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 今日よりアドベント、待降節に入りました。アドベントとは「到来」という意味です。クリスマスの方から私たちのところへやって来るのです。

 今日の聖書には、マリアへの「受胎告知」が記されています。マリアは、当時の社会の中で軽視されていたガリラヤのナザレという町に住む女性でした。そこに天使ガブリエルが現れるのです。ガブリエルは「あなたは、身ごもって男の子を産むがその子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。…」と語りました。マリアは考え込んだ末に、天使の言葉を受け入れることができませんでした。まだ結婚もせず、男の人を知らないで、なぜ妊娠できるのだろうか、という疑問をガブリエルに伝えました。

ガブリエルはマリアの親類であるエリサベトが高齢にもかかわらず、初めての子を妊娠し、もう六か月になっていることをしるしとして語り、「神にできないことは何一つない。」と語りました。この言葉を聞いたマリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」と答えました。はしためという言葉は僕とも訳せる言葉です。マリアは主の僕として、自分に起きる出来事を受け入れたのです。

 イエスさまの誕生は、人間にこの世の限界を打ち破る力を生じさせていくのです。マリアは信仰をもって、神さまにすべてを委ねるということをなしました。それは、この世の常識を破るだけではなく、結婚前に妊娠をするという、この世では非難される出来事も引き受ける覚悟のある、勇気のある、力のある信仰でありました。マリアは神さまにすべてを委ねる力強い信仰を持つことができるようになったのです。

 私たちが、毎年、アドベントの時を持ち、イエスさまの誕生を待ち望み、イエスさまを迎えるということは、マリアが驚いたようにイエスさまが私たちのもとに来てくださるのは、奇跡のようなものだという驚きを、毎年、毎年、持つことが大事ではないかと思います。当たり前のことではなく、驚くべきことがクリスマスの出来事なのです。

私たちはイエスさまを迎え、イエスさまに出会い、イエスさまに倣う歩みをなしていかなければならないのではないかと思います。それは勇気のいることであるかもしれません。

具体的に伝道の業をなしていく時、こんなことをしても無駄ではないかという思いがよぎるかもしれません。しかし、「神にはできないことは何一つない」のです。私たちがマリアの信仰に倣ってすべてを神さまに委ねる時、奇跡は起きるのではないかと思います。

 マリアが驚きと戸惑いをもっていたにも関わらず、天使ガブリエルの言葉を聞いて、最後には、「わたしは主のはしため(僕)です。お言葉どおり、この身になりますように。」と言いました。そのようなマリアの信仰に倣い、私たち一人一人も主の僕として、信じられないようなことでも、お言葉どおりになりますように、と言える者でありたいと思います。アドベントの時、マリアに思いを馳せ、主イエスの到来を待ち望む者でありたいと思います。

   2022年11月27日 アドベントⅠ待降節第1、降誕前第4主日 平島禎子牧師


 今年は、11月24日(木)が収穫感謝祭になります。ですから日本キリスト教団の教会歴では、その前の日曜日の今日が、収穫感謝日となります。

 また児島教会では、この収穫感謝日の近くのタイミングで野外礼拝も行われました。一昨年は鷲羽山で野外礼拝をささげた次の日曜日が収穫感謝日でした。昨年は、金甲山で野外礼拝をささげ、翌週は聖徒の日・召天者記念礼拝をささげ、そしてしばらくして収穫感謝日の礼拝をささげました。

 いつも礼拝をささげている会堂を出て、大自然の下で礼拝をささげるのは、何とも言えない恵みがあります。大空、海、山等を見ていると、もうそれ以上何も言葉はいらない、といつも思いました。

 今日の聖書は、いわゆる”愛敵”のところです。今日は、45節後半に言われている神さまの「愛」に注目したいと思います。

 太陽と雨が出て来ます。大自然の営みの中でも、この二つは特に人間が生きて行くため、より具体的には農耕をしていくため、古代ではどうしても必要なものでした。生活の糧を得るために、どうしても必要なものを、神さまは分け隔てなくくださる方であり、それが神の愛であるとイエスさまは言われるのです。

 わたしたち人間は(古代イスラエルの民に限らず)、近い者をより愛し、遠い者を軽んじる傾向があります。近いとピントが合いますが、遠いとピンボケするわけです。(近すぎてもピントが合いませんが。)

 生きて行くために、群れをつくり、その近い存在、仲間を大切にします。そして遠い存在は、多くの場合、競争する存在、争い、闘う存在になってしまいます。そんなわたしたち人間のことをよくよくご存知のイエスさまは、ユダヤ教で大切にされていた隣人愛を用いて、それを昇華させようとしてこう教えられたのではないかと思います。近しい者、仲間内にだけ適用していた”愛”を、より拡大させ、ついには敵にまで拡大させ、人間本来が持っていた小さな愛の種を、神の愛にまで高めようとされたのだと思います。

 太陽と雨には、国境はありません。同じように、人境もないのです。大自然の営みと恵みを豊かに感じるこの時にこそ、わたしたちは今一度、神の大きな愛に心を向けたいと思います。そしてその愛を、文字通り命を懸けてわたしたちに伝えてくださったイエスさまに感謝したいと思います。神の恵みはわたしたちに充分、ちょうどよく、すべての人に与えられているのです。

 

      2022年11月20日 収穫感謝礼拝 笹井健匡牧師


旧約聖書の中で最も重要な契約とはモーセがシナイ山にて律法を授与された「シナイ契約」です。しかし、律法授与の後、イスラエルの民の多くは律法に反する悪を行ないました。預言者たちが出てきて真の神に立ち帰るようにと民を諫めても、異教の神に走り、律法を損なうことをしてしまいます。民の側から契約破棄をしたと言えるのではないかと思います。

今日の聖書の後半(8章8~11節)は、エレミヤ書31章31~34節までの引用です。「新しい契約」の預言と言われています。「新しい契約」は人間の外にある板や書物に書かれたものではなく、「人間の思い」に「人間の心」に記されるものだと言うのです。やがてそのような「新しい契約」が到来するのだとエレミヤは預言したのです。

8章1節から6節までには、大祭司であるイエスさまについて記されています。祭司は供え物といけにえを神に献げるのが務めでした。イエスさまは十字架につけられ、人間としての苦しみを苦しみ抜かれ、息を引き取りました。この十字架にかけられたイエスさまこそが、最初で最後の真のいけにえだったのではないかと思います。そのイエスさまという犠牲、いけにえによって、心打たれ、イエスさまを信じるようになった者すべてに罪の赦しが与えられるようになったのです。しかし、十字架ですべては終わりませんでした。イエスさまは3日目に復活されたのです。復活の主イエスが弟子たちに現れ、イエスさまを裏切ったという罪を赦されたからこそ、新しい契約としての十字架と復活の福音が与えられたのではないかと思います。新しい契約は、エレミヤの時代から約600年後に、イエス・キリストによって成就したのです。イエスさまは新しい契約の仲介者として、新しい契約において、私たちに救いの道を示してくださっているのです。

イエスさまは契約の仲介者として、私たちの前に現れてくださいました。新しい契約をイエスさまは私たちに下さいました。私たちは新しい契約の下で、活き活きと生きていくことができるのです。新しい契約の仲介者であるイエスさまを見上げて、自分の思いをイエスさまを通して神さまに祈って歩んでいくことができるのです。教会の礼拝において、目には見えないけれども、主イエスが礼拝そのものをとりなしてくださっている、仲介者として、礼拝を神さまに献げてさせてくださっている、ということを思う者でありたいと思います。

私たち一人一人、新しい契約の仲介者である主イエスに聞き、神さまに喜ばれる歩みをなしていく、聖霊に導かれて歩んでいく、そのような者となれるよう、祈る者でありたいと思います。


2022年11月13日 降誕前第6主日 平島禎子牧師


 今日は聖徒の日です。礼拝堂の前の壁面いっぱいに、召天者の方々のお写真を並べて、礼拝をささげています。少し前方の真ん中には、4月12日に召天された岡明孝さんの写真があります…中略…。

 キリスト教は、いろんな風に形容されますが、そのひとつに“自由な宗教”があります。それまでのユダヤ教の儀式と戒律(律法)中心の在り方から、割礼、食物等多くのものが、“自由”になりました。それは人類の歴史としても、大きな進歩でした。しかし、なかにはその自由を履き違える人々も出て来ていたようです。

 たとえばユダヤ教には厳しい食物規定がありましたが、キリスト教では、基本何を食べてもいいことになりました。中には、行き過ぎてしまい、暴飲暴食に走る者さえある始末でした。そして大切な教会での食事の時、空腹の者がいる一方、酔っている者もいるということさえありました(コリント一11:20~21)。

 パウロは、自由を得たのは、罪を犯すためではなく、愛し合うためだと教えます。そしてそれは聖書全体を全うすることになると言うのです。

 誕生した頃の教会が大切にしていた教えは、「神を愛し、人を愛する」という黄金律です。それはイエスさまがエルサレムでの最後の日々に、教えられたことでした。

 キリスト教は、自由な宗教です。今日の聖書の見出しにある、「キリスト者の自由」の実践としてあるのが、隣人愛です。

 召天者の姉妹兄弟の方々も、それぞれに弱さや欠けを持つ私たちと同じ人間です。しかし、私たちキリスト者は、その負の面を注視するのではなく、召天者のお一人おひとりが示して下さった、愛の業にこそ目を注ぎたいと思います。たとえそれがどんなに小さなものであっても、些細な事であっても、そこには神の御手が働いて、その示された愛は、永遠に輝き続けるのです。

 暗き、混迷を深める時代だからこそ、先達たちが示して下さった愛のバトンを受け継いで、私たちもそれぞれに小さな愛の業をなし、この世に小さな灯りをともす、信仰の歩みを進めて行く者でありたいと思います。

 

    2022年11月6日 聖徒の日・召天者記念礼拝 笹井健匡牧師