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 今日は、教会創立70周年記念礼拝であり、棕櫚の主日礼拝でもあり、さらに2017年度最後の礼拝でもあります。ほんとにいろんなことがあった今年度でした。

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 今日の聖書は、イエスさまがエルサレムに入城される時(12節以下)、民衆があれほど熱狂していたわけがよく分かる個所です。死後4日もたったラザロを復活させられた「イエスさま」だったのです。すでに多くの奇跡、癒しをされていましたが、この奇跡は尋常ではありません。古代人にとてあり得ないことだったのだと思います。学者によっても見解は異なりますが、私はこのラザロのことは、本当にあったと思っています。「洗足」とともに、イエスさまの、最も大切な「言動」として、ヨハネ福音書が記しているように思うからです。
 9節には、大群衆が、イエスさまだけではなく、ラザロをも目当てにやって来ていたことが記されています。それで祭司長たちは10節にあるように、ラザロをも殺そうとしていたのです。11節の記述からは、だからこそ、祭司長たちはどうしてもイエスを亡き者にしなければ、自分たちの地位が危ない、と感じていたことが想像されます。
 今日は棕櫚の主日です。イエスさまは「ろばの子」に乗って、つまり平和の主として入城されました。不思議なことに、マタイ5章9節を、今年度は3回も、礼拝で朗読していただきました。今、分水嶺に立っているのかも知れません。
 すべては神のご計画だった、これが今の私の率直な感想です。自らを主にゆだね、行くべき道をお任せするとき、神さまはご計画に従って、万事を益とされ、私にとって最も良き道を備えてくださっていました。
 皆さんの中には、今も大変厳しい現実の中を、懸命に歩んでおられる方もあることと思います。がんばることはとても大切なことですが、それ以上に、神さまにすべてをゆだねて生きて行くことが、一番大切であることを私たちは知っているはずです。
 イエスさまを自らのうちにお迎えし、そのイエスさま、言わば小さなイエスさまに導かれ、守られて、これからも信仰の歩みを共に支え合いながら続けて行く者でありたいと思います。そして受難週を歩みきり、イースターの良き日を心からの喜びをもって、共に迎えましょう。

2018年3月25日 教会創立70周年礼拝 笹井健匡牧師

 今日は、もともとは、平島先生の説教でありまして、この聖書の個所も、平島先生にとって、特別な個所であろう、と思っております。逆の言い方をすれば、私にはあまり・・・、というより、かなり不得手なところでありまして、交替することが決まったとき、平島先生が私に、聖書の個所も説教題も変更したら、と言いました。讃美歌に合わせて、という本来とは逆の方法で、あるいは奏楽者に謝罪して、曲の変更をお願いして、することもできました。大変迷いましたが、このところから、そのまま、私なりに説教させていただくことにしました。
 3章全体にわたって書かれていることは、古い契約と新しい契約の違いであります。多くの説教者は、前半の1~6節を取り上げ、最後の「文字は殺しますが、霊は生かします。」を中心に、説教を組み立てます。
 7節以降の後半で書かれているのは、ひと言で言えば「栄光」についてです。つまり、古い契約(14節)の栄光はもはや失われ、新しい契約の栄光の時代になった、ということです。
 16節の冒頭の「しかし」が受けているのは、直前の15節の、古い契約を、いくら熱心に読んで、努力しても、そこには覆いがかかっている、ということです。そして「主」の方に向き直れば覆いは取り去られ、自由を得るというのです。ここには、三位一体の信仰が言い表されています。
 「主」というと、ふつう、主イエス・キリスト、つまりイエスさまのことを指します。「主の祈り」はその代表です。また、旧約以来、「主なる神」ということばで「ヤハウェ」の神、つまり神さまのことを「主」と呼びならわしています。
 ここでパウロが聖霊をあえて「主」と呼んだのは、非常にめずらしい表現とも聞こえますが、しかし、三位一体の信仰からするならば、現実に私たちを助け、導き、力を与えてくださるお方は「聖霊」です。イエスさまも、「助け主」を送る約束をしてくださっています。そういう意味では、聖霊を「主」と呼ぶことも「あり」、な訳です。たぶん、これは私の推測ですが、コリント一で明らかなように、教会が内部分裂していた、そして中には「わたしはパウロに」「わたしはアポロに」・・・と主張するものがいて、「わたしはキリストに」という者までいたという事情がは愛系にあるのかもしれません。
 教会をひとつにして下さるのは聖霊です。そしてその聖霊の働きによって、わたしたちはイエスさまと同じ栄光の姿へと作り変えられて行くのです。克己の歩みを通して、栄光から栄光へと変えられていく者でありたいと思います。

2018年3月18日 受難節第5主日礼拝 笹井健匡牧師

 今日は、あの3・11から7年目の日です。当初は、被災のピアノの話をする予定でしたが、準備の途中で、今井和子さんという私の母教会の信仰の母の友人のことを、以前平川英勝兄が英語の文書?を見せてくださったことを思い出しました。しかし、わたしの英語力では、解読しようもなく、そのままにしてしまっておりました。ふと、「ああ、もしかして、日本語の原文が?」と思い、思い切って電話をしました。するとやはりもともとは日本語で書かれたそうです。今日の皆さんの週報ボックスにお入れした「失われた若い命」という文書です。右上にあるように、ニューヨーク各地で講演されたそうです。 - 中 略 -
 以前にもお話しましたが、わたしの父の「アメリカン・ドリーム」ならぬ「ジャバニーズ・ドリーム」の壮絶な人生で得た結論は「ほんまにしんどい人は、声をあげられない」というものです。小学校、中学校9年間「級長」をし、無遅刻無欠席で、中3のIQテストで近畿で1番?だったそうで、その父が、人助けが趣味みたいなところがありまして、多くの人を助けたそうですが、本当に厳しい状況に置かれると、人間は声なんか出せなくなるんや、声をあげれてるうちは、まだ大丈夫や、と「釈迦に説法」ならぬ「牧師に説教」をしてくれました。
 今も、あの被災したときから、大変厳しい状況下に置かれている人々が大勢いるのではないかと思います。特に、阪神淡路大震災で、「被災障害児・者」支援をされた「めぐみホーム」にも少しだけ関わっていたので、平島禎子牧師とともに、彼女の出身教会の福岡警固教会、今治教会、その他九州、四国の関係者に献金と祈りのお願いをし、おどろくほどたくさんの人たちから献金をいただき、祈りの言葉をかけられ、こころから慰められたこと、今でも忘れられません。
 現代は、特に福島のことが気になって仕方ありません。非常に複雑で、さらにそんな状況なのに、多くの利害関係が入り乱れ、しっちゃかめっちゃかになっているように思えます。機械があれば、また片岡謁也さん、とかに来ていただきたいですが、とにかく心を東北に向け、祈る日としたいと思います。そして、なんとか、「声なき声」を代弁してくれる人が、多く現れ、この岡山でも「声」を聴ければと願っています。
 受難節のこの時、十字架へと向かわれる主に従い、歩んで行きたいと思います。

 2018年3月11日 受難節第4主日礼拝 笹井健匡牧師

 今日の聖書の個所は大変有名な箇所であり、「空の鳥」「野の花」に関するたとえ話から始まり、「食べ物」「飲み物」に「思い悩むな」というイエスさまの素晴らしい言葉のオンパレードのようなところです。
    
      -中略ー マタイによる福音書の並行個所参照

 そしてイエスさまは、最後に31節で、「神の国」をこそ求めるように教えられたのです。それでは、神の国を求めて生きるとは、いったいどのように生きることでしょうか。答えは33節に記されています。あえて日本人に分かりやすく言うとしたら、「喜捨」です。信仰的に言うなら、愛をもって、ささげなさい、ということです。そうでないなら、パウロが言うように、いっさいは「無」だからです。しかし、そんなことを言われても、はい、分かりました、と言ってすぐできる人がいるでしょうか。現実には、私たちにはなかなかできないことであります。それを実践したのが、アッシジのフランシスコでした。だからこそ、彼は「第2のキリスト」と呼ばれるようになりました。
 もちろん、批判的、歴史学的に言えば、いろいろ言うことは、たやすいことかも知れません。しかし、みなさんのご厚意により、実際にアッシジ研修旅行に行かせていただき、フランシスコの精神を体感することができ、やはりすごいなあ、真似できないなあ、足元にもおよばないなあ、というのがわたしの実感でした。
 地上に富を積む、子孫に富を残す、これが現代の、日本の姿だと思います。あの戦後の、食べる物もない、廃墟から必死に生きて来た人々、私の両親もそうでした。この世に神も仏もない、そう思ってもしかたないとわたしは思います。しかし、それでも教会は、今日も、神の愛を人々に伝えています。そして、暗雲立ち込めるこの世界の中で、イエスさまを人々に伝え続けて行きたいと思います。神にできないことは、何ひとつありません。
 わたしたち主イエスを信じる者が、この世の真の救い、そして真の平和をもたらすため、「十字架への道」を歩まれたことを覚え、わたしたちも、それぞれの賜物を生かし、できる範囲で、神さまの「平和の道具と」なりたいと思います。

2018年3月4日 受難節第3主日 笹井健匡牧師

 昨日、無事に帰って来ることができ、こうして皆さんと共に礼拝をささげることができることを、神さまと皆さんに心から感謝いたします。アッシジでは、本当にいろいろなことを思わされ、得難い「糧」を得られました。行く前に映画を2本観てから行ったのですが、やはり実際にその場に、現実に行くことができたのは、今でも不思議で、神さまの導きとしか思えません。

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 今、世界に暗雲が立ち込めている、私にはそう思えてなりません。しかしアッシジに来ていた人々の、少なからぬ人々がアッシジを訪れ、同じように「平和」を祈っていることでしょう。
 資本主義経済の行き過ぎから、本来は大切だった「富の再分配」がおろそかにされ、富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなる、そんな世界になってしまいました。自由に競争することは、もちろん大切なことですが、それと同じように、いやそれ以上に「分かち合う」ことは大切だと思います。一日も早く、人類の歩みがその方向へ、真の平和へと向かい、多種多様な人々が互いに違いを認め合いつつ、互いを尊重し合う、そんな社会をみんなで目指して行きましょう、というような声が世界各地から多く挙がるように祈ります。
 もちろん、多くの弱さや、欠けをかかえた私たちです。しかし神さまはそんな私たちを招いて「平和の道具」とされたのだと思います。互いに祈り合いながら、助け合い、支え合いながら、十字架への道、真の平和の道を歩まれるイエスさまに、遅れながらも、休みながらもついて行く歩みを続けて行く者でありたいと思います。

2018年2月25日 受難節第2主日 笹井健匡牧師

 14日の水曜日よりレント、受難節に入りました。イースターの前の46日間、そのうち6回の主日である日曜日を除く40日間の期間が受難節となります。イエスの苦しみの頂上は十字架にあります。しかし、生前のイエスもまた、苦しみがあり、人の世の罪、悪との闘いがありました。
 今日の聖書の箇所は、イエスが「悪霊の力で悪霊を追い出している」(15節)と非難されていることにイエスが答えられているところです。イエスは、「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(20節)と言われました。出エジプト記8章15節を見ますと、モーセが王の前で魔術師と力比べをなし勝った時に、魔術師は王に「これは神の指の働きであります。」と言っています。モーセと同じようにイエスも神の指によって癒しをなされたのであります。
 私が修論を書いた赤岩栄という牧師は「指」という月刊誌を16年間発行し続けました。その指は、最初は十字架のイエスを指す「指」でした。それは16世紀初めの画家、グルネワルト(グリューネヴァルト)という人物が描いた「十字架上のキリストを指す洗礼者ヨハネ」の絵を思い起させるものでした。しかし、その指は彼の信仰の変遷によって、人間の連帯を示す数本の指に変わりました。赤岩は政治、社会のことに深い関心を持ち、そのようなこの世の事柄と聖書、イエスを信じることは矛盾しないということを模索し続けていったのであろうと思います。
 神の指によって、私たちの世界は造られました。そして、イエスの持つ神の指によって、多くの人が癒されていきました。私たちに与えられた指はイエスを指し示すものであり、そして他者と連帯する数本の指をもって、この世で大変な思いをしている人たちのために、自分の指を使わなければならないのではないかと思わされます。
 自らに与えられている「小さな指」を用いて、真実なものを指さし、そして人間の連帯の中で生きていく、そのような者へと日々変えられて行く者でありたいと思います。そして、私たちの歩む道がイエスさまのように苦難の道になろうとも、苦しみ、死に勝利したところにおられるイエスを見出し、指さし、そのところまで、意気揚々と歩んでいくことができるよう、祈る者でありたいと思います。

2018年2月18日 受難節第1主日礼拝 平島禎子牧師