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 私は大学入学すぐのイースターに洗礼を受けたのですが、サークル活動等の忙しさを理由に教会の奉仕をあまりというか、ほとんどしていませんでした。しかし4回生になると時間も出来たので、CSの奉仕をすることになりました。そのころさかんに言われていたのが「共に生きる」ということであり、そして讃美歌21-421「ウリエイウッソン となりびとはだれでしょう」がよく歌われていました。そして「自分を愛するように隣り人を愛する」(当時の聖書は口語訳)という聖句がいろんなときに用いられました。
 今年の児島教会の年間聖句に平島先生がこの「隣人を自分のように愛しなさい」を提案されたとき、少し「ドキッと」しました。自分はそれまで当たり前のように隣人愛を説き、少しはやってきた「つもり」でいたのが、ほんとにそうだっただろうか、やっぱり自分のことばっかり考えて生きてきたのではなかったのではないだろうか、と思わされました。
 今日の聖書は、エルサレムにおけるユダヤ当局との論争の最後のところです。(34節) ひとりの聡明な律法学者が、イエスの律法理解、つまり信仰の核心を問うたのです。それにたいして第1の掟として、神を全力で愛すべきことを答えられます。(申命記6:4~5)第1の掟は何か、と問われたわけですから、これで終わっていても不思議ではありません。しかし、これだけだと不十分であることをイエスは言われたかったのだと私は思います。
 レビ19:18より第2の掟を追加されるのです。第1の掟だけなら、他の律法の専門家と変わらなかったかも知れません。しかしイエスはあえて、第2の掟を追加され、このふたつこそが何よりも大事なのであることと、隣人を愛することが「献げ物」や「いけにえ」より優れている、と答えました。ルカ福音書では、さらに自分から「隣人」となって行くことこそ、「隣人愛」であることがあの「あるサマリア人のたとえ」で記されています。パウロは愛なくば「無」である、とまで言いました。
 二千年後を生きる私たちですが、あらためてこのイエスが強調された「隣人愛」について心を突き刺される思いがいたします。復活の主が、最も低きに降られた主が、私たちに向かって「隣人」を愛するように「隣人」となって行くように招いておられる、その招きに応えて歩んで行く者でありたいと思います。

2018年4月22日 復活節第4主日礼拝 笹井健匡牧師

 荒野というのは過酷な場所であり、また人々の日常から離れたところでした。ヨハネ以外にも荒野で宗教生活をするグループがあったようですが、一般民衆とは関わろうとすることはなかったようです。ヨハネが一人で荒野に現れて叫んだことは画期的なことだったと思います。ヨハネは自分の元に来る人たちに悔い改めのバプテスマを授けるということをしました。ヨハネの声を聴いた人たちは、ヨハネの元に行き、それらの人たちが、ヨハネのことを周囲にひろめて、ついにはユダヤの全地方とエルサレムまで伝わり、それぞれのところから、続々とヨハネのもとに来て悔い改めのバプテスマを受けるということになったのです。(5節) 「悔い改め」とは「自分の思いを変えること」です。それまでの堕落した生活を悔い改め、神さまに従うことです。ヨハネは来る者を拒むことなく、罪の告白を聞き、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」を授けました。そして、外側から負わされた罪、内側にある罪に苦しむ人たちに救いの道を与えたのです。
 しかし、ヨハネは自分の立場をわきまえており、「自分より力のある方が後から来られる。自分はその方の履物のひもを解く値打ちもない。」、と言うのです。そして、「私は水でバプテスマを授けるが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる。」と言うのです。しかし、ヨハネの存在があったからこそ、後から来られる方であるイエスさまは、宣教の業を臆することなくなすことができたのではないかと思います。
 日本では荒野というと想像しにくいのではないかと思います。しかし、心の荒野というのは、誰しもが持っているものであるかもしれません。心のすさんだ部分、孤独を感じる心などもどこかにあるかもしれません。そのような心の中で叫んでいる者がいるのではないでしょうか。私たちの在り方、生き方も変わっていくのではないかと思います。また、社会にも荒野はあります。今の政治そのものがまさに荒野のように思えます。この社会の中で、荒野で叫ぶ者が存在しないと思わされます。しかし、私たち一人一人、心の中で叫ぶ、今度は別の意味で心に荒野という厳しい場所を持ち、その地から叫ぶことはできるのではないかと思います。一人一人の叫びは小さくても集まると大きくなります。小さい声でも叫び続けることも大切であろうと思います。
 「荒野で叫ぶ者」の声を聴き、悔い改め、自らの在り方を変えられて、自分の存在を神に向け、自分の中の「荒野で叫ぶ者」となれるように祈りたいと思います。

2018年4月15日 復活節第3主日 平島禎子牧師

 5日(木)、M.Eちゃんからお葉書が届きました。少し気になったので、お母さんのM.Yさんに電話をしました。するとこちらにおられる、Eちゃんからするとお父さんのお母さん、つまりおばあちゃんがもうご高齢で、厳しい状況にあるので、最後に会いに帰って来る、ということでした。日曜日の午後になるため、
教会には来れないとのこと、皆さんによろしくお伝えくださいとのことでした。-中略ー
 「教会」は、わたしたちにとって、どういうところでしょうか。もちろん、「行きたいところ」です、と答える方も多いと思います。しかし、よく言われることですが、日本人はなんでもやり過ぎるため、「クリスマス」が「苦しみます」になったり、教会が「行きたくないところ」になってしまったりします。特に、現在は高齢化がすすみ、いつまでも多くの、大変な奉仕をしなければいけない、となってしまっている教会も多くあります。   -中略ー
 今日の聖書は、イエスさまが「アーメン」を最初に言われる、重要な事柄を断言、明言されるときの言葉です。18節の「若いとき」は、はっきりしませんが、ペトロがイエスさまをほかのどの弟子よりも、だれよりも愛していたことからすると、イエスさまのところへ来てから、ペンテコステの後、聖霊に満たされた宣教活動をしていた、前半生だと考えられます。
 反対に、19節の説明から、晩年には「行きたくないところ」へ連れて行かれる、とイエスさまのところへ来てから、ペンテコステの後、聖霊に満たされた宣教活動をしていた、前半生だと考えられます。
 反対に、19節の説明から、晩年には「行きたくないところ」へ連れて行かれる、とイエスさまは言われました。直接的には、殉教を言い表されているのですが、ここには、私たち人間の多くの者が辿る、人生の下り坂が反映されているようにも思います。
 若いころ、好き放題やっていたそのつけ、言わばある種の「借金」のようなものを、高齢になればなるほど身に染みて感じさせられるのは私だけでしょうか。人は、自分の人生を振り返り、若いころ、自由奔放に生きていたときには感じなかったものを感じ、あるいは違う角度から見ることができるようになり、後悔や、懺悔や、そして悔い改めの気持ちを強くして、その晩年を生きるのかも知れません。「行きたくないところ」にこそ、人生の本当の意味があり、それを求めてすすみ続けるのが「大人」なのかも知れません。
 復活の主が、今、どこにおられるか、そしてどこから、自分を招いておられるか、そのことを思いめぐらしながら、この復活節の喜びのときを歩んで行きたいと思います。

2018年4月8日 復活節第2主日礼拝 笹井健匡牧師

 イースターおめでとうございます!いつの日か、メリークリスマス!と同じようにハッピーイースター!と言える日が来ることを祈りつつ、今日の礼拝をささげて行きたいと思います。
 今日から2018年度が始まりました。大変な事の多い、変化の多い昨年度でしたが、今年度は少し落ち着いた、しかし神さまの恵みの中に生きる私たち、主イエスの復活を喜び伝える信仰者の群れでありたいと思います。
 今日の聖書は、ヨハネ福音書の最初のまとめにあたるところです。コンサートや劇に例えるならここで一回幕がおります。そしてアンコール(21:1~23)の後、最後のまとめが21:24~25になります。
 4つの福音書は、さまざまなイエスの復活を記しています。
・マルコ:マグダラのマリアたち、天使のお告げ(ガリラヤ顕現)。
・マタイ:マグダラのマリアたち、天使のお告げ(ガリラヤ顕現)。   
     弟子たちが死体を盗んだ、という噂話。→聖なる者たちの復活。(27:52)
・ル カ:マグダラのマリアたち、天使のお告げ。エマオ途上顕現。
     エルサレム顕現。
 ヨハネは、マグダラのマリアへの権限を詳しく記した後、エルサレム顕現を記します。そしてその中心は「トマス」です。「疑い」から「信仰」へと変えられるトマスを描きながら、読者がイエスを神の子メシアと信じるように訴えているようにも感じます。最近の研究の中には、ヨハネは、マルコ、マタイ、ルカの各福音書を知っていた、というものも出てきました。-中略ー
 30節にあるように、このほかにも、膨大な資料(口伝含む)があったように思われます。(21:25) イエスさまの業は、圧倒的に多く、すごく、当時の人々の心に、魂に、深く刻まれていたことが伺えます。
 私たちは、そんな多くの証人に囲まれているのです。ですから、恐いものは、何もありません。今日から、ここから、また新しい心、新しい思いで、復活の主を宣べ伝えて行きましょう。まことの喜びと賛美と共に。

2018年4月1日 イースター礼拝 笹井健匡牧師