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「子どものように」 マルコによる福音書10章13~16節

 今日は「こどもの日」です。現在では、もちろんまだまだ不十分なところもありますが、それでも一応こどもたちは、大切にされるべき存在になりました。しかし数十年前までは、大人より劣る未熟な存在であり、その存在価値が丁稚奉公や子守り等、労働力として考えられている面もありました。

 イエスさまの時代は、もっと低く小さな存在だったのだろうと思います。今日の聖書は、幼児祝福でよく引用される個所です。子どもを抱き上げ、手を置いて祝福するという行為が今の教会でも行われています。イエスさまの、子どもたちへの豊かな愛を感じます。

 それと同時に「子どものように」神の国を受け入れなければ決してそこに入れないというイエスさまの言葉から、子どものように素直に、全幅の信頼をもって神の国を受け入れようと思います。この伝統的なとらえ方はもちろん大事だと思いますが、事はもっと深刻なものを含んでいるように思います。

 ここに登場する「子ども」は、ただの子どもではないかも知れません。というのは前後の個所を含めた10章1節~31節は、「財産」の話だからです。当時、女性、子どもは、男性の財産でした。ひどい話ですが、そこにはしかし、だからこそ「保護される」という側面がありました。そんな社会で「離縁」は社会的「死」を意味しました。子どもたちの場合も、いわゆる「母子家庭」は大変厳しい環境を子どもに課しました。さらに「孤児」となればいっそう厳しくなり、まともに生きて行くことは非常に困難になります。

 弟子が叱ったのは、こうした子どもたちだったのではないでしょうか。金持ちの子どもだったら、「どうぞどうぞ」と言ったかも知れません。(献金を期待して)

14節の「妨げてはならない」は、「解放せよ」という言葉が使われています。おそらく弟子たちは、子どもたちを捕まえていたのだと思います。それに対してイエスさまは憤られたのです。この「憤り」という言葉は「激しい怒り」を意味する言葉です。イエスさまは激怒されたのです。(マタイ、ルカでは省略)

 子どもは考えるより感じ、躊躇するより直行します。イエスさまを見て、その方へワ~と体当たりでもするかのようにやって来ました。この子どものように、イエスさまのところへ行く者こそ、神の国を受け入れそこに入る者です。私たちもその他のもろもろのものは二の次にして、イエスさまを第一として信仰の歩みを進めて行く者でありたいと思います。

 

  2024年5月5日 復活節第6主日礼拝 笹井健匡牧師


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