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 8月15日に榎本和子姉が召天されました。97歳でした。ちいろば先生として有名になった故榎本保郎牧師のお連れ合いです。10年前、世光教会創立記念礼拝に伺った時、礼拝後の愛餐会に、故後宮俊夫牧師、後宮松代姉と一緒に3人で来て下さり、当時牧師をされていた榎本栄次牧師とともに、一緒にテーブルを囲んだこと、昨日のことのように覚えています。恵まれたひと時でした。

 召命を受け、会社を辞めて、受験勉強中に参加した年頭アシュラム(祈りの集い)で、同じグループとなり、祈りの友となったこと等いろいろ思い出されます。

 約10年間育てていただいた母教会で学んだことの一つは、御言葉への聴従です。ヤコブの手紙の背景には、「行いの伴わない信仰」(2:18,20)が

ありました。御言葉を聞くけれども、そこで、終わってしまう人、が多く存在していたのかも知れません。25節にあるように、御言葉を聞いて忘れてしまわないで、行うにはどうすればいいのでしょうか。

 聞き方に問題があるのかも知れません。英語のヒアーのように、どこからか聞こえてくる、何か話しているなあ、のような受け身の在り方ではなかなか身に着かないかも知れません。そうではなく、リッスン、自分の方から主体的に聞くことが大切かもしれません。心を向け、関心をもって、かぶりつくように聞く時、御言葉は血となり肉となるのかも知れません。

 しかし人間は、弱く、また忘れやすい一面があります。「体で覚える」という言葉があるように、「行ってみる」のも大切かも知れません。言葉を頭の中だけでぐるぐる巡らせていても、時が経てばいつの間にか忘れてしまうかも知れません。しかし、不十分な理解であっても、消化不良であっても、とにかくやってみる、忘れないうちに実践してみる、そうして反復するうちに、自分のものになっていく面もあるのではないでしょうか。27節に記されている代表的な愛の業も、どうやって、とか、いろいろ頭でぐるぐる考えるより、できることをやってみて、必要なら修正して、工夫して繰り返しやっていくうちに、素晴らしい愛の実践になっていくのだと思います。はじめからうまくやれる人なんていないのですから。

 2000年前、誕生したばかりの教会に集っていたクリスチャンたちが、礼拝でいつも心を傾けて聴いていたように、まずは聖書に、御言葉に聴くことから、あらためて信仰の歩みを進めて行く者でありたいと思います。

 

   2023年8月20日 聖霊降臨節第13主日礼拝 笹井健匡牧師


 今日の聖書の箇所から、「悪霊」に取りつかれていた人はなぜ自分を傷つけ、大声で叫びまわらなければならないような状態になったのか考えてみたいと思います。この人の住むゲラサ地方はデカポリス地方に属していました。デカポリスはローマの直轄地でした。ある研究者は、この「悪霊」に取りつかれていた人の住んでいた墓場は、ローマへの抵抗運動で殺された戦死者の墓場であったと推測しているそうです。多くの仲間の血が流され、その結果、その地方に住む人々は、絶望とあきらめの中で生きていくしかないという状況に置かされていったのかもしれません。そういう中で、あきらめきれないけれども、なす術のない一人の人が、言葉にならない声を持って叫び、自らの無力を呪い、自らの体を打ち叩くほかはない状況になった時、大勢の「悪霊」がその人の中に押し寄せてきたのではないかと思います。「悪霊」というのは、人間の弱さ、心の隙間につけこみ、次第に大きく巣くっていくものであろうと思います。

 イエスさまは、どこかでこのゲラサ地方の噂を聞かれていたのかもしれません。イエスさまは、大きな痛みを負わされた地域、人々が絶望と無気力に支配されている場所であることを知られ、ご自分の宣教の地であったガリラヤから舟を漕ぎだされ、向こう岸へ渡られたのであろうと思います。そこには、大勢の霊、レギオン(歩兵と騎兵から成る4000人~6000人のローマの軍団)に取りつかれた人がいたのです。イエスさまは、この人と出会い、この人の中から「悪霊」を追い出し、この人に、この地域に神の救いを告げ知らせる役目を、人々の絶望を希望に変える役目を与えられたのです。

 私たちの生きる社会の中にも大きな痛みがあり、その痛みから絶望が生まれ、無気力に支配されるということもあるかもしれません。しかし、イエスさまは、そのような在り方をよしとはされないのです。8月は6日と9日に原爆忌を迎えました。また、15日に敗戦記念日を迎えます。戦後78年という年月が経っても、戦争の痛みというものは消えません。また、ウクライナの地では、あの戦争を彷彿とさせるようなロシアとの戦が続いています。内戦のある国もあります。世界平和とは程遠い現状です。日本の中にも社会悪がはびこっています。全世界に多くの「悪霊」がいるとしか思えないような状況です。しかし、イエスさまは必ず私たちのところに来てくださり、私たちの中に、また私たちの生きる社会の中に、世界の痛みのあるところにいる「悪霊」を追い出してくださいます。そして、イエスさまがなされた私たちへの救いの業を人々に伝えていく使命を与えられるのです。

 「悪霊」を追い出して下さる方が、必ず来られるということを信じ、「悪霊」の業としか思えないような出来事の多い私たちの社会の中にあっても、真実に生きていくことのできる者となれるよう、祈りたいと思います。

      2023年8月13日 聖霊降臨節第12主日 平島禎子牧師


 今日は平和聖日です。くしくも広島の日になりました。隣の県に来て10年目になりますが、なぜか以前より、遠く感じてしまいます。

 今日はまた、新見教会の会員だった田中郁子姉の召天日です(2年前)。平和について多くの詩を残されました。その遺志を継いで行きたいと思います。

 今日の聖書は、平和を語る時、用いられることの多い聖書の個所です。通常は、イザヤ書2章の方を用いることが多いです。

今回、平和聖日にあたり、あらためて二つの預言書を読み比べてみて、新たな発見がありました。どちらがオリジナルか、とかについて所説ありますが、有力なのは、イザヤとミカが、「同じ古い預言」を取り入れた、というものです。そして実は、その預言よりもさらに古い預言がヨエル書にあります。「鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ。」(4:10)です。ヨシュア記(侵略に次ぐ侵略の歴史)などを見ていると、もともと最も古いのは、ヨエル書にある、戦いに民を招集する際に、農具を武器に変えるよう呼び掛けるものだったことが容易に想像できます。それが、後の時代、預言者たちによって、武器を農具に、とひっくり返されたのだと考えられます。

 神が、その平和を実現される時、イザヤでは「国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。」(2:4)と抽象的な表現になってしまっていますが、ミカでは「はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。」と、より具体的に表現されています。ミカにおいては、神が戒められるのは、イスラエルの脅威であった、アッシリア、そしてエジプト等の列強国です。戦争の責任が「強い国々」にあることを、もともとの預言者、そしてミカは告発しているのです。そして神がその「強い国々」を戒められる、と。

 さらにミカは、平和が実現した後の世界についても語っています。平和を脅かすものがすべてなくなった後(4節)、「どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。」(5節)と言うのです。自分たちは主なる神ヤハウェを信じて平和に歩むし、他の民も、それぞれの信じるところに従って平和に歩む、それこそが、まことの、主が実現してくださる平和、主の平和であるとミカは言っているのだと思います。

 現代においては、宗教を信じない、という人々も多く存在します。そうした人々とも互いの信念を尊重し合い、共に生きて行く世界を、私たちは主イエスを信じて、実現して行く者でありたいと思います。

     2023年8月6日 平和聖日礼拝 笹井健匡牧師