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「ふるさと」 ルカによる福音書4章16~30節

 ふるさとは、多くの人にとって、いいものです。ですから、ふるさとの話をするときには、その人の顔が和らぎ、時に輝くことさえあります。しかし私の場合は、特に部落差別とたたかうようになってからは、非常に複雑な思いを抱えるようになりました。

 ―中略―。

 イエスさまは、ナザレのことをどう思っておられたでしょうか。宣教を始められる前の約30年間は、多くの人と同じように、大好きな、慣れ親しんだ地だったかも知れません。おそらく大工として、貧しい母子家庭の長男として、大変苦労しながらも、親しい人々、愛する人々に囲まれて、それなりに幸せだったのではないかと思います。しかし宣教者となられてからは、状況は一変したのではないでしょうか。

 今日の聖書は、そのことを雄弁に語り伝えてくれているように思います。22節に注目したいと思います。イエスさまの話を聞いた人々は、最初、「ほめた」のです。賛美したのです。しかし、そこから「驚き」に変わりました。イエスさまの言葉は、神の愛と力に満ち溢れていたのだと思います。最終的に人々は、反感をいだきます。イエスさまの出自を問題にするのです。ルカでは「ヨセフの子」に過ぎない、そこらへんにいる、取るに足らない、自分らと同じような、ただの人だと記されています。マルコでは、より詳しく、「マリアの息子」「大工」そして兄弟、姉妹についてまで記されています。

 つまり人々は、驚くべき神の御業を目の当たりにしながらも、自分たちの「当たり前」で推し量り、イエスさまにつまずいたのです。もはやイエスさまにとってのふるさとは、思い出すと胸が熱くなるような場所ではなく、ご自身を拒否し、それゆえ神をも拒む場所になってしまいました。後のはなしですが、パウロにとってのユダヤ人という「ふるさと」も同じようなものでした。

 イエスさまにとって真のふるさとは、言うまでもなく天であり、神さまの御許です。私たちも同じです。やがてその時が来たなら、地上でのふるさとを懐かしく思いながら、天を目指して、神さまの御許に向かって行きます。その時まで、この世で今生きている場所を、ふるさとあるいは第2、第3のふるさととして、精一杯命を輝かして生きて行きたいと思います。

 

    2023年1月22日 降誕節第5主日礼拝 笹井健匡牧師


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