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「神の選び」 ガラテヤの信徒への手紙1章11~14節

クリスチャンになる、洗礼を受けるということは、人間的な思いが一切入ってはいけません。「神の選び」によってなせるものなのです。このことはクリスチャンになって教会生活をするということにも当てはまると思います。自分の好き嫌いで教会を自分が選ぶのではなく、神さまに選ばれて一つの教会の枝となって教会生活をするということが大事です。また、牧師が教会か招聘される時も同じことが言えるのではないかと思います。どのようなところか知らずしてただ神の選びによって与えられた教会に着任するということが大切ではないかと思います。サムエル記上16章7節には「・・・人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」と記されています。「神の選び」とは人の思いを超えてなされるというのです。そのことは、牧師はもちろん、先にクリスチャンになった者、これから洗礼を受けようとするものは覚えておかなければなりません。

ガラテヤの信徒への手紙1章11~24節には、パウロがガラテヤの信徒に対して、自分がなぜ使徒として選ばれたのかということを述べています。パウロは以前、ユダヤ教徒として教会を迫害し、滅ぼそうとする者であった、と述べています。しかし、パウロはダマスコ途上でイエスの声を聞いたのです。その時の経験を、パウロはガラテヤの信徒への手紙1章15、16節に記していますが、「わたしを母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子を私に示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」のであると言っているのです。

初期のキリスト教は、ユダヤ教の影響を強く受けていました。ですから、イエスを信じると言いながらも、「異邦人」を排撃するユダヤ人キリスト者がいたのです。ですから、パウロが異邦人伝道をしている、ということを快く思わない人たちもいました。そのためにパウロは今日の聖書の箇所で弁明をしているのです。

しかし、パウロにとって教会を迫害したということは、終生消えることのない痛みだったのであろうと思います。しかし、その痛みのために神はパウロを選ばれたのではないかと思います。キリスト者たちを迫害していた者を神は、キリスト教伝道、世界伝道のために選ばれたのです。

私たちの信じる神は、痛みを知られる方です。イエスさまは十字架上で痛み苦しみ、殺されました。そのイエスさまを信じる者は、自らの中にある痛みを抱えたまま、イエスを通して与えられた神の赦しと選びを感謝して受け、自分の痛みがある故に与えられている使命というものを知り、神さまに喜ばれる人生を歩んでいく者でありたいと思います。

2017年1月22日 降誕節第5主日 平島禎子牧師

「イエスの成人式」 ルカによる福音書2章41~50節

京都を中心に「十三参り」という習慣があります。津山でも有名な萬福寺で行われてるそうです。私自身も、小学校六年生になった春に、十三参りに行った記憶があります。父が「昔で言うたら、元服。もう大人やで。」と言ったのを覚えています。ユダヤ社会では、十三歳になると「大人」として認められていました。今日の聖書は、その直前の12歳のイエスさまの様子を伝えてくれています。

実は、これにはもとになった書物があり、そこに5歳、6歳、8歳のイエスさまの様子が記されています。最後にこの今日の12歳の場面が記され、その書物は終わっています。ルカはおそらく、イエスさまの幼少期の記事がひとつもないのは福音書としてふさわしくないと思い、その書物から、この記述を採用したのだと思います。

私には、ここには、イエスさまの、少年らしい、思春期らしい姿、つまり真の人としての、生き生きした姿が描かれているように思えます。

12歳から、大人になる準備、具体的には「断食」の練習をはじめていたそうです。しかし、今日の聖書では、すでにイエスさまは、一人前の「大人」としてふるまっておられるように思います。だからこそ、帰りは、自分ひとりで帰れるから、勝手な行動をとられたのだと思います。

両親は、しかし、まだ子どもと思っているイエスさまがいなくなり、必死で探したことでしょう。たぶん、子どもが行きそうなところを中心に・・・。

しかしイエスさまは、エルサレム神殿におられたのです。そして、学者たちの真ん中に座り、質疑応答しておられたのです。この姿は、のちにイエスさまが約20年後、エルサレム神殿に入城され、「宮清め」をされたことを連想させます。この時、もしかしたら、そんな日が来ることを、イエスさまは感じながら議論しておられたのかも知れません。

この後、イエスさまはナザレに戻られ、長い年月、家族のために生きられました。いつの日か、またエルサレム神殿で迎える日を遠くに感じながら・・・。

このイエスさまの姿は、イエスさまにとっての成人式だったのだと思います。イスラエルの現状を知り、このままでは、いけないことを悟られ、自らの使命を感じられながら、過ごされたのではなかったか、と思わされます。

私たち、クリスチャンの成人式は「洗礼」であるように思います。人によってその時は様々であり、神さまのみがご存知です。初心を大切にして、そして「大人」のクリスチャンとしての歩みをなしていく者でありたいと思います。

2017年1月15日 降誕節第4主日礼拝 笹井健匡牧師

「荒れ野」 マタイによる福音書3章1~6節

人生には、さまざまな障害がつきものです。逆に言えば、障害のない人生というのは天国であり、地上での健全な人生ではないのかもしれません。人は皆、何らかの宿題を神さまから与えられて、この世に誕生しているのです。そして、その宿題を解決することができるように、必要な障害、つまり試練を、人生のところどころに神さまが置かれているのだと思います。

若い時の苦労は金を払ってでもするように、日本でも教えられています。若い時、苦しんだ人ほど、後になって立派な人間になれるように思います。作物でもあえて、苦しませて、それによっておいしいものに成長させることができるように、また獅子がその子を、谷底に落とし、這い上がって来た子だけを育てるようにしているように、人間もまた、本来は若いうちに、苦労するほうがいいのかも知れません。

大学の神学部に編入学したとき、母教会の業が忙しく、また共同作業所の後援会の事務局をさせていただいて、ほとんど学校に行かず、唯一の必修科目である神学概論まで、最初の2・3回しか出席しなかったんで、さすがにその教授は怒られました。編入して来た学生なのに、なんてことだ、と。

そんな中、一年の最初の授業だけ出れば単位が取れる教授がいました。その教授自身が、最初だけ出たら、あとは出なくてもいいと、と言っておられたのでその通りにしました。その最初の授業でとうとうと語られたテーマ、それが「荒れ野」でした。いかに「荒れ野」の経験が大事かを90分しゃべり続けられました。

今日の聖書は、バプテスマのヨハネの登場の場面です。イエスの先駆者として登場した彼は、荒れ野に登場しました。そしてそこで、悔い改めの洗礼を授けていたのです。人々は、彼の前に、自らの罪を告白しました。私自身、教会で初めて罪の告白の経験しました。聞いた人たちは、みんなでそれを受け止め、共に背負ってくれる信仰の友となります。私にとっては、教会は地上の天国でした。

しかし、10年間育てていただいた教会を出てからは、ほんとに「荒れ野」のような教会をたくさん目の当たりにして来ました。やはり人間の集まりです。人を見るな、神を見よ!とよく言われます。イエスさまの道備えをしたヨハネはそれが自らの役割であること、そして「荒れ野」の経験を、イスラエルの民に思い起こさせました。(バビロン捕囚)。

私たちもそれぞれに、荒れ野の体験をもっています。その体験から、救い主である主イエスに導かれ、救われ、宿題を果たして行く者でありたいと思います。

2017年1月8日 降誕節第3主日礼拝 笹井健匡牧師

「新しい出発」マタイによる福音書2章1~12節

 新年おめでとうございます。新しい年、2017年が良き年となりますように、心を込めて祈りたいと思います。
 クリスマスの愛の光の中で、今日のこの礼拝を神さまに、そして新しく誕生された主イエスにささげたいと思います。博士たちと同じように。
 彼らは、おそらくペルシャの学者、今で言う、シンクタンクにあたるような、王様のブレーンだったのだと思います。私たちが想像する以上に、当時の天文学はすすんでいました。彼らは、南西の方向に、ひときわ大きく光り輝く「星」を見つけ、すすんでいました。彼らは、南西の方向に、ひときわ大きく光り輝く「星」を見つけ、これは、ユダヤに新しい王が誕生した、とかんがえたのだと思います。宝物をたずさえてやってきたのは、いわば視察の意味もあったのだろうと思います。しかし、新しい王は、本来、王の居場所である王宮にはいませんでした。今度はヘロデのほうが、自らのブレーンに王(メシア)の誕生の地を問いただします。そこで、ベツレヘムがでてくるわけです。ミカ書5章1節のことばによって。
 博士たちは「星」に導かれ、ベツレヘムに行き、主イエスと会いまみえます。最初はとまどったのかもしれません。おそらく、貧しい家に、貧しい身なりの母マリアとともに、安物の布にくるまれた赤ちゃんを見たからです。しかし、その赤ちゃんは、きっとこの博士たちに微笑んだのではないでしょうか。しかもその微笑は、彼らの心、魂に届く、愛のこもった微笑だったのだと思います。
 博士たちは、予定どおり、用意してきた黄金、乳香、没薬をささげたのです。貧しい身なり、しかし尋常ではない存在感をもった、赤ちゃんイエス、その前にひれ伏し、拝みました。主イエスをメシアとして受け入れたのです。イエスをキリストと信じる者となったのです。
 博士たちは、夢のお告げによって、きたときとは別の道を通って帰っていきます。来るときは、この世の常識通り、王宮に、新しい王を訪ねてきたのですが、彼らは、おそらく、ユダヤ人の王を超えた存在、神から遣わされた神的な存在、いや神そのものに、会いまみえたのだと思います。彼らは、ここから、この時から、新しい自分となり、そして、新しい出発をなしたのだと思います。
 ここにいます私たちも、単なる新しい年を(受け身で)迎えるのではなく、自分の行くべき道、新しい別の道を、神さまに示され、イエスさまに導かれて歩む年としたいものだと思います。きっと、その先に、神さまの祝福、平和、新しい世界があることを信じてともに進んで行く者でありたいと思います。

2017年1月1日 降誕節第2主日礼拝 笹井健匡牧師