に少なかったように思います。
 そんな私にとって今日の聖書は、あまり近くない、どちらかというと遠い聖書の個所だったように思います。しかしなぜか今、「求めなさい」というこの聖書の言葉が心に響いて来ているように思います。アラカンになって、とも思いますが、本当は、還暦が近づいて来ているからこそ、なのかも知れません。
 信徒時代によく聞いた説教は、求めれば必ず与えられる、というものでした。ただし、それが神さまの御心であれば、という但し書きがつきますが。それと求めたものとは違うものが、本当はこれがのぞみだったのだろう、というかたちで実現することが多い、そしてそれを後からよく理解できる、というようなものが多かったように思います。
 あと一つは、求めたものは、すでに与えられた、つまり絶対に与えられることを信じ切る、ということです。だから求める祈りは過去形で祈りなさい。そういうメッセージも聞いたことがありました。
 しかし最初に言いましたように、元来が受け身でありますので、なかなかそういうこととは縁がなく生きて来たように思いますが、しかしよくよく考えて見ると、自分の心の深いところで望んでいたことは、ことごとくかなえられているように思わされます。神さまは、求める前から、私の欲しいものをご存知であり、そしてそれは定められた時に実現して来たように思います。
 マタイでは、結論として、「人にしてもらいたいことは、人にしなさい」と記していますが、ルカの方を見てみると、「求める者に聖霊を与えてくださる」という結論を記しています。
 私たちは、どうしても目の前の、目に見えるものを求める傾向がありますが、しかし本当に重要なもの、大切なものは、「目に見えない」のだと思います。
 「求めなさい」と言って下さる神さまに、私たちはもう一度自分の心の奥深いところをよく調べて、そしてその本当の思い、究極の願いをこそ、神さまに祈り求めて行く、そういう信仰の歩みをすすめて行く者でありたいと思います。

         2020年9月27日 聖霊降臨節第18主日礼拝 笹井健匡牧師

説教題「 旅 人 」           ペトロの手紙一2章11~12節
 
 私の趣味は旅行です。しかし牧師になってからは、職業柄、あまり旅行に行くことはなくなりました。最近は、年齢のせいもあり、いよいよ旅行に行かなくなりました。もちろんコロナもあります。なので、無趣味人間のようになってしまっています。何とか工夫したいと思っています。
 しかし考えてみれば人生そのものが「旅」のようなものです。特に信仰者の私たちにとっては、パウロがローマの信徒への手紙(11:36)で言っているように、そして今日の聖書にあるように、この世は仮住まいの地であり、私たちは旅人として、神さまのもとからこの世に来て、やがて生きるべき人生を生き切ったならば、また神さまのもとに帰って行きます。
 しかし今日の聖書が教えるように、旅人には旅人としての「マナー」というか「在り方」があるように思います。自分自身としては、この世の様々な誘惑に打ち勝ち、できる限り良き旅を続けて行くことが大切だと思います。そのために常に神さまの愛、イエスさまの愛を、そして信仰の友の愛を感じて生きることが重要なのかも知れません。
 そして、その自分の生き方、旅人としての在り方が周りの人々の救いにも関わって来る、と今日の聖書は教えます。生きている時には、非難し、悪口を言っていたとしても、しかるべき時には、その人たちも神をあがめることができる、というのです。この時代では終末の時が想定されているわけですが、終末に限らずとも、自身が神を信じ、愛の中を生きていれば、周囲の人の心の深いところに、きっと神さまの栄光が届くのではないかと私は思います。
 しかし実際には、現実のこの世を生きる上で、大変な経験をすることも多々あります。そういうときこそ、私たちは根源的には仮住まいの身、旅人であることを思い起こし、神さまの方をしっかりと見つめて、自らの道を信仰をもって歩んで行きたいと思います。

           2020年9月20日 聖霊降臨節第17主日礼拝 笹井健匡牧師

 私たちはふだん、何も意識しないで呼吸をしています。しかし最近テレビ等でもいろいろな健康法が紹介されたりしていますが、その中の多くで、呼吸が大事です、ということが言われるようになりました。特に今、コロナ禍にあって、マスクを着用しているため、呼吸が浅くなっている人が多いと言われています。幸い私たちはまだ比較的マスクを外しやすい環境に生きているように思います。
 心臓の動きと共に、呼吸は大変重要です。生きるために必要な酸素を取り入れ、二酸化炭素を排出するのが最も重要な働きですが、深呼吸したりすると心も体もリフレッシュされたりします。ラジオ体操も呼吸に始まり、呼吸に終わるような感じになっているように思います。
 今日の聖書には、神さまが人を創造されたとき、命の息を吹き入れられた、と記されています。今までは何となく、その神さまの息を受けて、人は生きるようになったのだ、くらいに思っていました。しかしよく考えてみると、私たち人間の中に、神の息が入れられたのです。私たちの中には、神さまの息が、文字通り息づいている、ということです。
 イエスさまの言葉としても、「永遠の命」という言葉が福音書にはよく記されています。私たちの中にあるのは、実は神さまの命の息なのです。だからこそ、この世の歩みを終え、天に帰るときには、肉体は土に帰りますが、魂は、永遠に生きる命として天上に移されるのではないかと思います。つまり、実は私たちは通常、「永遠の命」というと死後の世界、天上の世界のみを思い浮かべますが、実はすでにこの世を生きている時から、永遠の命である、神さまの命の息を受けてそれを内に保ちながら歩んでいるのです。そう考えると、人間は何と尊い存在なのかと改めて思わされます。
 命の息を吹き入れて、生かして下さっている神さまに感謝し、どんな状況であろうとも、その中で精一杯命を輝かせて生きて行く者でありたいと思います。

           2020年9月13日 聖霊降臨節第16主日礼拝 笹井健匡牧師

 私が教会に通い始めたころ、さかんに耳にした言葉が「共に生きる」という言葉でした。その頃は、しょうがい者、高齢者等、少数者や社会的弱者と共に生きる、という意味でつかわれていたように思います。しかし、40年ほど経ってよくよく考えて見ると、本来、共に生きる、というのは当たり前、人間のあるべき姿、本来の在り方のように思います。
 今日の聖書でパウロは、イエス・キリストによって得られた自由を悪しき機会とせず、互いに愛し合い、仕え合うために用いるように勧めています。2千年前の教会にも、いろいろな内部対立がありました。しかしそこで互いに攻撃し合っているなら滅んでしまうとパウロは言うのです。そして「隣人愛」をこそ大切なものとして提示します。
 神さまは、私たち人間をどのような思いをもって創造されたのでしょうか。まさか互いに挑み合い、傷つけ合うために創造された訳ではないでしょう。その反対に、互いに相手を尊重し、それぞれが賜物を生かして、豊かに、みんなが幸せに生きるように創造されたはずです。
 私たちはどうして他者を認める、受け入れることがこれほど苦手なのでしょうか。イエスさまはどんな人も受け入れようとされました。まるで幼子のように、またすべての人を昔からの友のように思われていたのかも知れません。
 現代はさまざまな分断が横行しているように思います。私が子どもの頃はまだ地域の共同体が生きていて、子どももみんなで育てるし、ハンディをもった人たちもそれなりにみんなの中でつながって生きていたように思います。もちろん完全ではありませんが。
 コロナが今私たちに突き付けているのは、このような厳しい状況の中で、私たちが「共に生きる」努力をもう一度、工夫し、みんなでこの困難を乗り越えて行くことによって、一人ひとりが自立しながらも、つながり合って、助け合って生きて行く社会を取り戻すことができるのかどうか、つまり新しい、共に生きる社会を実現することができるかどうかということではないかと思います。
 イエスさまによって、そのことを知らされ、実際に誕生したころの教会は、真に共に生きる共同体だったと思います。少しでも、小さくても実現できるよう、私たちも信仰の歩みをすすめて行く者でありたいと思います。

          2020年9月6日 聖霊降臨節第15主日礼拝 笹井健匡牧師

 残暑お見舞い申し上げます、と言いたいところですが、まだまだ猛暑が続いております。例年ですと、結構リフレッシュした気分で迎えることができる今日の主日礼拝なのですが、今年はまだまだ猛暑の続き、という感じで少しバテ気味で迎えることになりました。
 今日の聖書でパウロは、「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」と言い、「「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」と言っています。きっとこの猛暑を乗り切るというか、猛暑下にあっても、神さまの御用を果たして行くことが可能なのだと思います。うらやましい限りですが、しかしその背景にはものすごい困難苦難の経験があったことを思います。
 見出しに、「贈り物への感謝」とあります。10節を読むと、「ついにまた」とありますので、15節以下にあるように、以前はパウロの働きを積極的に支援していたフィリピの教会の人々が、何らかの理由で、しばらく支援が出来なかったのだと思われます。久しぶりの支援にパウロは大変喜んだことでしょう。しかし「物」「物資」をもらえたことがパウロの喜びの中心ではありませんでした。そこに込められた「思い」「信仰」をパウロは何よりも喜んでいるのだと思います。14節の言葉にそのことがにじみ出ているように思います。
 境遇というと、多くの場合、生まれた環境等を指す場合が多いのですが、その後の人生において、特に波瀾万丈の人生を生きたパウロにとっては、ほんとに様々な状況に置かれ、苦労を乗り越えて来たからこそ、その一つ一つを境遇と呼び、満足しているのだと思います。
 私たちも、それぞれそれなりにいろいろな体験をして来ました。そして時にその置かれた境遇のあまりの厳しさに、苦悩し、怒り、絶望を覚えたこともあったかも知れません。しかし、そうした経験を繰り返し、最終的に今こうして生きていること、そこから見返すならば、どんな境遇であったとしても、パウロのように満足することができ、神さまによって、もはや不可能なことなど何もない、という境地にまでいたることが出来るのかも知れません。
 まずはこのコロナ禍のマスクをつけた猛暑を乗り越えて行きたいと思います。そして後になって振り返って、あの境遇にも勝利することができたなあ、と笑いながら話せる時が来ることを信じて歩んで行きましょう。

         2020年8月30日 聖霊降臨節第14主日礼拝 笹井健匡牧師

 今日の聖書の個所には、「与える」ということが記されています。「7年目の負債免除の年があるなら、物惜しみするのではなく、貧しい同胞に対して心をかたくなにするのではなく、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。」と8.9節に記されています。そして10節には、「彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きをすべて祝福してくださる。」と記されています。未練なく与えることができるとは自分のものとして固執することがないからであろうと思います。すべては神さまから与えられたものであると私たちが悟るなら、負債を免除し、持っているものを与えることができるのだろうと思います。
 最後の11節には「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に大きく手を開きなさい。」と記されています。現代社会において、貧しい者がいなくなるということは大変難しいことです。新型コロナウイルスが流行っている現在、経済的に逼迫している大勢の人たちがいます。政府は一律10万円を国民に支給しましたが、これは平等ではなく不平等なことだと思わされます。地方自治体が調査をして、本当にお金を必要としている人に多く与えることが大事だったのではないだろうか、と思わされます。
 また、物質的貧しさだけではなく、精神的貧しさというのもあります。
22年前に亡くなられたマザー・テレサは来日した時に、「貧しい人というのは食べ物がなく飢えている人たちだけをいうのではありません。社会から見捨てられている人たち、年老いた人たち、病気の人たち、これらの人たちも貧しい人たちなのです。また、孤独な人たち、だれからも愛されない人たち、忘れられている人たち、必要とされてないと感じている人たち、これらの人たちも貧しい人たちなのです。心を病み、助けを必要としている人たちも、貧しい人たちなのです。」と言われたそうです。マザー・テレサの言われた精神的な貧しさを持つ人に出会ったら、私たちは私たちが持っているもの、時間、心、愛を与えるように心がけたいと思います。
 経済的なものも精神的なものも、すべては神さまから与えられたものです。
私たちが与えられたものを人に与えようとすればするほど、神さまは私たちにさらに与えてくださいます。「与えなさい」という声を聴き、身近なところから与えることができるように、祈りつつ生きる者でありたいと思います。
 
               2020年8月16日 聖霊降臨節第12主日 平島禎子牧師

説教題「平和の実現」               イザヤ書2章1~5節
 
 今日は、75年前、長崎に原爆が投下された日です。いつもはテレビで式典を見ているのですが、今年はそのことを覚えながら、特に11時2分を覚えながら礼拝をささげて行きたいと思います。
 今日の聖書は、「平和」という言葉を思い浮かべるとき、私の頭に真っ先に出てくる聖書の個所です。特に4節の「剣」を「鋤」に、「槍」を「鎌」に打ち直すというところが心に響きます。戦いの武器を、農業の道具に変える、つまり人を殺すものを、人を生かすものに変えるというのです。
 この変革、変換は、イメージがしやすいように思います。翻って、現代社会でこのことが文字通り可能なのかどうか、実際のところ私には分かりません。非常に精巧につくられた核兵器に代表される現代の武器を、農業などの平和の道具に打ち直す、つまり作り替えることができるのかどうか分かりません。
 しかし人類の叡知を集めて高度な武器をつくったのであれば、同じく人類の叡知を結集すれば可能なのではないか、とも思わせられます。競争から共生へ、縦社会から横社会へ世界が変わって行く中で、実現することができるのではないかと思わせられます。
 「長崎の原爆」の関係で有名な永井医師は多くの著作を残されています。その中に以下のようなものがあります。
  …愛で身を固め、愛で国を固め、愛で人類が手を握ってこそ、平和で
  美しい世界が生まれてくるのだよ。
 いとし子よ。
  敵も愛しなさい。愛し愛し愛しぬいて、こちらを憎むすきがないほど
  愛しなさい。愛すれば愛される。愛されたら、滅ぼされない。愛の世界
  に敵はない。敵がなければ戦争も起こらないのだよ。

 結局は、武器を平和の道具に変えることも、戦いをやめることも、自分と共に同じ時を生きている他の人々を、人として尊敬し、心から愛することからすべては始まるのかも知れません。
 神さまの約束を信じて、必ず平和は実現することを信じて、祈りを熱くしつつ信仰の歩みをすすめて行く者でありたいと思います。

   2020年8月9日 聖霊降臨節第11主日礼拝    笹井健匡牧師

 今年も平和聖日を迎えました。コロナ禍の中なので、戦後75年、という節目以上に何か大きな意味が、後世になって分かるのかも知れません。
 「E=mc²」という式をご存知でしょうか。あのアインシュタインの特殊相対性理論の有名な式です。そして彼の意に反して、この1907年に発表された式は、その後、広島、長崎に大きな被害を与えることになりました。
 ふとしたきっかけから、彼の娘に宛てた手紙を知りました。と言っても2010年代ごろにスペインの作家が書いた小説の中に出てくるものです。ですからその信憑性は大いに疑問があります。しかし私はその朗読をインターネットで聴くことができ、大変感動しました。ごく簡単に説明しますが、アインシュタインは1955年まで生きました。つまり10年間、広島、長崎のことを想い、苦しんでいたようです。そしてあのにっくき爆弾に代わる「愛の爆弾」をつくりたいと思って来たが、果たすことができず、間もなく人生を閉じるにあたって、おそらく会ったことがない娘リーゼルに1400通もの手紙を託したそうです。そして人々がこの内容を受け入れることができるようになったら、公開してほしいと伝えたそうです。
 内容は、宇宙の最大のエネルギーは「愛」だということ。「愛は光だ。」「愛は引力だ。」「愛は力だ。」そして「愛は神であり、神は愛だ。」と述べています。そして人類を癒し、生存を存続させることができるのは「愛」だけだというのです。しかし、彼はそれを証明できませんでした。ただ「愛の爆弾」はつくれなかったけれども、一人ひとりの人間は、小さな、しかし強力な、「愛の発電機」をもっており、それを作動させてほしいと訴えています。
 今日の聖書は、パウロが「もっと大きな賜物」「最高の道」として「愛」を説いているところです。実は2千年前から、永い永い人類の戦争の歴史の時代にあって、キリスト教は「愛」こそが人類を救うことを、イエスさまから教えられ、失敗しながも、右往左往しながらも、人々に愛を伝えて来ていたのではないかと思います。「愛」に生きる、そういう人たちが一定の割合に達したとき、御国は来たるのかも知れません。
 イエスさまによって示された愛、そして私たち一人ひとりも神さまから言わば「愛の発電機」を与えられている者として、平和を望んで生きて行きたいと思います。
 
      2020年8月2日 平和聖日(聖霊降臨節第10主日)礼拝 笹井健匡牧師

 人の集う共同体では、何かしらのルールが大切です。そしてまた、集う人々が烏合の衆ではなく、一人ひとりが何らかの役割を担うことによって、集団の秩序が守られると思います。
 今日の聖書は「給仕」が問題になっています。ギリシア語を話すユダヤ人の仲間であるやもめが「日々の分配」(食物の日々の分配、給仕)で軽んじられていると苦情を言いました。このことを知った十二人(十二弟子、十二使徒)は、すべての弟子たちを集め、「自分たちが神の言葉をないがしろにして、食事の世話をすることは好ましくない。」と言いました。十二人使徒は自分たちの役割は宣教であり、食事の世話ではないと語ったのです。しかし「食事の世話」は弟子集団にとって大事な役割でした。弱い立場にある人たちを軽んじるような人には任せられないものでした。それで、十二使徒は「霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい、彼らにその仕事を任せよう。」(3節) と言ったのです。そして、ステファノを含む7人が選出されました。使徒は祈って、7人のそれぞれの頭の上に手を置くということをなしました。頭の上に手を置くという行為は、現代でいえば、按手と同じではないかと思います。7人は按手を受け、「食事の世話」という役割に送り出されたのです。
 今日の聖書から「役割分担」の大切さを思わされました。しかし、8節以降には、ステファノは「食事の世話」のみではなく、宣教もなしたことが記されています。「ステファノは恵と力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間でおこなって」いました。ステファノは、「食事の世話」より「宣教」の方が向いていたのかもしれません。そして、ステファノは最初の殉教者となっていきます。与えられた「役割」は決して固定化されるものではなく、柔軟に対処していくものであろうと思わされます。
牧師の第一の役割は、御言葉の奉仕です。しかし、例えば第5週まで日曜日がある場合、5週目を信徒の証にするということもしていいのではないかと思います。私たちの知らないその人の姿というものを知ることによって、より親しくなれるかもしれませんし、信仰を鼓舞されるかもしれません。時には「役割交換」をしてもいいかもしれません。また、使徒たちが「食事の世話をする」人たちに按手したように、役員就任式などをするのもいいかもしれません。 
私たちの教会において、「役割分担」を神さまの導きによってなしていくことができるように、祈る者でありたいと思います。
  
               2020年7月26日 聖霊降臨節第9主日 平島禎子牧師

 私たちは「神さま」と言えば、通常「天」を思い浮かべ、そこにおられる存在だと思うのではないでしょうか。しかし、先週礼拝で取り上げました聖書の個所にあるように、私たちが信じる救い主イエスさまは、ガリラヤの町や村を移動して、宣教されました。また旧約の神も荒れ野でイスラエルの民と共に歩まれたのです。
 今日の聖書には、突然、「契約の箱」が登場します。言うまでもなく、モーセの十戒、あの石の板が納められた箱です。
 直前の29~32節を見ると、義兄のホバブにモーセは頼ろうとします。そのことがどうなったのかは、記されていませんが、今日の聖書では、主の契約の箱が先頭に立って、天幕を張って宿営する場所を探した、とあります。つまりその後でモーセが祈っているように、神ご自身がイスラエルの民を導き、荒れ野での日々を守られたことが分かります。
 旧約においても、神さまは、天に座しておられるだけではなく、時に応じて地に降り、その大いなる力によって、40年に及ぶ荒れ野の旅をイスラエルの民は無事に乗り越えることができたのです。いろいろ問題はありましたが、重要なのは、神が先頭に立って、この地上を移動して、人間を導かれる、という点です。
 イエスさまも同じように、ガリラヤの町や村を巡られました。つまり、私たちが信じている三位一体の神は、神の方から人間の方へ来て下さる、ということです。人間が脊を向けていたとしても、… 。
 復活の主イエスも、同じように私たち一人ひとりのところに来て下さる方です。たとえ私たちがそっぽを向いていたとしても、忘れていたとしても、神さまの方はいつも私たちを見守って、そして導いて下さっているのです。
 コロナに翻弄されている私たちですが、そのことだけは、しっかりと覚えて、常に守りと導きを与えて下さる神さま、必要に応じて、どこからどこまででも、移動して働かれる神さまを覚えて、信仰の歩みをすすめて行く者でありたいと思います。

            2020年7月19日 聖霊降臨節第8主日礼拝 笹井健匡牧師

 今日は部落解放祈りの日です。今年は祈りに焦点を当てて考えてみたい、という思いが浮かんで来ました。
 言うまでもなく「祈り」はクリスチャンにとって、とても重要なものです。初代教会の様子が使徒言行録と手紙に記されていますが、その中にも、祈りによって様々な困難を乗り越えて行った様子や、当時の姉妹兄弟たちが大変よく祈っていた様子がうかがえます。
 「祈り」のルーツはやはりイエスさまにあるように思います。今日の聖書には朝早く、一人祈られるイエスさまの姿が記されています。日本人の私たちは、どうしても「願い事」が多くなる傾向があるように思います。しかし、本来は、神さまの言葉を聴くことに、また導きを得ることに中心があるように思います。つまり、一人の信仰者として神の前に出て、思っていることをすべからく申し上げ、そして神さまからの答えをいただく、行くべき道を示される、それが祈りの重要な要素であると私は思います。
 時々、「あの人は、ほんとに祈りの人だ」というようなことを聞きます。うらやましい限りですが、私自身はそういう意味では失格ですが、そういう「祈りの人」の存在に今までいつも助けられて来たように思います。だいぶ先でもいいので、いつかは「祈りの人」と言われるようになりたいものです。
 これは平島先生の受け売りになりますが、イエスさまは病の癒しで大忙しでした。もちろん、それも素晴らしい愛の業なのですが、このままペトロの家にいて、押しかけてくる人々を癒し続けることが神さまのみ旨なのかどうか、一人祈って神さまに聴いておられたのではないかと思います。そして、与えられた結論が、他の町や村へ行く、そこで宣教する、というものでした。
 バプテスマのヨハネはご存知のように、荒野にとどまり、来る人々に悔い改めの洗礼を授けました。イエスさまもペトロの家にとどまり、来る人々を癒してあげたいという思いが、つまり愛があられたのではないかとも思わされます。
 しかし、「祈りの人」であるイエスさまは、神さまと語らい、より厳しい道、巡回して宣教して行く道を選ばれたのです。神の僕としての、また私たちと同じ生身の人間としての在り方を、ここで示して下さっているように思います。
 この世的な計算や、賞賛、常識を超えて、救いの道を開いてくださったイエスさまに従って、私たちも祈りを熱くし、必ず祈りは聞かれることを信じて信仰の歩みを進めて行く者でありたいと思います。


          2020年7月12日 聖霊降臨節第7主日礼拝 笹井健匡牧師

 今日の聖書の個所には、イエスさまの激しい言葉が記されています。「わたしが来たのは地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」と記されています。イエスさまが言われている「火」とは、この世が真の平和となるための火であるものではないでしょうか。燃えるような思いを持ち、この世を神の国とするための燃えるような思いの「火」が地上にはない、だからイエスさまはそのような火を投ずるためにこの地上に来られたのです。
 イエスさまが来られる前のユダヤ社会の在り方、家族、親族の在り方は何も問題がないように思われ、律法を守ることが第一であり、隣人を助けようとするようなことはほとんどなされていたかったことではないかと思います。家族の在り方もそのようなユダヤ教の影響を受け、どんな人でも自分の置かれた境遇に甘んじるのが当たり前だったのではないでしょうか。イエスさまは、家族の分裂についても述べられています。これはちょっとひどいのではないかとも思わされますが、何かが起きた時、親子の間に分裂が起きるということがあります。子が正しい場合、子は親に逆らっても自分が正しいと思う道を歩いていくということが、分裂をもたらすということではないかと思います。その時は大変つらい思いをするでしょうが、正しいことをなしていると確信するならば、たとえ誰から何を言われようとも、自分は正しいことをしているのだと、
胸を張って、心にエネルギーとしての火が焚かれていくのではないかと思います。そして、時が経てば親と子の和解もなされるようになるかもしれません。
 山崎朋子さんの「火種はみずからの胸底に」というタイトルの本があります。その中で「底辺女性」、「アジアの民衆」の解放がなされていないということを述べ、山崎さんは自らの胸底に火種がありというとき、その根底には「この世で差別され、抑圧されている人たちとアイデンティファイされなければいけないのではないかと言われています。人の在り方は多様です。人はそれぞれいろいろな考え、生き方をもっています。私は双極性障害(躁うつ病)になって燃え尽き症候群のようになりましたが、自分の火種が燃え上がらずとも決して消えることがない神さまの愛の火、イエスさまの救いの火が投じられているからだと思います。
 イエスさまが投じられる火が私たちの胸底にある火種を燃やしてくださるように、そして教会もイエスさまの火を受けて、炎を燃え上がらせて成長していくことができるようにと祈る者でありたいと思います。
 
               2020年7月5日 聖霊降臨節第6主日 平島禎子牧師

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