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「荒野で叫ぶ者」 マルコによる福音書1章1~8節

 荒野というのは過酷な場所であり、また人々の日常から離れたところでした。ヨハネ以外にも荒野で宗教生活をするグループがあったようですが、一般民衆とは関わろうとすることはなかったようです。ヨハネが一人で荒野に現れて叫んだことは画期的なことだったと思います。ヨハネは自分の元に来る人たちに悔い改めのバプテスマを授けるということをしました。ヨハネの声を聴いた人たちは、ヨハネの元に行き、それらの人たちが、ヨハネのことを周囲にひろめて、ついにはユダヤの全地方とエルサレムまで伝わり、それぞれのところから、続々とヨハネのもとに来て悔い改めのバプテスマを受けるということになったのです。(5節) 「悔い改め」とは「自分の思いを変えること」です。それまでの堕落した生活を悔い改め、神さまに従うことです。ヨハネは来る者を拒むことなく、罪の告白を聞き、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」を授けました。そして、外側から負わされた罪、内側にある罪に苦しむ人たちに救いの道を与えたのです。
 しかし、ヨハネは自分の立場をわきまえており、「自分より力のある方が後から来られる。自分はその方の履物のひもを解く値打ちもない。」、と言うのです。そして、「私は水でバプテスマを授けるが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる。」と言うのです。しかし、ヨハネの存在があったからこそ、後から来られる方であるイエスさまは、宣教の業を臆することなくなすことができたのではないかと思います。
 日本では荒野というと想像しにくいのではないかと思います。しかし、心の荒野というのは、誰しもが持っているものであるかもしれません。心のすさんだ部分、孤独を感じる心などもどこかにあるかもしれません。そのような心の中で叫んでいる者がいるのではないでしょうか。私たちの在り方、生き方も変わっていくのではないかと思います。また、社会にも荒野はあります。今の政治そのものがまさに荒野のように思えます。この社会の中で、荒野で叫ぶ者が存在しないと思わされます。しかし、私たち一人一人、心の中で叫ぶ、今度は別の意味で心に荒野という厳しい場所を持ち、その地から叫ぶことはできるのではないかと思います。一人一人の叫びは小さくても集まると大きくなります。小さい声でも叫び続けることも大切であろうと思います。
 「荒野で叫ぶ者」の声を聴き、悔い改め、自らの在り方を変えられて、自分の存在を神に向け、自分の中の「荒野で叫ぶ者」となれるように祈りたいと思います。

2018年4月15日 復活節第3主日 平島禎子牧師

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