今日の聖書は、有名な「土の器」のところです。神と人との対比がとてもうまく表現されている言葉だなあと思います。創世記の、人間を創造された物語が背景にあるのかも知れません。しかしより直接的には、当時の人々の生活があったようです。人々はセキュリティーがあまりない時代の中で、「宝」を「土の器」すなわち素焼きの貧しい、そしておそらくはひび割れや、欠けのあった器に隠していたのです。それは人々の生活の知恵、生きる、生き抜いて行く力だったのだと思います。
「宝」とは先行する1~7節に記されている「イエス・キリストの光」です。そうするとここでは、パウロの、自分自身の実体験が反映されているようにも思えます。パウロはダマスコ途上、強烈な天からの光を受け、「なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒9章)という声を聞きました。迫害に燃えていた一人の青年を、キリストの光が照らし、悔い改めさせ、それまでとは真逆の、大伝道者へと変身させたのです。
パウロは数々の素晴らしい伝道をなしましたが、その力の源泉をだれよりもよく知っていました。迫害者であったこの自分をも転身させ、伝道者として用いておられる、それはすべて神の力であるということを。
8~9節は、パウロが伝道の実体験から得た究極の結論だと思います。どんな絶望的な危機にあっても、彼は救われ続けて来たのです。どうしてでしょうか。それは最初の「四方から」の言葉にヒントがあります。前後左右、あらゆる苦難に取り囲まれたとしても「上」だけは空いているのです。苦しみの中で、悲しみのどん底で、なお顔を上げると、そこには天の光が輝いていたのです。あのダマスコ途上で自らを照らした‥。
私たちは、生きて行くとき、さまざまな苦難、悲しみに出会います。この世の状況がどうしようもなく思える時こそ、私たちはパウロのように天を見上げる者でありたいと思います。苦しくて、苦しくて、あまりにもきつくて、どうしようもないとき、もう一歩も前に進むことができないとき、私たちは上に進みましょう。神さまの光に包まれる時、この世の憂いは去り、ただイエス・キリストのみが共にいて、私たち、自分自身を新たにしてくださいます。そうして、新しい生きる力を与えられ、また新たに生きなおしてく歩みを続けて行く者でありたいと思います。
2022年6月26日 聖霊降臨節第4主日礼拝 笹井健匡牧師
古代世界においては、名前によって人と人を区別するだけでなく、その名前の持ち主の本質と能力とが結びついており、色々な人の名前を使って奇跡を行なう者がいたそうです。私たちの信じている「イエスの名」も力のあるものでした。弟子たちにとって、「イエスの名」というのは、大きな力でした。
聖霊降臨の出来事の後で初めて「イエスの名」を使ったのはペトロでした。「イエスの名」によって、生まれつき足の悪い男の癒しがなされたのです。この出来事が起きた後、ペトロは神殿で説教をしました。(3・11~26) ペトロは、その中で、「あなたがたの見て知っているこの人を、『イエスの名』が強くしました。それは、『その名』を信じる信仰によるものです。…」と言っています。ペトロは、自分が癒したのだとは決して言いませんでした。足が不自由だった男の「イエスの名」への信仰によって癒やしがなされたのである、と言うのです。ペトロがいくら立派であったとしても、癒やされた人の信仰がなければ、癒しの業はなされないのです。ペトロの説教を聞いて、仲間になった男たちの数は五千人になりました。女たちも加えると五千人以上の人たちの群れがペトロたちの仲間になったのです。
しかし、ペトロとヨハネが話をしている時、神殿守衛長とサドカイ派の人々が近づいてき、二人を捕らえて、翌日まで牢に入れました。翌日になると最高法院が開かれ、そこに、議員、長老、律法学者たち、大祭司一族が集まりました。ペトロとヨハネはこれらの人たちに囲まれ、真ん中に立たされました。「お前たちは何の権威によって、『だれの名』によってああいうことをしたのか。」と尋問されました。ペトロはその問に対して、聖霊に満たされて答えました。「あなたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあの『ナザレの人、イエス・キリストの名』によるものです。」とその答の中で言っています。ペトロは力強く言います。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが『救われるべき名」は、天下において『この名』のほか、人間には与えられていないのです。』イエスさま以外に私たちを救うことのできる方はいないのです。私たちが「救われるべき名」はただ一つ、「イエスの名」以外にはないのです。
「イエスの名」は、「救われるべき名」です。「救われるべき名」とは、強い表現です。「救われる名」でもいいと思いますが、「べき」と言う言葉が入ることによって、その意味が強くなると共に、「皆が救われるべき名」なのだ、という意味になり、救いの対象がすべての人になるのではないでしょうか。
「イエスの名」は「救われるべき名」であり、「その名」はすべての人にひらかれているのです。そのことを心に留め、「イエスの名」によって、祈り、またある時には癒され、そしてまた、宣教の業をなしていく者でありたいと思います。真の救いに与った者として、「救われるべき名」である「イエスの名」を謙遜な心を持って、用いていく者でありたいと思います。
2022年6月19日 聖霊降臨節第3主日 平島禎子牧師
7年前の今日、大島達子姉が召天されました。一世紀に迫るすごい人生、また尊敬すべき信仰人生でした。私笹井健匡は、明日60歳の誕生日、いわゆる還暦を迎えますが、達子さんからすれば、まだまだひよっこかも知れません。
中学2年で親友の死を、高校2年でクラスメイトの自死を経験した私は、どこかに救いを求めていたのだと思います。そして最終的に導かれたのが、キリスト教の教会でした。そこは私にとって、それまでの価値観が逆転するような、地上のパラダイスだったのだと思います。
今日の聖書に書かれている「信者の生活」の様子は、ペンテコステに誕生したばかりの、2千年前の教会の様子を伝えてくれています。具体的な個々の事は違いますが、その精神というか、大切な核心は、私が出会った教会の姿そのものでした。信徒として10年間お世話になるなかで、自他の、人間的な破れや欠けも多く経験しましたが、それを越えて余りある愛と希望と、そして信仰をいただきました。
イエスさまの時代、荒れ野での共同体を形成していた信仰者の群れはいろいろありましたが、教会は、町々村々に、建てられて行きました。人々の日常生活の営みのただ中に、神の奇跡が出現していたのです。現代でも寺社の多くは人里離れたところにあったりしますが、教会は街の真ん中に、人が多いところに存在しています。
召命を受けて、会社を辞める時、上司から「信じるものがある人は強いね。」と言われました。そうです。私たちはイエス・キリストを信じる者です。信じて生きる喜びは、何よりも強く、他の何ものにも代えられません。
現代は、いろいろな宣教の困難に囲まれていますが、一番大事なことは、自らが信じる人生を生きて行くことだと思います。必要なら、神さまは必ずや道を開いて下さる方です。その神さまに心から、最後まで、信頼をして、イエスさまを信じる人生を全うして行く者でありたいと思います。
2022年6月12日 聖霊降臨節第2主日礼拝 笹井健匡牧師
ペンテコステおめでとうございます。
五旬祭(ペンテコステ)の日、 イエスさまの弟子たちは全員一つになってエルサレムのある部屋に集っていました。その時に、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、家中に響いた」(2節)のです。その出来事は、予測不可能な突然のものでありました。それは「突然」の「風」であったのです。「風」という言葉は、「プノエース」というギリシア語で、「風、息」という意味があります。4節に記されている「霊」、「聖霊」を表すギリシア語は「プネウマ」で、「風、息、霊」という意味があります。異なる言葉ですが、この二つの言葉は同義語として捉えることができます。このことから、風が吹いたり、鳴ったりするのは、「霊」を感覚的に示す徴であるということが表されているのではないかと思います。
そして、次に「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまる」ということが起きました。「炎のような舌」も「聖霊」を意味しています。ここで特筆されていることは、霊が一人一人の上に与えられたということです。一人一人の上に聖霊が降ったということはとても大切なことであり、互いに違いを認め合いながらも、その違いを生かし合うということが大切なことではないかと思います。
ヨハネによる福音書3章8節には、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くか知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と記されています。聖霊は思いのままに働くのだと思います。どこから来たかはわからなくても仕方ありませんが、どこへ行くのかは知りたいものです。しかし、聖霊に導かれて生きるということは、どのようなところに行くのかわからず、霊に導かれるままに、神さまに信頼して生きていくことではないかと思います。
聖霊の働きは「風」の働きと似ています。私たちをやさしく包む風、時に激しく吹きすさぶ風、これらの風に身を委ねて生きていくものでありたいと思います。教会も聖霊の風が吹くままに、存続していくものであります。児島教会がこれから先どのようになるのかは、誰も知りません。しかし、どうなるかはわからないけれども、児島教会にいる以上は、教会が成長していくことを望んでいきたい、そのために聖霊に導かれながら、なすべきことをなしていきたいと思っています。
今日はペンテコステ、教会の誕生日です。大きな風が吹き、炎のような舌が一人一人に降った、聖霊降臨の出来事が起きた日です。今日のこの日、私たち一人一人の上にも聖霊が降ることを信じ、聖霊によって満たされる教会であることを再確認する日でありたいと思います。神さまのもとから吹いて来る風を受け、それぞれの賜物をいかしあう教会であるよう祈る者でありたいと思います。
2022年6月5日 ペンテコステ 聖霊降臨節第1主日 平島禎子牧師