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「定められた時」 コヘレトの言葉3章1節

 今年もコロナ禍を受けての聖徒の日・召天者記念礼拝となりました。しかし、前に並んだ42枚の写真の信仰の先達の方々は、変わらずこの児島教会を見守って下さっているように思います。来年こそは、昨年今年と出席できなかったご遺族の方々ともご一緒に、礼拝をささげることができればと心から願います。

 今日の聖書は、今年度の年間聖句のところです。教会では、昨年の脊板田鶴子さんの後、召天者なく一年を過ごしました。特に変化なしで迎えると思っていた矢先に、私の父、そして野本真也牧師(元神学部教授)が召天されました。父については何度かお話させていただきました。野本教授は、深い関係はなかったのですが、よくよく考えてみると、時に、大変お世話になっていました。

 私たちは、それぞれに与えられた人生の時を生きています。そしてそれは人によって大きく異なったり、また不思議とシンクロしたりします。私は人生は自由だ!と思っています。運命論とか宿命とかあまり好きではありません。しかしそれでも、基本的には自由な人生であっても、あらかじめ、定められている時があることを、思い知らされることもあります。

 2節以下では、当時の社会での、一般庶民の人々が経験する様々な”時”が記されています。現代では、これに、さらにいくつかの節目が加えられるかも知れません。私たちの人生は、神さまがあらかじめ与えて下さった青写真をもとに、時に反抗し、時に従い、時に創意工夫しながら自分なりの、オリジナルな”絵”を描いて行くようなものかも知れません。

 若い時には、自分の力で、自分の努力で、いろんなものを達成してきた!と思いながら生きていたりもしますが、年を重ねるにつれ、それでもやっぱり神さまの大きな御手の中で、泳いでいたんだなあと思うことしばしばです。

 コロナ禍も、そういう意味では、神さまの定められた時のひとつであるのかも知れません。今、何を神さまは求めておられるのか、私たちに何を知らせようとされているのか、自問自答しながら、一歩一歩前に進みたいと思います。

 時に、迷いながら、時に、苦しみながらも、全能の神さまを信じて、与えられた自らの人生を、笑顔を忘れず楽しみながら、信仰をもって歩んで行く者でありたいと思います。

 

2021年11月7日 聖徒の日・召天者記念礼拝 笹井健匡牧師


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