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 先週ペンテコステを迎え、初めてのこととして、礼拝後、みんなで草取りをしました。はじめ役員会で話していたときは、正直あまりピンと来ませんでした。しかし、実際やってみると、とてもきれいになり、教会の誕生日をみんなでお祝いしたような、とても暖かい気持ちになりました。本当に、ありがとうございました。

 今日の聖書は、誕生したての教会の様子を伝えてくれています。いろいろなことを思わされる個所ですが、今回は45節の最後の「分け合った。」という言葉が、特に心に残りました。教会に集った人々は、さまざまな困難を抱えていたのだと思います。経済的な困窮者も多かったと思います。さまざまな「必要」があったのだと思いますが、それに応じて、ささげられたものが分かち合われたとはなんという素晴らしい姿でしょうか。もちろん、時代や信仰の状況や、さまざまな違いはありますが、その精神は現代においても大切だと思います。

 同じような内容を記す4章34節には「一人も貧しい人がいなかった。」と記されています。さらに6章1節を見れば「やもめ」たちが多くいたことが想像され、ほかの手紙等を見ると「みなしご」も多くいたことが記されています。

 誕生したばかりの教会は、貧富、老若、いろいろな人が集まっていました。そうした人々が主イエスの名のもとに、みんな満たされて暮らしていたのです。

分かち合っていたのは、経済的な面だけではありません。信仰も、祈りも、そしておそらく喜びや悲しみも分かち合っていたのだと思います。イエスさまから教えられた「互いに愛し合いなさい」との教えをみんなが実践していたのだと思います。教会は、神の愛と隣人愛に満ちた、愛の宮だったのだと思います。

 今、大変厳しい時代を迎えていますが、私たちの教会も神の愛に満ちた場所として、いろんなものを分かち合って生きたいと思います。そしてその分かち合いが教会の外まで広がって行くように、祈りながら歩んで行きたいと思います。

 

2021年5月30日 聖霊降臨節第2主日礼拝 笹井健匡牧師


 ペンテコステおめでとうございます!聖霊はいろんなふうに例えられます。「風」や「火」のイメージが強いですが、「雨」もあります。今年は梅雨の中でこの日を迎えたので、雨が一番強く感じられる気がします。

 雨は、天から降り注ぐ恵みです。もちろん多すぎると困りますが、適度な雨は多くの生きとし生けるものにとって、その命のために大変重要で、必要不可欠なものです。

 同じように、私たちが豊かに生きて行けるように、聖霊は多くの賜物を与えて下さいます。8節以下には「知恵」「知識」「信仰」「治癒力」「奇跡」「預言」「異言」等の、当時の教会で重要だったものが列挙されています。

 現在の教会ではどうでしょうか。例えば「信仰」「愛」「祈り」「司会」「奏楽」「伝道」「奉仕」「問安」「とりなし」等々、挙げればきりがありません。しかし大切なのは、11節にあるように、これらはどんなに、いろいろ、であろうとも、同じ聖霊の働きであり、そしてそれは天の計画通り、一人ひとりに与えられているということです。賜物に上下や大小はありません。みんな違って、みんな素晴らしいのです。

 残念なことに、この違いが、争い、たたかいのもとになっていることがあります。聖霊を信じていると言いながら、賜物が騒動のもととなっているとしたら、何をかいわんや、です。

 7節にあるように、一人ひとりに異なる霊の賜物が与えられ、その働きが現れるのは、全体の益となるため、です。たくさんの、異なる楽器が集まり、一つの交響曲を演奏するのです。それぞれの違いは、大きなハーモニーとなって、より美しい世界を実現することができるのです。

 賜物は、天からのギフトです。ギフトにはプレゼントの意味の他に、天からの才能といった意味があります。神さまがご計画にしたがって、そして何より、私たち一人ひとりをこよなく愛されて、それぞれに最も良きギフトを与えて下さっているのです。

 天からのギフトを生かし合い、共鳴し合って、神さまをほめたたえ、イエスさまに従い、そして聖霊の導きのままに、信仰の歩みをすすめて行く者でありたいと思います。

 

2021年5月23日 ペンテコステ礼拝 笹井健匡牧師


 今年もイエスさまが昇天され、ペンテコステを待つ10日間を迎えています。そんな中、緊急事態宣言が発出されました。例年にも増して、いろんな意味で、祈りをさらに熱くしてこの時を過ごして行きたいと思います。

 今日の聖書は、イエスとニコデモの会話の場面です。ニコデモはファリサイ派に属する議員でした。おそらく宗教的政治的指導者として、人々から一目置かれている存在だったと思われます。ニコデモはイエスが行われたしるしを根拠に、イエスが神のもとから来られた教師であることを知っていると言っています。ニコデモは、人間社会の指導者らしく、自分の知識や思考によって判断できる根拠を挙げて、イエスが神のもとから来られた教師であると言ったのです。しかしイエスはニコデモに対して「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われました。

 ニコデモは、イエスの言われたことが理解できませんでした。イエスは、さらに言葉を続けられます(10節以下)。ニコデモは、それでも理解できなかったと思われます。しかし分からないながらも、イエスには何かがあるということにこだわり続けました。7章51節では、ユダヤ人指導者たちがイエスのことを批判している時、ニコデモはイエスを弁護する発言をしています。19章39節以下では、アリマタヤのヨセフとともにイエスの埋葬をしています。おそらくニコデモは、イエスのことを最初は理解できないながらも、イエスから離れることができず、最後はイエスのことを信じるようになったのではないかと思います。

 黒澤明監督の『生きる』という映画があります。…中略…。

主人公は、「死」が迫って来ることによって、それまでとは違う、新しい自分に飛躍することが出来ました。人間の思いを越えた「何か」が働いた時、人は新たに生まれることが出来るのかも知れません。

 「風は思いのままに吹く。…」と言われたイエスの言葉を思い、神のもとから吹いて来る風に、自分の身を委ねてみてはどうでしょうか。そして人間は新たに生まれることができるという希望のもとに、不確実かも知れないけれど、計り知ることのできない“何か”のある明日を信じて、それぞれの人生を歩んで行く、また教会の歩みをすすめて行く者でありたいと思います。

 

2021年5月16日 復活節第7主日礼拝 笹井健匡牧師


 クリスマスからのしばらくの時、降誕節のうれしい時を過ごしますが、同じようにイースターからの40日間、復活節の喜びの時を過ごします。今年は、今週の木曜日、13日に昇天日を迎えます。イエスさまの昇天によって復活の喜びの時は、いったん幕を閉じます。
 今日の聖書は、2千年前に昇天を体験した弟子たちの様子を記しています。弟子たちの関心は依然としてイスラエルの再興にあります。6節の「この時」とは、5節に記されている「聖霊による洗礼を授けられる」時のことです。それに対してイエスさまは、それはあなたがたの感知することではなく、ただあなたがたは聖霊を受けたなら、地の果てまでイエスさまの証人となることを話されました。するとイエスさまは天に上げられ、弟子たちから離れ去って行かれたのです。
 復活の主とともに喜びの40日間を過ごした弟子たちは、おそらく大変寂しい思いにとらわれたのではないでしょうか。名残惜しそうに天を見つめていた弟子たちに天使が現れ、言葉をかけられます。
天使は端的に、イエスさまがまた来られることしか告げていません。天使の言葉の言外の意味を想像するならば、「天を見上げて、突っ立っていないで、地に足をつけて、地を見つめて生きなさい。あれやこれやと思い煩うのではなく、今、ここを、生きなさい。大丈夫。あなたたちはひとりではない。」、こんな感じでしょうか。
昇天は、それまでの、イエスさまがなにかにつけ、手取り足取り教え導いてくださった時から、弟子たちが自分の足で歩いて行く時への変換のときでした。ここから弟子たちは、自分たちで聖書を読み、祈り、互いに愛し合いながら、聖霊降臨の時を待ったのでした。その意味で、イエスさまの昇天は、弟子たちの自立と成長にとって必要なものだったのだと思います。
 私たちも救いを求めてイエスさまのところに来て、そこで癒され、救われる訳ですが、そして洗礼を受けたなら、そこからイエスさまを救い主と信じる、証人としての歩みを始めるのではないでしょうか。もう一度初心に帰って、私たちもイエスさまの昇天を経て、地上を歩むイエスさまの証人として、自立して、力強く生きて行く者でありたいと思います。

               2021年5月9日 復活節第6主日礼拝 笹井健匡牧師

 今から約2000年前に誕生したキリスト教の特徴のひとつに、自由があります。その中でも、食事に関すること、食べ物に関することは大きなことでした。ユダヤ教時代、あれこれと定められていた食物規定から、基本的にキリスト教は自由になりました。おそらく生前のイエスさまに起因すると思われます。21節に戒律として記されているものは、16節を見ると食べ物、飲み物、等々具体的に挙げられています。
 キリスト教は、それまでの言い伝えや、決まりごと、から自由になりました。イエスさまに由来するもの、イエスさまの教え、言動からの影響は大きいわけですが、もうひとつは御国を望む(3章2節)ことにより、この地上のものすべてを俯瞰して、有限なものとして捉えることができ、そしてそれらに縛られない、真の自由な信仰を持つことができたのではないかと思います。
 当時問題になっていたのは、2章8節にあるようにギリシャ哲学の影響でした。教会に集う人々も時代の子です。現代には現代の、ギリシャ哲学に代わる、影響、問題があるかも知れません。
地産地消ということが言われています。私たちは生まれ育った環境に大きく影響を受けている訳ですから、その土地で産出されるものを、その土地の人々が消費することは理にかなっているかも知れません。あまりにも食が豊かになりすぎ、世界中の食べものを食するようになったことへの反動かも知れません。しかし、行き過ぎると不自由なかんじになるので、地産地消を大事にしつつ、ほかのものも取り入れる、というような柔軟な在り方が大事なのかも知れません。
いずれにしても私たちはイエス・キリストを信じることによって、救われ、この世の何ものにも縛られない自由を与えられました。一番重要なのは、心、魂が自由であることです。そのためにも、いつも復活の主を仰ぎ、永遠のときを想い、そこから自分の人生をより豊かに生きて行く者でありたいと思います。いつの日か神の御国が実現することを望みながら…。

              2021年5月2日 復活節第5主日礼拝 笹井健匡牧師