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「偉い者」 マタイによる福音書20章20~28節

 受難節の主日も今日を含めて2回となりました。来週は「棕櫚の主日」で、イエスさまがエルサレムに入城された日です。今日の聖書はエルサレム入城の前に起きた出来事が記されています。
 イエスさまの前にゼベダイの妻である、ヤコブとヨハネの母が、イエスさまが王座に着くとき、二人の息子をイエスさまの右と左に座らせてほしい、つまり、2人がイエスさまの次に偉い者になれるようにと嘆願したのです。しかし、イエスさまは、「あなたがたは何を願っているのか、わかっていない。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるのか。」と言われました。イエスさまの言われた杯とは「死に至る苦しみ」を表しています。そのことを理解しないまま、二人は「できます。」と返事をしたのです。弟子たちは、イエスさまがエルサレムに入城されたら、苦しみの中にあるイスラエル民族を解放し、王座につかれるのだ、と思っていました。しかし、イエスさまは、ヤコブとヨハネの願いを退けられました。また、他の弟子たちは、二人のことで腹を立てました。彼らもまた、二人と同じようなことを望んでいたからではないかと思います。
 イエスさまは、無理解な弟子たちに対して本当に偉い者とはどういう者であるのかを教えられます。「偉くなりたい者は皆に仕える者となり、一番上になりたい者は皆の僕になりなさい。」と言われたのです。そして、イエスさまご自身が仕えられるためにではなく、仕えるために来られたと言われ、そして、身代金として自分の命を献げるために来たと言われたのです。「身代金」とは奴隷である人を解放するために、奴隷所有者に支払うお金のことです。イエスさまは、その尊い命を「身代金」として献げられました。しかも死というのは苦しみを苦しみぬいた十字架上での死でありました。私たち一人ひとりが生きていけるのも、
イエスさまが「身代金」としての「死」によって、私たちを救ってくださったからです。
 私たちは、イエスさまの犠牲によって生かされている者です。ですから、イエスさまの教えを大切にしていかなければなりません。教会での関係というものは、水平でなくてはならないと思います。誰かが偉かったり、誰かが仕える人だったりと区別があってはなりません。「互いに仕え合う」ということが大切であろうと思います。このレントの時、苦しみの道を歩み続けられるイエスさまのことを思い、イエスさまがいわれる「偉い者」となれるように、仕えていく人生を歩んで行く者でありたいと思います。
   
                    2021年3月21日 受難節第5主日 平島禎子牧師

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