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 児島教会は明日創立記念日(73周年)を迎えます。毎年記念日の前の日曜日に創立記念礼拝をささげていますが、今年はちょうど棕櫚の主日となりました。
 エルサレム入城は、イエスさまの公生涯における、ひとつのクライマックスです。人々はイエスさまのことを「ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言ったことが11節に記されています。もちろんこの「預言者」という言葉にはそれ以上の意味が込められていたことでしょう。
 イエスさまは子ろばに乗って入城されました。それは5節にあるように、ゼカリヤ書9章9節の預言の成就でした。弟子たちはどう思っていたでしょうか。え、ろば?と思ったかも知れません。すべての中心であるエルサレムに入城するわけですから、本来なら立派な馬に乗って入城するところです。しかし2節3節のイエスさまの言葉を読むと、子ろばでなければいけないことは、あらかじめ決められていたようです。
 先週の平島禎子牧師の説教にもありましたが、弟子たちはイエスさまがエルサレムにおいて王座に就くことを期待していました。そしてその際には自分たちもしかるべき地位に就けると思っていました。そんな中、イエスさまはそれまで言葉で教えられたことを、この入城の時、子ろばに乗るという行為で、身をもって、行動をもって示されたのです。
 棕櫚の主日は、受難週の始まりでもあります。この後イエスさまはいわゆる「宮きよめ」を経て、十字架への道を一日一日歩んで行かれます。
 弟子たちも、人々も、思いもしなかったメシアとして、受難のメシアとして、最後まで地上での歩みを全うされるのです。そこから新しい救いの道が開かれるために…。
 私たちもこの棕櫚の主日から始まる受難週のときを、その先にイースターを待ち望みつつ、イエスさまの姿をしっかりと心に焼き付けて、歩みをすすめて行きたいと思います。

          2021年3月28日 教会創立73周年記念礼拝 笹井健匡牧師

 受難節の主日も今日を含めて2回となりました。来週は「棕櫚の主日」で、イエスさまがエルサレムに入城された日です。今日の聖書はエルサレム入城の前に起きた出来事が記されています。
 イエスさまの前にゼベダイの妻である、ヤコブとヨハネの母が、イエスさまが王座に着くとき、二人の息子をイエスさまの右と左に座らせてほしい、つまり、2人がイエスさまの次に偉い者になれるようにと嘆願したのです。しかし、イエスさまは、「あなたがたは何を願っているのか、わかっていない。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるのか。」と言われました。イエスさまの言われた杯とは「死に至る苦しみ」を表しています。そのことを理解しないまま、二人は「できます。」と返事をしたのです。弟子たちは、イエスさまがエルサレムに入城されたら、苦しみの中にあるイスラエル民族を解放し、王座につかれるのだ、と思っていました。しかし、イエスさまは、ヤコブとヨハネの願いを退けられました。また、他の弟子たちは、二人のことで腹を立てました。彼らもまた、二人と同じようなことを望んでいたからではないかと思います。
 イエスさまは、無理解な弟子たちに対して本当に偉い者とはどういう者であるのかを教えられます。「偉くなりたい者は皆に仕える者となり、一番上になりたい者は皆の僕になりなさい。」と言われたのです。そして、イエスさまご自身が仕えられるためにではなく、仕えるために来られたと言われ、そして、身代金として自分の命を献げるために来たと言われたのです。「身代金」とは奴隷である人を解放するために、奴隷所有者に支払うお金のことです。イエスさまは、その尊い命を「身代金」として献げられました。しかも死というのは苦しみを苦しみぬいた十字架上での死でありました。私たち一人ひとりが生きていけるのも、
イエスさまが「身代金」としての「死」によって、私たちを救ってくださったからです。
 私たちは、イエスさまの犠牲によって生かされている者です。ですから、イエスさまの教えを大切にしていかなければなりません。教会での関係というものは、水平でなくてはならないと思います。誰かが偉かったり、誰かが仕える人だったりと区別があってはなりません。「互いに仕え合う」ということが大切であろうと思います。このレントの時、苦しみの道を歩み続けられるイエスさまのことを思い、イエスさまがいわれる「偉い者」となれるように、仕えていく人生を歩んで行く者でありたいと思います。
   
                    2021年3月21日 受難節第5主日 平島禎子牧師

 早いもので、レントも後半に入りました。信仰者として受難節を歩んでいますが、世の中もコロナ禍が続き、困難な日々が続いています。大変な社会状況が続き、なかなか出口が見いだせなくなると、人々は強いリーダーシップを求めます。民主政治が衆愚政治になり、独裁に陥るのは歴史の教訓です。個々の自立が大切だと思います。
 イエスさまの時代もまさにそのような時代でした。ローマの支配が続く中で、イスラエルの人々は、強いリーダーを求めて行きます。多くの反乱が企てられましたが、すべて失敗に終わりました。そんな中、強く、頼ることのできる、王なるメシアは最後の望みだったのかも知れません。
 今日の聖書は「山上の変容」のところです。モーセとエリヤとイエスさまは何を話し合っていたのでしょうか。今日までの歴史、神のみ業、将来の希望等々いろいろなことが語られたかも知れません。しかし中心は、おそらくイエスさまがこの後歩まれる、受難の道だったのではないかと思います。
 あろうことか、口をはさんで、しかもとんちんかんなことをペトロは言いました。すると光り輝く雲に覆われ、「これに聞け」という神の声を聞いたのです。
せっかくの信仰告白も、その後メシアの受難について理解できなかったペトロはイエスさまから「サタン、引き下がれ」という強いお叱りを受けます。今日の聖書の山上の変容をされたイエスさまを目の当たりにしても、ペトロは王なるメシアをイエスさまに見ていたのです。
 人は自分の思い、望みを相手に投影してしまいます。イエスさまの受難予告の言葉を、自分の思い込みを捨てて、そのまま受け取ることがペトロたちにはできませんでした。だからこそ、神さまはこのような山上の変容の奇跡を通して、イエスさまにこそ聞くべきことを教えられたのだと思います。
 2千年後を生きる私たちはまことのメシア、キリストは、独裁者とは対極にある方であり、自らの命を投げうってでも、私たちを愛してくださる方であることを知っています。そしてそのイエスさまによって、神が愛であることをも知っています。
 十字架へと歩まれるイエスさま、受難のメシアこそ、まことの救い主であることを心に刻んで、後半のレントの時、克己の歩みを続けて行く者でありたいと思います。

               2021年3月14日 受難節第4主日礼拝 笹井健匡牧師

 幼い頃、若い頃は、周囲の人たちから、「好きなものは?」「欲しいものは?」「大きくなったら何になりたい?」等、いろいろと問われることが多かったように思います。しかし大人になるにつれ、あまり他の人から問われることがなくなって来たように思います。人から問われて、あらためて自分自身のことがよく分かったり、自分の核、軸がしっかりと定まっていくこともあると思います。
 聖書は、そんな問いを投げかけてくれる、そういう面を持っています。特に福音書は、イエスさまから直接問われているような感じを受けることも多いと思います。今日の聖書はその中でも特に心に迫って来る個所だと思います。
 「わたしを何者だと言うのか」というイエスさまの問いには、伏線があります。それは8章1節以下の「4千人の給食」の後、17節以下で、「まだ、分からないのか。悟らないのか。」と言われ、弟子たちに給食の奇跡を思い起こさせられ、21節で「まだ悟らないのか」と言われたところです。
 悪霊を追い出し、病やしょうがいをいやされただけでもすごいのですが、風や波さえも従わせ、湖の上を歩かれ、5千人、4千人の給食をされた、これでもまだイエスのことが分からない、それが弟子たちの状況でした。
 おそらくイエスさまは、この後の受難の道を強く意識されるようになっていたのではないかと思います。しかし弟子たちの理解は、まだほど遠いものだったのだと思います。人々の評判を問われた後、おそらく弟子たちを見つめて「それでは、あなたがたは…」と問われたのです。原文では「あなたがた」が一番最初に置かれる、強調構文になっています。ずっと一緒に歩んで来て、一番イエスさまのことを分かっているはずのあなたたちはわたしを何者だと思っているのか、と問われました。ペトロの答えは、すばらしい信仰告白だと言われているものです。しかし、続く聖書の個所を見ると、疑問がわきます。実際のイエスさまの思いは、やっとそこまで来たか、という感じではなかったかと思います。だから沈黙を命じられたのです。そしてその後メシアはメシアでも、多くの人たちが思っているようなメシアではなく、受難のメシアであることを語られたのです。
 その後を知っている私たちは、受難を含めて、イエスさまこそメシアです、と信仰告白をすることができます。そしてレントの歩みを歩み終えたその先にはイースターの喜びの日が待っています。希望を持って、一歩一歩、歩みをすすめて行きましょう。 

             2021年3月7日 受難節第3主日礼拝 笹井健匡牧師