アドベントクランツの1本目のローソクに火が灯り、今日よりアドベント、待降節に入りました。昨日はクリスマスの準備をし、玄関と礼拝堂の講壇の後ろの十字架の下につける大きなリース、アドベントクランツ、クリスマスツリーも作られました。クリスマスを待ち望む準備をしていると心がワクワクしてきます。クリスマスの喜びは、苦しみ、苦難を経験した人間に与えられた「救いの約束」の成就だからこそ、心底喜べるのではないでしょうか。
今日の聖書はバビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還したイスラエルの民への慰めと励まし、そして「救いの約束」を語る預言者の言葉です。イスラエルの民が帰還した後、荒れ果てている町を見て呆然としていた時に、これらの励ましの言葉が語られたのです。
「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王になられた、とシオンに向かって呼ばわる。」と7節に記されています。山々を行き巡った者の足は、本来は美しいものではありません。埃まみれになり、汚れ、傷ついた足であったのではないかと思います。しかし、彼の告げる良い知らせの故に、この人の足は美しいのであります。そして、この知らせを受けて、「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。」と9節に記されています。私たちのなせる喜び歌うことは、讃美歌を歌うことではないでしょうか。神さまは私たちを慰め、贖われる方であるということをしっかりと知り、そのことを心から喜び歌うということが大事であると思わされます。
10節には、「地の果てまで、すべての人が わたしたちの神の救いを仰ぐ。」と記されています。「すべての人が神の救いを仰ぐ」ということは、全世界の人々に「救いの約束」がなされていると言ってもいいのではないかと思います。しかし、このことはイエスさまの誕生なしにはなされなかったことであろうと思います。約2000年前にイエスさまが誕生されたことによって、「救いの約束」は成就したのです。イエスさまの存在によって、私たちは神さまの救いを目の当たりにしたのです。どんなに苦しい時も、どんなに嬉しい時も共にいてくださる方、またどんなに私たちの心が醜くても、それを赦し、新しい心に造り変えてくださる方、それがイエスさまです。イエスさまを通して、神さまは私たちを慰め、贖い、救おうとしていてくださるのです。
私たちにも「救いの約束」は与えられています。その「約束」を受け、一人一人が、真の神の救いに与る者でありたいと思います。そして、7節に記されているように、私たちも「山々を行き巡り、良い知らせを伝える者、平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げる者」となりたいと思います。「救いの約束」を与えられた者として、それぞれが、「救いを伝える美しい足」をもって歩んでいく者でありたい、そのような思いをもって主イエスの誕生の時、クリスマスの時を待ち望む者でありたいと思います。
2021年11月28日 アドベントⅠ礼拝(待降節第1、降誕前第4主日) 平島禎子牧師
今週の木曜日、25日が今年の収穫感謝祭(サンクスギビングデイ)です。清教徒がアメリカへ渡った1620年、大変厳しい冬の状況をアメリカ先住民に助けられたことを感謝して、翌1621年の晩秋、先住民を招いて多くの収穫を共に祝った美しいエピソードがもとになっています。(中略)
収穫感謝を祝う習慣は、全世界にあり、もちろんユダヤ社会にもありました。今日とりあげました詩編67篇のほかにも、詩編85篇にもその影響があります。85篇では捕囚からの解放、平和と正義の回復が歌われた中で、おそらく取り戻された日常の象徴として、収穫感謝が祝われています。
67篇は神からの祝福を求める祈りから始まります。これは民数記6章24~26節のアロンの祝福の祈りから来ています。多くの教会の礼拝の最後の方に、「祝祷」があります。これは祝福の祈りです。通常コリントⅡ13:13を用いますが、冠婚葬祭等特別な時には、このアロンの祝福の祈りを用います。
今日の詩編では、まず神の祝福、恵みを求めるのです。しかしそれは不足しているからではありません。すでに祝福と恵みが先行しているのです。そして続く4~6節では、感謝することが繰り返し述べられています。「お祈り」の最後の言葉は意外と興味深いものです。イエスさまを通して祈ることは共通していますが、その前の部分、私はいつからか「この感謝と願いを」と祈るようになりました。たぶん感謝が足りないからだと思います。少し唐突な感じで、7節の「大地は作物を実らせました。」と続きます。そしてまた祝福を求めて、この詩編は終わります。
収穫感謝が神さまへのあらゆることに対する感謝の中に位置づけられているのです。まずはじめに神さまが祝福と恵みを与えて下さるのです。それに対しての心からの感謝をささげます。その中の大切な感謝のひとつに収穫感謝もあるのです。
現代では社会構造が複雑化し、第1次産業が見えにくくなり、食物への感謝が感じられにくくなっています。教会ではこれからも食前の祈りが祈られます。5千人の給食でイエスさまはパンと魚を「感謝して」、人々に配られました。私たちも、食事の時、その食物の収穫に感謝していただきたいと思います。その小さな感謝が少しずつ大きな感謝となり、世界に感謝の輪が広がるように祈りたいと思います。
2021年11月21日 収穫感謝日礼拝 笹井健匡牧師
教会の暦も降誕前第6主日となりました。イエスさまのお誕生を記念するクリスマスを待ち望む季節となりました。イエスさまの誕生の出来事とは、神さまが世を愛されたというその証の出来事であり、すべての人間に救いが差し伸べられた出来事なのです。
しかし、イエスさまをお与えになるほど神さまが愛されたこの世、私たちの生きる世界とは闇が支配するところではないか、と思わされることもあります。コロナ禍もまさに闇であると思いますし、人権を蹂躙する支配体制の国に生きる人たちは暗闇の中に置かされていると言えるのではないかと思います。また、私たちの身近なところにも闇は存在します。自分の心の中に闇を持っているかもしれません。
神さまは、このような闇の中にある私たちを救うために、イエスさまをこの世に誕生させてくださいました。イエスさまは「人を裁くためではなく、救うために」(3・17)来られました。闇のただ中にある人たちに光を与えるために、イエスさまは来られたのです。これまでに何らかの罪を犯した人であっても、自分の罪を悔いて、イエスさまを信じることによって救われるのです。
しかし20、21節にありますように、イエスさまが光としてこの世に来られたにもかかわらず、人々は自らの行いの悪さ、心の闇が明らかにされるのを恐れて、イエスさまを信じようとしなかったのです。自分の中にある得体の知れない闇、それが光の下にさらされるのを人間は恐れるものです。しかし、イエス・キリストはご自分に背を向けているような人に対しても、背後から光を与えてくださいます。自分の罪を悔い改めようと、イエスさまの方へと向き直る時、イエスさまによってもたらされた光が私たちの心に差し込み、救いの出来事が起きるのです。
私たちは、闇に覆われているこの世にあっても、イエスさまを信じることによって、光の中を歩いていくことができます。21節に「真理を行なう者は光の方に来る。」と記されているのは、光の中を歩んでいくということなのです。しかし、自分だけが救われればいい、救われていない人は闇の中の人間だ、などと思うことは間違いです。「真理を行なう」ということはクリスチャンのみがなしていく業ではありません。この世の不義を正し、この世に平和と正義が実現するように努力している人たち、弱い立場にある人たちのために心を砕き、体を張って奉仕している人たち、親切な心をもって人に接している人たちはみな、宗教を越えて「真理を行なう者」であると言えるのではないかと思います。
私たちの生きる世の中には闇の力が支配しているとしか思えないこともたくさんあります。しかし、私たちが、心の底からイエスさまの名を呼び、助けを求める時、光が差し込み、光の中へ歩む者へと変えられていくのです。私たちの教会が、私たち一人一人が、イエスさまの示される光の道を歩んで行くことを求め、実現していく者でありたいと思います。
2021年11月14日 降誕前第6主日礼拝 平島禎子牧師
今年もコロナ禍を受けての聖徒の日・召天者記念礼拝となりました。しかし、前に並んだ42枚の写真の信仰の先達の方々は、変わらずこの児島教会を見守って下さっているように思います。来年こそは、昨年今年と出席できなかったご遺族の方々ともご一緒に、礼拝をささげることができればと心から願います。
今日の聖書は、今年度の年間聖句のところです。教会では、昨年の脊板田鶴子さんの後、召天者なく一年を過ごしました。特に変化なしで迎えると思っていた矢先に、私の父、そして野本真也牧師(元神学部教授)が召天されました。父については何度かお話させていただきました。野本教授は、深い関係はなかったのですが、よくよく考えてみると、時に、大変お世話になっていました。
私たちは、それぞれに与えられた人生の時を生きています。そしてそれは人によって大きく異なったり、また不思議とシンクロしたりします。私は人生は自由だ!と思っています。運命論とか宿命とかあまり好きではありません。しかしそれでも、基本的には自由な人生であっても、あらかじめ、定められている時があることを、思い知らされることもあります。
2節以下では、当時の社会での、一般庶民の人々が経験する様々な”時”が記されています。現代では、これに、さらにいくつかの節目が加えられるかも知れません。私たちの人生は、神さまがあらかじめ与えて下さった青写真をもとに、時に反抗し、時に従い、時に創意工夫しながら自分なりの、オリジナルな”絵”を描いて行くようなものかも知れません。
若い時には、自分の力で、自分の努力で、いろんなものを達成してきた!と思いながら生きていたりもしますが、年を重ねるにつれ、それでもやっぱり神さまの大きな御手の中で、泳いでいたんだなあと思うことしばしばです。
コロナ禍も、そういう意味では、神さまの定められた時のひとつであるのかも知れません。今、何を神さまは求めておられるのか、私たちに何を知らせようとされているのか、自問自答しながら、一歩一歩前に進みたいと思います。
時に、迷いながら、時に、苦しみながらも、全能の神さまを信じて、与えられた自らの人生を、笑顔を忘れず楽しみながら、信仰をもって歩んで行く者でありたいと思います。
2021年11月7日 聖徒の日・召天者記念礼拝 笹井健匡牧師