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 長い聖霊降臨節が終わり、今日から降誕前に入ります。遠くにクリスマスを見据えながら一つ一つの歩みをすすめて行きたいと思います。クリスマスというと「喜び」の出来事ですが、しかしその土台には、神の痛みがあったということも覚えておかなければいけません。ヨハネ3:16にあるように神さまは愛するイエスさまを賜るほどこの世を愛して下さいました。しかしそれは神さまにとっては「痛み」でもあったのです。
 わたしたちは普段「神」というと創造主であり、全知全能で、何か超然とした存在を思い浮かべます。その通りなのですが、同時にイエス・キリストによって表された神は、遠くに離れておられる方ではなく、人間の悲しみ、苦しみを自らの痛みとされる方なのです。
 今日の聖書は、イエスさまがエルサレムに入城される直前の出来事です。ヨハネ福音書では、このラザロを生き返らせたことが大きく取り上げられています。11章の初めから読むとよく分かりますが、イエスさまはラザロを助けるために危険を冒してエルサレムへと来られました。
 姉のマリアが泣き、一緒にいた人々も泣いているのを見て、「憤り」「興奮して」涙を流されたのです。人々の痛みをを共有されるイエスさまの姿がリアルに描かれています。この後、イエスさまは死後四日経ち、すでに墓に葬られていたラザロを生き返らせたのです。
 現代の私たちには受け入れがたい出来事ですが、おそるべき奇跡がここに起こっています。人間の悲痛な悲しみ、うめきを、神は捨て置かず、必ず救ってくださる、というメッセージが込められているように思います。
 イエスさまはすでに死を覚悟しておられました。そしてこのことをすることによって、より危険は確実なものになることをご存知でした。それでもイエスさまは人々の痛みを捨て置かれなかったのです。
 神さまは愛するイエスさまをこの世に賜り、ご自身も痛みを経験されました。私たちが信じる神は、痛む神なのです。私たちの悲しみ苦しみを捨て置かず、痛みを覚えられる方が私たちの神さまです。
 クリスマスの出来事の根底に「神の痛み」があることを覚えながら、共ん心からの喜びをもって今年もクリスマスを迎えることができるように、信仰の歩みをすすめて行きたいと思います。

2018年10月28日 降誕前第9主日礼拝 笹井健匡牧師

 十字架はキリスト教のシンボルになっていると思います。しかし、イエスさまが十字架にかかられる前までは、十字架は残酷な処刑台以外の何ものでもありませんでした。十字架刑を下された者は、自分の十字架の横木を刑場まで持って行くということがなされていました。十字架というものはあくまでも刑を受けた者を苦しめ、死に至らせる道具であったのです。
 今日の聖書のところでイエスさまは、第一回目の受難予告をされます。イエスさまは、御自分が多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者から排斥されて殺され、三日目に復活することになっていると言われました(31節)。ペトロは今日の聖書の前の個所で、イエスさまへの信仰告白をなしています。ペトロはイエスさまがこの世で栄光を受けられる方だとも思っていました。イエスさまは、ユダヤ社会の宗教的指導者を屈服させ、ユダヤ社会の支配者になる、王になる方であると思っていたかもしれません。それなのに、イエスさまは、ペトロの思いとは全く反対のことを、受難予告で言われたのです。それを聞いたペトロはおもしろいわけはありません。イエスさまをわきへお連れし、いさめるということをなしたのです。そうするとイエスさまはペトロに対し、「サタン、引き下がれ。」という大変強い言葉でペトロを叱り、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている(33節)と言われたのです。神の思いと人間のこの世的な思いというのは異なるものなのだと思います。人間的な、この世的な栄光というものは、神の意志に反するものであるのかもしれません。イエスさまは弟子たちに「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」(34節)と言われました。イエスさまが言われる十字架とは人を死に追いやるほどの苦しみの象徴として言われたのではないかと思います。
 「自分の十字架」を負うことによって、生活環境が変わったり、自分の持っていた価値観の転倒が起きることがあるかもしれません。それは、貧しい方へ、貧しい方へと向かう在り方であるかもしれません。また、自分の苦しみを受け容れて生きるのみならず、他者の、隣人の苦しみをも負う歩みをすることになるかもしれません。しかし、そのような歩みをしんどくても続けていくならばイエスさまからほめられるようになるのではないかと思います。私たち一人一人、それぞれの置かれた場にあって、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスさまに従っていく、そのような歩みを、祈りつつなしていく者でありたいと思います。

2018年10月21日 聖霊降臨節第23主日 平島禎子牧師

 今日の聖書は、真共同訳聖書の見出しにもあるように、パウロが一人の若者を生き返らせるところです。おどろくべき事柄ですが、使徒言行録9章36節以下にはペトロがタビタという女性を生き返らせたことが記されています。使徒言行録前半の中心人物であるペトロが「生き返らせる」という奇跡を起こしたように、後半の主人公であるパウロも同じ奇跡を起こした、ということだと思います。
 若者は、3階の窓に腰掛け、居眠りをしてしまい、1階に落ちてしまったのです。おそらくパウロは2階の広間で説教を続けていたのだと思います。若者を生き返らせた後、まるで何事もなかったかのように、2階に戻り、夜明けまで話し続けたと記されています。トロアス最後の夜とは言え、いかにパウロが伝道に燃えていたかがうかがい知れます。
 しかし、今日の聖書はもうひとつ、私たちに大事なことを教えてくれます。それは現代においては当たり前のようになされている「聖餐式」についてです。7節には週の初めの日に、パンを裂くために集まっていたことが記されています。最初期の礼拝は、おそらく、主イエスが弟子たちと最後の食事をされた木曜日の夜に集まり、行われていたと思われます。それが、復活された日の夜に変わり、そして現代に通じる復活された日の朝、つまり日曜日の朝に行なわれるようになったのではないかと考えられます。
 そしてその集会の名前が「パン裂き」ではなかったかと思われるのです。11節にはパンを裂いて食べたことが記されています。つまり、まず神さまを礼拝し、その後共に食事をするということが最初期の礼拝だったと思われるのです。
 礼拝を共に、食事を共にすることは不可分の大切なことだったのです。その時間を通して、最後の晩餐はもちろん、給食の奇跡や、ふだんのイエスさまと共に食した交わりを想起していたのだと思います。つまり「主にある交わり」のときでした。これは神を愛し、隣人を愛することに通じます。「パン裂き」において互いに愛し合うことを確認し、信仰の証しをなし、また近況を報告し合い、そこに復活の主が共におられることを思いながら過ごしたのだと思います。
 私は「愛餐」という言葉がとても好きです。1部の礼拝の後、2部の愛餐の時を過ごし、信仰を支え合い、高め合っていたのではないかと思います。
 私たちも礼拝はもちろん、時空うを超えた、主にある交わりに生きる信仰者として、これからも共に歩んで行きたいと思います。

2018年10月14日 聖霊降臨節第22主日 笹井健匡牧師

 教会で一番大切なことはもちろん礼拝です。そして、あまり言われませんが、第二に大切なことは、礼拝後や集会や行事の時に持たれる、共に食事やお茶をいただきながらの交わりであると思います。礼拝と交わりの時を大切にすることによって、心も体も満たされるのではないかと思います。
 今日の聖書の個所は「四千人の給食」と言われているところです。イエスさまと群衆は三日間一緒にいたけれども、食べ物がなく、空腹のまま群衆を帰らせるのはかわいそうだ、とイエスさまは弟子たちに言われました。しかし、弟子たちは、近くに店もないし、こんなに多くの人たちの食べる食糧はない、とイエスさまに言いました。しかし、イエスさまが「パンはいくつあるのか」と問われると、「七つです。」と弟子たちは答えました。全く食糧がなかったわけではなく、おそらく、イエスさまと弟子たちが満足できる量の食物はあったのです。群衆を解散させた後、イエスさまと自分たちは七つのパンを食べることができると弟子たちは思っていたのかもしれません。
 しかしイエスさまは、その七つのパンをとり、「感謝の祈りを唱えてこてを裂き」人々に配るように弟子たちに渡し、弟子たちはそれを受け取り大勢の人々に配りました。また、後から小さい魚が少しあることもわかり、イエスさまは「賛美の祈り」を唱えて、弟子たちに配らせました。すると、奇跡が起き、そこにいた人たちは食べて満腹したのです。この奇跡はどのような出来事だったのかと不思議に思わされます。パンを分けても分けてもおパンは減らなかったのか、それとも後から魚が出てきたように、群衆の中に食糧を持っている人たちがいて、それを出していったのか、などと思わされますが、真相はわかりません。ただ、そこにいる人たちが食糧をみんなで分かち合って、満たされたということは事実なのではないかと思います。
 いくらお金があり、食べる物が山のようにあったとしても、本当にその人が満たされるという経験ができるでしょうか。満たしても満たしても満たされない欲求があるだけではないかと思います。しかし、少ない食べ物でも、神に感謝と賛美の祈りをなし、そして分かち合いの精神を持つことによって、人間は本当に満たされるということを知ることができるのだと思います。
 七つのパンと少しの魚を神さまに感謝し、群衆に配られたイエスさまを信じ、私たちも神を信じ、分かち合いの精神を持つ者でありたいと思います。そして分かち合うことで満たされるということを信じて、小さな愛の実践をなしていくことができるよう、祈る者でありたいと思います。

2018年10月7日 聖霊降臨節第21主日 平島禎子牧師

 今日は礼拝後、三宅八重子姉の納骨式が行われる予定でしたが、台風のため次週に延期になりました。
 八重子さんについては、皆さんの方が長い付き合いであり、いろいろな思いを持っておられるのではないかと思います。私の中に強くあるのは、一言で言えば「信仰の人」です。訪問すると結構長い時間いろいろとお話をしてくださいましたが、その根底にはいつも「信仰」がありました。
 「こころの友」10月号には、生き方の土台としての「信仰」を持とう、ということが書かれていました。まさに八重子さんの生き方そのものでした。
 今日の聖書はアポロあるいはその関係者が書いたと言われるヘブライ人への手紙です。新約聖書の中でも個性的な書簡ですが、とりわけこの11章は、読者の心を揺さぶり、その信仰を奮い立たせたのではないかと思います。
 私たちクリスチャンは「信仰」について一生悩み、考え、問う人生を送るのかも知れません。なぜなら「信仰」とは「見えない」からです。しかしこの著者は世界は、「見えないもの」すなわち神の言葉によって創造され、そして信仰者はその「見えないもの」を信じ、そこから希望を持って生きて行く存在だと言っているのです。4節以下には旧約聖書に登場する「信仰者列伝」が記されています。実際には、さらに雲のように多くの名もなき信仰者たちが存在しました。そしてその歩みの延長線上に、今、自分たちはいるのだと言っているのです。35節以下には厳しい迫害についても触れられていますが、それでも信仰者たちは、自らの信仰を貫き、未来を、また天を見据えてその生涯を全うしたのです。
 今は違う意味で、大変な時代です。「見えない」信仰をしっかりと持って生きて行くとことは容易ではありません。しかし、そんなとき、天の先達たちの信仰が私たちを勇気づけてくれます。地上の信仰の友は少なくなっても、その分天上の信仰の友は多くなっているのです。そして天から私たちを励まし、見守っていてくださっていると私は思います。
 天上での再会を楽しみにしながら、その時に笑って「その後」を報告できるように、互いに助け合いながら信仰の道を歩んで行きたいと思います。

2018年9月30日 聖霊降臨節第21主日 笹井健匡牧師

 今日の聖書では、「昔の人の言い伝え」という言葉がでてきます。これは紀元200年頃までは成文化されず、口伝で受け継がれてきたものです。この言い伝えというのは、律法そのものではなく、律法を守るために人間が作った規則です。エルサレムからやってきたファリサイ派や律法学者たちが、食事の前に手を洗わないイエスさまの弟子たちを見て、「昔の人の言い伝え」をなぜ守らないのか、と言いました。イエスさまはそのことに対して、イザヤ書29章13節を引用されて語られた後、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」といわれたのです。(8節) そして、「あなたたちは、自分の都合のようように「昔の人の言い伝え」だけを大切にして、真の神の掟をないがしろにしている」(13節参照)とイエスさまは、ファリサイ派の人々、律法学者たちを糾弾したのです。「昔の人の言い伝え」は神ではなく人間にとって都合のいい言い伝えでしかないとイエスさまは言われたのだろうと思います。
 マルコによる福音書12章28節には、最も重要な第一の掟は「神を愛すること」(民6:5)であり、第二の掟は「隣人を自分のように愛すること」(レビ19:18)
とあります。この二つの掟は相互不可分である一つの掟であると思います。神を愛さずして、自分を、そして隣人を愛することはできず、自分、隣人を愛することなくして神を愛することはできません。
 「神の掟」とは「愛すること」です。私たち一人一人は、私たちが愛を知らなかった時から神さまに愛されている存在です。時には、苦しみ、悩みが私たちを襲い、神の愛の中に自分がいることを忘れるといったこともあるかもしれませんが、しかし、試練が与えられることも神の愛の一形態であろうと思います。苦しみながらも神への愛を持ち、そして神からの愛の中にいることを忘れず、神さまの御心を求めるならば、不可能にしか思えなかったことも可能になっていくのです。そして、自分の苦しみや悩みのみに捉われることなく、いついかなる時も隣人を愛していくことができるようになるのではないかと思います。
 「神は愛である」(ヨハネ一5:1)ことを心に刻み、真に「神の掟」である「愛するということ」を忘れず、そして、「愛すること」に人間的な解釈を加えず、「愛」そのものを神から受け、「神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する」という「神の掟」を守っていく者でありたいと思います。

2018年9月23日 聖霊降臨節第19主日 平島禎子牧師

 明日17日(日)は敬老の日です。ハッピーマンデーの関係で毎年日が変わるので、なんか変な感じ、ありがたみの薄れる感じがするのは私だけでしょうか。特に幼い頃、9月15日は故郷の岩清水八幡宮の一年で最大の祭りの日だったので、敬老の日ともあいまって、特別な感じを持っていた日でした。
 キリスト教は「老い」に関して少し弱い麺があるように思います。老齢となったパウロのいくつかの手紙を除けば、あまり「老いること」が聖書に登場しないからです。そもそもイエスさま自身が、若くしてこの世を去ってしまわれました。イエスに従う、とよく言いますが高齢の信仰者として、自らの救い主を見つめながら歩むとき、やはり難しい面があるように思えます。
 今日の聖書は、教会をキリストの体にたとえ、そこには様々な役割を担う者たちが存在することを記しています。最初の三つ「使徒」「預言者」「教師」に関してはみ言葉に関する業を行う者、そういう意味で、最も重要な存在と言えるかも知れません。その後、様々なことを行う者が列挙されますが、注意すべきは29節以下でもう一度その役割が繰り返されるのですが、なぜか「援助する者」「管理する者」に関しては、抜け落ちてしまっているという点です。
 わたしは、誕生して間もない頃の教会は、若い人々が多くの働きを担っていたと思っています。しかしこの「援助する者」「管理する者」は、おそらく人生の先輩であり、経験豊かで、目立たないけれども、教会を「下」から支えていた、高齢者が多かったのではないか、と思うのです。
 そして忘れてはいけないのは、これらは神さまからの賜物として与えられている、ということです。神さまが教会を建てられるとき、必要な存在として大切な存在として、これらの人生の経験豊かな人々を用いられたのです。つまり教会になくてはならない存在があったということです。
 現代は、合理的な考え方、コストパフォーマンス等が強調され、私たちもそれに慣らされてしまっています。しかしこの世に誕生して来た赤ちゃんがそうであるように、この世から天へ帰って行こうとしている高齢者は、実は大変貴重な存在です。なぜなら、天に、つまり神さまの近くにいる存在だからです。
 老いることは決してマイナスの事柄ではなく、神から来て、神へ帰ろうとしている、その意味で、人生においてプラスもマイナスも、神さまから多くの恵みをいただいて生きてきた証しです。教会において私たちはそのことを覚え、共にキリスト体の枝として、信仰の歩みをすすめて行きたいと思います。

2018年9月16日 聖霊降臨節第18主日 笹井健匡牧師

 9月6日(木)の未明に北海道で大きな地震がありました。直前に台風21号による大阪を中心とする関西地方お被害の大きさがわかっていただけに、大変驚かされました。その前は西日本豪雨があり、改めて、日本は災害列島であると思わされました。災害のないと言われていた岡山ですら、倉敷市真備町を始めとする他の地域で豪雨災害を被り、その傷は癒えていません。今が、日本の在り方を正す時ではないかと思わされます。2年後の東京オリンピックを断念し、オリンピックのためにかかる莫大な費用を被災地域に使うべきであると思わされます。そして、国民は被災された諸地域、人々に心を寄せ、できる業をなしていき、心だけでも同労の友となるようになして行くべきであると思わされます。
 今日の聖書には、エボディアとシンティケという二人の女性の名前が出てきます。この二人が異なる思いをもっており、それが教会に悪影響を及ぼしていたのだと思います。この2人の女性は、パウロにとって、他の友たちと共に一緒に信仰の戦いを戦ってくれた「同労者」(口語訳)なのであるというのです。教会は、単なる信仰者の集まりで、牧師の説教を聞き、聖礼典に与り、真とは各自の信仰を養うという場ではありません。集う者たちが支え合い、助け合うところ、また救われる仲間を増やすために共に伝道をしていくところです。私たちが信仰者として生きるには、「同労者」が必要です。それは、同じ信仰者である友である神の家族の人たちのことです。
 また、パウロは、「感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めていることを神に打ち明けなさい。」(6節)と言っています。どんなことでも神さまに打ち明ける真実の祈りをなすようにとも勧めています。一人で神の前に立つ姿勢を持つことが大切なように思われます。神さまと私、私と神の家族、その関係をしっかり保持することが大切なのではないでしょうか。
 真の祈りは必ず聞かれます。しかし、それがいつなのかは私たち人間には、わかりません。それでも、今の時を忍耐し、神の業のなされる時を待ち望みたいと思います。
 教会に集う一人一人が、互いに同労者として協力し合い、喜びをも苦しみをも分かち合い、共に祈り、共に教会の枝としてそれぞれの賜物を生かし合っていく者でありたいと思います。そして、被災され苦しんでいる人たちの協力者、同労者となれるように皆で祈り、話し合い、模索していく者でありたいと思います。

2018年9月9日 聖霊降臨節第17主日 平島禎子牧師