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 ヨハネによる福音書8章32節には、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」と記されています。ヨハネによる福音書14章6節を見ますと、「わたしは道であり、真理であり、命である。」というイエスさまの言葉が記されています。イエスさまの存在そのものが真理なのです。イエスさまに聴くということによって、私たちは真理を知り、その真理によって、真に自由な者へとさせられていくのです。

 しかし、イエスさまが、「真理はあなたたちを自由にする。」と言われたことに対して、ユダヤ人たちは、「わたしたちはアブラハムの子です。だれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」(33節)と言いました。彼らは、自分たちの祖先には、信仰によって神により義とされたアブラハムがいる、我らアブラハムの子孫こそ自由な民なのだ、という誇りを持っていただけに、今さらイエスさまから自由にしてもらう必要などない、と言ったのです。それに対してイエスさまは、「罪を犯す者は罪の奴隷である。」と言われました。罪を犯すことのない人間はいません。罪に隷属している私たちを自由にしてくださるのがイエスさまなのです。「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」(36節)とイエスさまは言われます。罪の奴隷である人間をイエスさまは自由にしてくださるのです。そのイエスさまが真理そのものであり、真理が私たちを自由にしてくれるのです。

 私たちを自由にするものは、イエスさまの言葉です。イエスさまを信じることは、知的に知るということとは違います。「わたしの言葉にとどまるならば」と31節に記されています。「とどまる」と言う言葉はギリシア語で「メノー」という言葉で、「離れない」という意味があるそうです。イエスさまの言葉から離れずに、イエスさまにとどまるということが、イエスさまを信じることです。イエスさまから離れない、イエスさまの懐の中にいる、そのような生き方をすることが大切なのではないかと思います。自分で自分を自由にすることはできません。イエスさまの言葉にとどまることだけが私たちを自由にすることができるのです。

 私たちは、イエスさまにつながることによって、真の自由を与えられた存在です。その与えられた自由によって、今度は、人々を自由にする真理であるイエスさまのことを伝えていく者でありたいと思います。現在、地震で被災され不自由な生活を強いられている人たち、戦禍の中にある人たち、様々な差別や抑圧の下にあり、人権を蹂躙されている人たち、また、病の中にある人たち、そのような人たちに真の自由が訪れるように、祈り、行っていく者でありたいと思います。

    2024年1月28日 降誕節第5主日 平島禎子牧師


 CSで子どもたちに話をするとき、どういうことを話すか、なかなか苦労しますが、聖書の登場人物が個性的なときは、たいへんやりやすかった訳です。旧約ではノア、ヨナとか、新約ではペトロ、ザアカイなどがいますが、今日の聖書のニコデモもわりと話しやすいところです。イエスさまの「新たに生まれなければ」(3節)という言葉に、ニコデモは「年をとった者が‥‥もう一度母親の胎内に入って」(4節)という、とんちんかんな応答をしています。

イエスさまとニコデモとの嚙み合わない会話を子どもたちに分かりやすく、おもしろく語れば良かった訳ですが、大人になって、ニコデモは、本当にそれだけなのかと、自分が年をとって、あらためて思います。

ニコデモはファリサイ派の律法学者で(1,10節)、最高法院の議員(1節)でした。そしておそらくかなりの高齢でした。社会的地位もあり、人々からの信頼も厚かったであろうそれなりの人物が、夜こっそりと、何の肩書もない、田舎出身のイエスさまのところにやってきたのです。しかも2節の挨拶からは、謙遜な、心からイエスさまを尊敬している気持ちが伝わってきます。

しかしイエスさまは人の心をお見通しです(2:25)。3節の答えは「神の国を見たい」というニコデモの本心、渇望をついたものでした。いきなり核心をつかれたニコデモは動揺し、もしかしたら少し意地悪に、4節のとんちんかんな応答をしたのかも知れません。

彼は、おそらく幼いころから熱心に律法を学び、まじめに実践し、「正しき」人として生きて来ていました。ローマの支配、つまり人間の支配が終わり、神の国、つまり神の支配が実現するのを心待ちにして、熱心に祈っていたのではないかと思います。彼が期待したのは、律法を熱心に守る、その上に何をすれば神の国をみることができるのか、という問いへの答えでした。しかしイエスさまが言われたのは、水と霊、つまり悔い改めて、聖霊によって新しい人になることが、神の国に「入る」ことだというものです。

律法順守、厳格な実践の延長上に、神の国が実現するのではなく、神を信じ、神からの風、聖霊を受けて新しい人として誕生する、そのことによって神の支配のなかに生きていくことができる、そしてそれは地上のあらゆるもの、絶対と思えるあのローマをもはるかに凌駕したものなのだから、と言われたのです。

 神のもとから吹いて来る風を受けて、また新しく誕生し、この一年を主と共に神の支配の中、生きていく者でありたいと思います。

  2024年1月21日 降誕節第4主日礼拝 笹井健匡牧師


 1月8日(月・休)午後9時52分、平島禎子師の父が亡くなりました。翌日から12日(金)まで、葬儀のため福岡へ帰省しました。火葬を終えた後、降り続いていた雨が一時的に止み、雲間から太陽の日差しが降り注いだのを見て、私は個人的に大変慰められました。(児島教会礼拝堂に立つ姿を思い出します。)

 今日の聖書は、ヨハネ福音書が記す、最初の弟子たちです。他の3福音書では、4人の漁師が最初の弟子です。(5人目に徴税人を弟子にしておられます。)

ヨハネでは、アンデレと名もなき弟子、ペトロ、そしてフィリポとナタナエルの5人になります。

 アンデレともう一人の名もなき弟子は、もともと洗礼者ヨハネの弟子でした。二人は、ヨハネの紹介というか、お墨付きというか、つまりはヨハネを通して、イエスと出会ったと言えると思います。

ペトロは、直接的には、兄弟アンデレを通してイエスと出会いました。しかしおそらくは、洗礼者ヨハネのところに通うアンデレに、以前から刺激を受けながらも、何かしかの違和感というか、「違う」という感じをペトロは洗礼者ヨハネに抱いていたのかも知れません。イエスがジャストミートだったのです。

 フィリポはアンデレとペトロと同郷でした。もしかしたら二人とは、旧知の仲であり、彼らと同じようにメシアを待ち望んでいたのかも知れません。

 ナタナエルはおそらくフィリポと親しい友人であったと思われます。もっと言えば二人は一緒に聖書を読み、祈る仲だったのかも知れません。さらに言えばナタナエルは、カナ出身であり(21:2)、ヨセフのことを知っていたかも知れません。フィリポの強いリードで、ナタナエルはイエスと出会えました。

 私の場合は、教会においてキリストと出会い、洗礼を受けてから数年後にやっとイエスと出会うことができました。もちろん復活の主イエスです。もしかしたら多くのクリスチャンがキリストに出会い、キリストを信じて生きていくようになって、人生の転機に、危機にある時、強烈な、復活の主イエスとの出会いを体験するのかも知れません。そしてそこから、新しい人生を生きるのです。

 イエスさまと共に生き、宣教をなし、一緒に食事を、生活を共にした弟子たちのようにはいきませんが、私たちも聖書を通して、また礼拝、祈り、奉仕等を通して、復活の主イエスに出会い、心新たにされて、イエスさまと共に新しい人生を歩んで行きたいと思います。

 

   2024年1月14日 降誕節第3主日礼拝 笹井健匡牧師


 新しい年、2024年を迎えました。1日には能登半島で大きな地震があり、2日には羽田空港で大きな事故があり、心が痛い年明けとなりました。祈。

 疫病、戦争、地震(自然災害)は、古代からいつも人類を苦しめて来ました。2020年から新型コロナが、2022年からは戦争が。2024年からは地震をはじめ、自然災害に気をつけたほうがいいのかも知れません。

 イエスさまは、約2000年前、同じような、いやさらに暗い世に、希望の光として誕生されました。ヨハネは、創世記を念頭に置きながら、ギリシャ哲学の「ロゴス」の命、つまり生きたものとして、そしてその生命力によって、この世の闇を照らす光として、イエスさまを描きます。

 イエスさまご自身も、繰り返し(8:12、9:5、12:46)自らのことを「世の光」と言われています。教会もそのことを大切なメッセージとして伝承し、あの「光の子」(エフェソ5:8)という自己認識が生まれました。私たちは、光であるイエスさまを信じる、光の子です。闇が深まれば深まるほど、光はその輝きを増し、その役割は大きくなるのです。

 筑豊の宮田教会に居た時、一度だけ坑道に入ったことがあります。黒川抗という試験抗ですが、教会学校の子どもたちと、保護者と一緒に入りました。終わったあと、いつもは元気な子どもたちが、ぐったり疲れ、暗い顔をしていたことを今でもよく覚えています。

 闇の中を生きるのはとても大変です。想像以上に疲れます。そんな厳しい状況にあった人々の、救いの希望となったのがイエスさまでした。

手さぐりの時代、また多くの闇が世を覆っている時代、なかなか前に進む勇気を持つことが難しい面があります。しかし私たちイエスさまを信じる者は、足元を主の光で照らしていただいています。遠く、先の方を見通すことはできなくても、主の光のもと、まず一歩、踏み出すことができます。そこから、次の一歩、そしてさらに、一歩と、少しずつ前進して行くことができるのです。

 厳しい状況下にある人々のことを覚え、祈りを熱くしましょう。そして必ず道は備えられ、乗り越えて行くことが出来ることを信じて、顔を上げましょう。

新しい、はじめの一歩が、次の一歩につながって行くことを信じ、イエスさまの光をしっかりと見つめて、生きて行く一年にしたいと思います。

 

     2024年1月7日 降誕節第2主日礼拝 笹井健匡牧師