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 コロナ禍によるステイホームが広がったことで、ライフスタイルが大きく変化しました。その中の一つに、食生活があるように思います。それまで外で飲食していたものを自宅で食べるようになりました。

 人類は、その歴史の中で、豊かな食文化、食生活を築き上げて来ました。地域、民族(宗教)等によって、食べてよいもの、食べてはならないものが決まっていたりします。ユダヤ教でもそうです。レビ記11章には、あらゆる動物に関する規定が記されています。そんな中、キリスト教は2千年も前に、「なんでも食べていい」に舵を切りました。その根拠が、今日の聖書のイエスさまの言葉です。汚れないように、手洗い、その他を固く守っていた当時の社会。イエスさまは、すべての食べ物は、腹の中に入り、外に出されるだけだと言われました。徹底したリアリズムを感じます。そしてイエスさまが問題にされたのは、人間の心の方でした。そこからこそ、悪が出て来て、人を汚す、と言われたのです。

 もともとは大切な意味のあった行為でも、時の経過とともに、その内実が失われ、形骸化して、形だけが意味不明のまま、残ってしまっている、こういうことは結構あります。そんな世にあって、イエスさまが目を止められたのは、人の心の在り方でした。

 ファリサイ派の人々と同じように、私たちも、意味もなくしている行為というのが結構あるように思います。時に、それは体に染みついてしまい、ほとんど無意識にしてしまっていたりもします。そんな中にも、もしかしたら、人を汚してしまっているものがあるかもしれません。もう一度、自分自身を吟味したいと思います。

 また、昔の人の言い伝えだけではなく、今の人の言い伝えにも注意したいと思います。言われている事柄の、核心部分は何なのか、大切なポイントは何なのかいつも注意していたいと思います。

イエスさまをしっかりと見つめて、自らの心の在り方を常に点検し、ことの真相をしっかりと見極めながら、信仰の歩みを続けて行く者でありたいと思います。

 

2021年8月29日 聖霊降臨節第15主日礼拝 笹井健匡牧師


 ひとくちに平和と言っても、その状態は種々様々です。戦争がないのはもちろんですが、その共同体、国家を構成する人々が、真に自由に、幸せに生きているかどうかも重要な指標です。一人ひとりの存在が大切にされ、すべての人が人間として尊重されている状態、つまり人間の尊厳が守られている状態が真の平和と言える姿だと思います。

 イエスさまの時代は、今から2千年も前の時代です。時には人間がまるで虫けらのように扱われることもありました。今日で言う、「人権」という概念はありませんでした。しかし、そんな時代にあって、イエスさまの人間に対する見方には驚かされることが多いです。

今日の聖書もその一つです。主人公の女性、弟子たち、そしてイエスさまの在り方には大変大きなコントラストがあります。レビ記15章19節以下には、女性の生理に関する規定があり、出血を「汚れ」とする考え方が記されています。

 つまり、この女性は、汚れた存在とされ、それゆえ、後ろから、体ではなく服に触れたのです。12年間の苦しみと信仰的希望が交差する行為でした。大勢の群衆が押し迫っていました。まるでおしくらまんじゅうです。弟子たちの言い分も分かります。はっきりとは記されていませんが、弟子たちとすれば、触れた人を探すイエスさまの行為は、無駄な行為、もっと言えば愚かな行為でしかありません。それよりも社会的地位の有る、会堂長の娘を救うため、急いで行かなければならないと思ったでしょう。

 しかしイエスさまは探し続けられます。叱られると思って、カミングアウトした女性でしたが、イエスさまの反応は真逆でした。病気が治っただけではだめで、この厳しい状況を生き抜いてきた、サバイバーの女性が、自尊心を取り戻し、名誉が回復され、人間の尊厳を奪い返すことが重要でした。だからイエスさまはしつこく、あきらめずに探し続けられたのです。そしてかけられた言葉が、

”あなたの信仰があなたを救った。”でした。イエスさまの力が彼女を救ったのですが、イエスさまはあえて「あなた」が「あなた」を救った、と言われました。

この言葉により、この女性はこの後、自尊心をもって、安心して元気に暮らすことができたのだと思います。

 人間の尊厳を大切にされ、人を真に生かされるイエスさまの姿がここに明瞭に表されていると思います。私たちもそのイエスさまに従い、自分を高め、他者を高める歩みをすすめて行く者でありたいと思います。

2021年8月15日 聖霊降臨節第13主日礼拝 笹井健匡牧師


 平和と一口に言っても、人によっていろいろなイメージする姿があるように思います。開国以降、戦争への道を歩み続けた歴史を持つ私たちは、戦争がないことが平和だとシンプルに思います。しかしそこで生きている人々が、真に幸せを享受していないとすれば、それは平和だと言えないかも知れません。

 今日の聖書は、いわゆる「ハンナの祈り」の中間部分です。ここでは、この世の在り方の逆転が歌われているように思います。

 4・5節ではこの世的な強者と弱者の立場の逆転が記されています。いずれも相反する立場の、大逆転が起こっています。

 6・7節では、生死も貧富も、神のみ手の内にあり、それらを神は全く自由に、かつ完全に実行されることが記されます。

 ダイナミックな変化、立場の逆転が強調されていますが、最終的には、8節にあるような弱者、貧者の高挙が実現すると歌い上げているように思います。弱者・貧者が置かれている厳しい状況を、塵芥と表現します。非常にマイナスで、絶望的な状況に置かれている、そうした人々が、神さまによって、高貴な人々と共に栄光の座に着くというのです。

 この祈りは、もっと以前に、イスラエルの民の中で、歌い継がれていたのではないかと思います。そしてそれは、真の平和、主の平和について歌っていたのではないかと私は思います。つまりハンナという個人の歌となる前に、すでに主なる神、ヤハウェを信じる人々によって、伝承されていたのだと思います。

 主の平和、それは争いがないというだけではなく、すべての人々が愛と感謝に満ち、喜びの祈りの歌が響き渡る世界、だれも不足する者、不満な者、不幸な者がいない、神の正義と公平にもとづく、光あふれる世界です。

 厳しいコロナ禍を生きる私たちですが、信仰をもって、主の平和、主が必ずや実現して下さる平和を祈り求めて、共に歩みを続けて行く者でありたいと思います。

 

2021年8月8日 聖霊降臨節第12主日礼拝 笹井健匡牧師


 8月を迎えました。今年は特に、コロナ禍、オリンピック、猛暑等いろいろな方面から平和を考えさせられます。

 イエスさまは神の力に満ち溢れた方でしたが、その力をもって武装蜂起するという道を歩まれませんでした。イエスさまが歩まれたのは、十字架の道でした。それはそれが、それこそが、真の平和の道だったからです。

 私たちの浅はかな「旧約聖書の読み」では、神の力をもって正義が悪をやっつけるのがいい、と思ってしまいます。しかしイエスさまの深い知恵と信仰、何よりも愛からすれば、「やっつける」では何も解決しないのです。真の平和の道は、神が愛であることを、ご自身の尊い犠牲をもって示すことでしか、実現できないのをよく知っておられました。

 今日の聖書は、イエスさまが、裏切られ、逮捕される場面です。ユダの接吻による裏切り、イエスの側にいた「だれか」の剣による応戦に注意が向きます。しかし48・49節のイエスさまの言葉に注目すると、それまで神殿で教えていた、言わば「教師」のイエスさまには手をかけず、夜の闇に紛れて、まるで強盗を捕まえるように、剣や棒を持ってやってきたことにこそ、驚かされます。

そうです。ユダヤ当局はイエスさまを強盗扱いし、さらに騒乱の首謀者として十字架刑に処したのです。

 しかしイエスさまの実像は、真に愛と平和の人でした。それは後の弟子たちの姿を見れば明らかです。この逮捕の時、おそらくイエスさまの側の人々も、ある程度、最低限の護身用の武装をしていたかも知れません。しかし、十字架と復活、聖霊降臨を経た弟子たちは一切の武装をせず、ただ信仰の盾等の神の武具(エフェソ6・11以下)をもって、悪に負けず、福音を宣べ伝えて行ったのです。

現代においては、剣や棒は、ものすごく発展して、核兵器、生物化学兵器等に「進化」しました。しかしどのような変化があろうとも、私たちはイエスさまから教えられた愛と平和を身にまとい、イエスさまに従って、平和を希求していきたいと思います。いつの日か、真の平和が実現することを信じて…。

 

2021年8月1日 平和聖日(聖霊降臨節第11主日)礼拝 笹井健匡牧師