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 今日の聖書には新しい神殿建設を鼓舞する言葉が記されています。紀元前586年にユダ王国がバビロンによって滅亡し、エルサレムは陥落、神殿は破戒されてしまいました。しかし、紀元前539年にはバビロニアはペルシアによって滅亡し、ペルシアのキュロス王によって、捕囚の民であったイスラエル民族は帰国を許されました。ダレイオス王の第二年というのは紀元前520年です。その時に主なる神は預言者ハガイを通して新しい神殿の建設の再開をなすようにと、民に呼びかけたのです。

3節の「残った者」とは、昔の神殿を知っている人たちで、おそらく70歳を超えた人たちを指しています。これらの人たちにとっては、再建されている神殿は、前のエルサレム神殿に比べると「無に等しいもの」ではないか、と語っているのです。そのような高齢の帰国民の言葉を踏まえつつ、ハガイは、「今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せ。」「ヨシュアよ、勇気を出せ。」「国の民は勇気を出せ」という主の言葉を取り次ぐのです。(ゼルバベル、ヨシュアとも、当時の国民のリーダー)「今」という時は、時系列による「今」ではなく、神さまの約束が造り出す「今」を意味しています。「勇気を出せ」というのは「気力を失わずに奮い立ちなさい」という意味です。老人たちの嘆きがそのとおりであるとしても、神さまの介入されている「今」という時に、気力を失わずに奮い立ちなさい、ということを意味しているのだと思います。 ― 中略 ―

 9節には「この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると万軍の主は言われる。この場所にわたしの平和を与える」と記されています。ソロモンの建てたエルサレム神殿のような豪華絢爛なものは、新しい神殿にはありませんでした。しかし、神さまは、「この新しい神殿は昔の神殿にまさる」と言われたのです。その新しい神殿には、神の臨在があり、人々の信仰があり、神を礼拝する場として、古い神殿にまさるものなのだ、と言われたのであろうと思わされます。

 神殿とはキリスト教でいうなら教会ということになると思いますが、教会とは建物だけを意味するものではありません。教会は集う人々で構成される共同体をも意味します。新しい会堂が与えられ喜ぶと共に、そこにいる人々の共同体も古いものから新しいものへと変えられていかなければならないのではないかと思います。昔のことを懐かしむのは大切なことでもありますが、そこに留まっていては、今の状態を悲観することにつながるのではないかと思います。新しい教会、新しい共同体は、昔の教会、昔の共同体にまさっているのです。そして、神さまが介入される「今」という時を思いつつ、新しい神殿、新しい教会、新しい共同体を誇りに思って歩んでいくことができるように、祈る者でありたいと思います。


      2023年1月29日 降誕節第6主日 平島禎子牧師


 ふるさとは、多くの人にとって、いいものです。ですから、ふるさとの話をするときには、その人の顔が和らぎ、時に輝くことさえあります。しかし私の場合は、特に部落差別とたたかうようになってからは、非常に複雑な思いを抱えるようになりました。

 ―中略―。

 イエスさまは、ナザレのことをどう思っておられたでしょうか。宣教を始められる前の約30年間は、多くの人と同じように、大好きな、慣れ親しんだ地だったかも知れません。おそらく大工として、貧しい母子家庭の長男として、大変苦労しながらも、親しい人々、愛する人々に囲まれて、それなりに幸せだったのではないかと思います。しかし宣教者となられてからは、状況は一変したのではないでしょうか。

 今日の聖書は、そのことを雄弁に語り伝えてくれているように思います。22節に注目したいと思います。イエスさまの話を聞いた人々は、最初、「ほめた」のです。賛美したのです。しかし、そこから「驚き」に変わりました。イエスさまの言葉は、神の愛と力に満ち溢れていたのだと思います。最終的に人々は、反感をいだきます。イエスさまの出自を問題にするのです。ルカでは「ヨセフの子」に過ぎない、そこらへんにいる、取るに足らない、自分らと同じような、ただの人だと記されています。マルコでは、より詳しく、「マリアの息子」「大工」そして兄弟、姉妹についてまで記されています。

 つまり人々は、驚くべき神の御業を目の当たりにしながらも、自分たちの「当たり前」で推し量り、イエスさまにつまずいたのです。もはやイエスさまにとってのふるさとは、思い出すと胸が熱くなるような場所ではなく、ご自身を拒否し、それゆえ神をも拒む場所になってしまいました。後のはなしですが、パウロにとってのユダヤ人という「ふるさと」も同じようなものでした。

 イエスさまにとって真のふるさとは、言うまでもなく天であり、神さまの御許です。私たちも同じです。やがてその時が来たなら、地上でのふるさとを懐かしく思いながら、天を目指して、神さまの御許に向かって行きます。その時まで、この世で今生きている場所を、ふるさとあるいは第2、第3のふるさととして、精一杯命を輝かして生きて行きたいと思います。

 

    2023年1月22日 降誕節第5主日礼拝 笹井健匡牧師


 イエスさまは湖畔に立つことができないほどの群衆が押し寄せてきたこともあり、漁師であるシモン(ペトロ)の舟に乗られました。岸から少し離れた湖の上の舟に座られ、教えられました。イエスさまは話し終わられると、いきなり、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」とシモンに言われました。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」(5節)と答えました。シモンにとってみれば、長年の漁師としての知識と経験から、魚が一匹もとれるはずはないということがわかっていました。イエスさまの言葉に対して、「私には長年の漁師としての勘がありますし、夜は全くの不漁でした。そのようなことをしても無駄です。」と断ることもできました。しかし、そこで断るのではなく、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」と言い、イエスさまの言葉に従ったのです。そうすると、大漁で網が破れそうになるほどでした。シモンはこの出来事があった後、イエスさまにひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言いました。シモンはとれた魚の多さに驚き、自分の常識に捉われ、イエスさまの言葉を本当には信じていなかったという罪を自覚すると共に、聖なる方であるイエスさまと近しくなれるような者ではない、人間なのだ、ということを言いたかったのかもしれません。イエスさまはシモンに、「恐れることはない、今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(10節)と言われたのです。「そこで、彼らは舟を引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」(11節)と記されています。シモン一人だけではなく、マルコ、マタイにあるように、シモンの兄弟アンデレとゼベダイの子ヤコブとヨハネも共に全てを捨ててイエスさまに従ったのです。イエスさまは、漁師を自分の最初の弟子、一番弟子に選ばれました。イエスさまは、会堂だけではなく、湖畔や山上、山の麓でも人々に教えられ、宗教の専門家ではなく、漁師を弟子として選ばれました。イエスさまは、これまでにない宗教活動をなされたのです。

私たちも常識や知識、また、これまでの経験から、いろいろな判断をします。もちろん、歴史や経験から学ぶことも大切ですが、あまりにもそのことに捉われすぎると、奇跡は起きないのではないかと思います。教会の働きの中で、伝道の業をなしていく時も、こんなことをしても無駄ではないか、というような思いがちらつくこともあるかもしれません。しかし、その時、イエスさまの「やってみなさい」という言葉を聞き、     「お言葉ですから」と言って、従っていく勇気を持つ者でありたいと思います。教会の歩みも個人の歩みも常識や知識、経験を超えた事柄に対する時があります。そのような時にイエスさまの言葉を聞き、「お言葉ですから」やってみましょう、と言って、従っていく者でありたいと思います。

 

       2023年1月15日 降誕節第4主日 平島禎子牧師


 年末に、帰省(4日~6日)を取りやめたので、毎年定番の「お雑煮とがめ煮」のないお正月でした。(もちろん、おせちとお餅は食べましたが。)おかげで例年よりは太らずに済んだようです。また1日の新年礼拝の後は、少しゆっくり過ごすことができました。

 5日(木)の朝、猫の敷物を干しに行くと、近所にプロパンガスの配達の車が止まっていました。朝の静けさを破って「ありがとうございました。」という声が聞こえました。車にあった社名「三愛○○○○」の「三愛」が飛び込んできました。ああ、三愛!

 ちょうど、イエスさまが洗礼を受けられた今日の説教のところを考えていた私は、おお!と、ビビっときました。

 イエスさまの洗礼は、なかなか理解がしにくい出来事です。いろいろな解釈がなされますが、今回私に示されたのは、「三つの愛の象徴」でした。

 第1は、イエスさまが、自らすすんで洗礼をうけられたことです。マタイではその理由が「正しいことをすべて行う」と述べられています。人間がもっと強い存在だったら、洗礼は必要なかったのかも知れません。しかしイエスさまは人間の弱さをよくよくご存知でした。だからあえて受けられたのかなあと思います。私も受けたのだから、あなたも受ければいい。そして救われなさい、と。イエスさまの、人々への愛が第1です。

 第2は、ヨハネが洗礼を授けたことです。天の力による洗礼でもよかったはずです。山室軍平の映画には、彼が天からの大雨による洗礼を受けたシーンがとても印象的に演出されていました。しかしイエスさまは、ヨハネから洗礼を受けられました。ヨハネは人々の代表ということができると思います。するとイエスさまの洗礼は、人々からのイエスさまへの愛の象徴と捉えることもできます。

 第3は、神が顕現したことです。言うまでもなく、神の愛が、「愛する子」「心に適う者」という言葉で直接表現されています。

 イエスさまの洗礼は、神の愛とイエスさまの愛と人間の愛、この三つの愛が交わり、呼応している、言わば愛の三重奏の出来事なのです。

 そして、洗礼は、新しい時代の幕開け、スタートを告げるものでもありました。私たち一人ひとりも、この年も、イエスさまの愛と共に、歩みをはじめて行きたいと思います。

 

        2023年1月8日 降誕節第3主日礼拝 笹井健匡牧師


 2023年、新年あけましておめでとうございます。みなさんは、どのような朝を迎えられたでしょうか。

 昨年は、これまで生きて来た中でも、本当に特別なことがあった年でした。過去のこと、また遠いこととして認識していた戦争が2月24日からずっと続けられ、世界は非常に混沌とした時を迎えています。

 個人的にも、6月13日に還暦を迎え、21日から左顔面神経麻痺になりました。10月に無事に治ったとはいえ、今でも少しつっぱり感や、ヒリヒリ感が残っています。これからの世界や、自分自身のことを思うと、不安や心配が沸き起こってきますが、しかし考えようを変えると、ここまで元気に生きて来られて、本当に幸せ者だったなあと、あらためて神さまに感謝の思いでいっぱいです。

 今日の聖書は、「断食についての問答」という見出しがついています。これは少し表面的なタイトルです。一つ前の「レビを弟子にする」の後半が、レビの家での「食事」の場面になっていたので、ここで「断食」が引き合いに出されている、という感じだと思います。ですから、後半では、布の話とぶどう酒の話が例として語られています。「断食」「布」「ぶどう酒」は、たとえです。イエスさまがここで言おうとされているのは、「花婿」つまりイエスさまが来られたことによって、それまでの「古い」世界は終わり、新しい世界が始まった、ということだと思います。

 イエスさまの登場を受けて、その姿を目の当たりにした人々は、権威ある「新しい教え」と言いました。イエスさまの教えは、新しかったのです。そしてそのイエスさまが言われた、近づいた「神の国」は、新しい世界を言われたのです。

 最後の「新しいぶどう酒」は、「新しい革袋」に、というところでわたしたちクリスチャンは、すぐ新しい教え、つまり福音は、「教会」に、と思ってしまいます。まちがいではありませんが、このとき、イエスさまが言われたもともとの意味は、新しい教え、つまり新しい「律法」は、これからの新しい世界に、というものだったと思います。

 イエスさまが「新しい世界」を指し示して下さって、「もう」2千年。しかし、見方を変えると「まだ」2千年かも知れません。2千年前も「画期的」な「時」でしたが、もしかしたら、今も同じく「画期的」な「時」なのかも知れません。

 2023年が、新しい世界の幕開けとなるよう、祈りたいと思います。

 

      2023年1月1日 新年礼拝(降誕節第2主日) 笹井健匡牧師