• 記事検索

RSS
「信仰の勝利」ヨハネの手紙一5章1~5節

 先日、笠岡教会で結婚式がありました。集った人々の愛に満ち溢れた素晴らしい式でした。言い方は変ですが、これぞまことの教会、礼拝と感じました。
 今日の聖書、ヨハネの手紙一は、特に後半では、「愛」について多くの、そして現代にも通じる示唆に富んだ言葉が記されています。今日とりあげた5章のはじめには「悪の世に打ち勝つ信仰」という見出しがついていて、4節5節を見ると、信仰が勝利することが強調されています。
 最近は、「信仰」という言葉の評判が少し悪くなったのではないか、と思わせられています。大きな原因は、信仰に名を借りた様々な『洗脳』が横行しているからだと思います。世界を見渡しても、私たちの身近なところでも、そうした多くの洗脳された人々を見ます。特に、武器を手にして相手をやっつける、それは信仰ではありません。私たちは、主イエスの十字架の死と、弟子たちの殉教の死に思いを馳せなければなりません。
 「神の掟」は直接的には、4章21節の言葉を受けています。しかし最初に言いましたように、3章11節ではすでに「互いに愛し合うこと」が最初からの教えとして述べられています。そして4章7節から「神が愛であること」が述べられて行き、16節の「神は愛です」を絶頂に、神を愛することと、信仰の友を愛することの大切さが強調されています。
 一人ひとりの信仰の友も、自分と同じように、神から生まれた存在です。神を愛するならば、その神から生まれた人をも愛する、それはしごく当然のことであると言うのです。
 これらのことを受けて、あらためて4節、5節に書かれてる「信仰の勝利」を読めば、神から生まれた者、すなわち私たちは、その起きて「互いに愛し合う」ことによって、世に勝利するということがわかるのです。それがイエスがメシアであることを信じる信仰であり、私たち信仰者にとっても最も大切なことです。
私たちはたとえ世の悪がひどくても、互いに愛し合うことによって、勝利して行く者です。
 私たちの教会が、またその礼拝が、毎週結婚式のように、愛に満ち溢れたものとなるように、祈りたいと思います。

2016年9月25日 聖霊降臨節第20主日 笹井健匡牧師

「虹」 創世記9章8~17節
 
 神さまはお造りになった世界を見て「よし」とされました。(創世記1章31節)しかし、次第に人々の中に悪がはびこるようになり、神さまは地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められました。(創世記6章5、6節) そして、人のみならず、被造物すべてを地上からぬぐいさることを決意されます。しかし神さまは神に従う無垢な人であるノアとその家族、そして一つがいの動物たちは救われました。神はノアに対して巨大な箱舟を作ることを命じ、ノアはそれに従い、大洪水で地が覆われても、ノアたちは残されたのです。神さまはその洪水の後、大変後悔され、もう二度とこのようなことはしないと決心され、「残されたノアとその子孫、すべての生き物を二度と滅ぼすことはしない」と決意されたのです。聖書によるならば、私たちは人類全てはノアの子孫です。この洪水後、私たちにもたらされる死や破滅は、神の怒りに根差したものではなくなったのです。
 そして神さまはその契約のしるしとして「虹」を置かれました。英語で言うとrainbowです。rainは「雨」でbowは「弓」を意味する言葉です。ヘブライ語でも「虹」は「弓」を意味する言葉です。神さまが契約のしるしとして虹を置かれたのは、闘いの武器である弓を横に置き、人々に、生きとし生けるものに対して弓を引くことはもう二度としないということを意味しています。神さまは忍耐と恵と憐みをもって人間に対して関わり続けられる決心をされたのです。
 ヨハネによる福音書3章16節には、「神はその独り子を与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の生命を得るためである。」と記されています。神さまは人間の歴史に関わり続け、人間の罪、悪を忍耐され、また人間の苦しみ、悲しみに限りない共感を示され、イエス・キリストという神の独り子を与えられることによって、罪深い人間が救われる道を開かれました。そのイエス・キリストを信じる信仰によって、私たちには、死をもっても滅ぼされない「永遠の生命」が与えられるのです。
 どんな悲しみ、絶望のどん底にあっても、私たちは虹を見ることができます。「虹」を見て、神さまの「永遠の契約」に思いを寄せ、私たちもまた、悲しみや絶望の中から立ち上がり、人に対して、生きとし生きるものに対して、愛おしむ
心を持つことができるのだと思います。殺伐としたこの地上にあって、人々に「虹」を指し示していこうとする者へと変えられていくことができるのです。
 ここにいます一人一人が神さまの「契約のしるし」である「虹」を心に持ち、それぞれの人生の歩みをなしていく者でありたいと思います。

2016年9月18日 聖霊降臨節第19主日 平島禎子牧師

「神の言葉として聴く」 テサロニケの信徒への手紙一2章13節

 私たち人間は、人と人の間で生まれ育つ存在です。ですから、いろいろな人がらいろいろなことを聞いて成長していきます。何をどう聞いたか、というのは、結構その人の人格形成の上でも大きな影響を与え、時に人生を左右するものであるのかも知れません。私自身も職業柄、聞く、聴くということを非常に意識するようになってきたように思います。
 今日の聖書は、テサロニケの信徒への手紙です。たくさんのパウロの手紙の中で後ろの方に置かれているので、勘違いしやすいですが、この手紙は現存する手紙の中で最も古いもの、つまり、パウロが最も早い時期に書いたものです。よく読むと、その新鮮な感じ、生き生きとした感じが読みとれます。また他の手紙に多くみられるような、問題の指摘や、課題の解決、厳しい非難等は、まったくありません。パウロも心からうれしい気持ちでこの手紙を書いたことがよく分かります。
 パウロは今日のところで、神の言葉として聴くことの大切さを教えてくれています。信仰者が一生懸命に伝道したとき、神の力が働いて、その人の言葉は、神の言葉として聴かれるのです。「人の言葉」として聴くか、「神の言葉」として聴くか、ここには決定的な違いがあります。私たちは毎週のように礼拝に集い、神の言葉として聴くことは言わば体得していますので、あまり普段は意識しませんが、この差は天と地ほど大きいのです。私自身も、中高6年間学校で聖書の言葉を聞きましたが、教会に行くようになってから、はじめて聖書の言葉を神の言葉として聴くようになりました。信仰の弱い私には、周りにいた神の言葉として聴く先輩集団が必要でした。学校で経験したものとは、まったく違う空気感というか、雰囲気でした。ですから、自然に導かれるように神さまのもとへ行くことができました。
 現代は、伝統的な宗教も、そして「明治」以降に誕生した宗教も衰退しています。天皇の人間宣言以来、日本に住む人々は飼う者のない羊のようになってしまいました。ポケモンが神、仕事が神、お金が神、そんなふうにも見えてしまいます。そんな社会、時代の中にあって、教会こそが、もう一度神さまのちからによって、先に神の言葉として聴くことを与えられた私たちが、周りの人々に本物の心のやすらぎと潤いを、また人間性を回復させる役割を果たしていく存在でありたいと心から願います。

2016年9月11日 聖霊降臨節第18主日 笹井健匡牧師

「迷える羊の憩う場所」 エレミヤ書50章6節

 今日の聖書には、羊と羊飼いの比喩によって、神の民が神から離反している姿が描かれています。民が迷っているのは、羊飼いの誤った指導によるものであるといわれているのです。ここで言われている羊飼いとは民を指導する王、祭司、預言者のことを指しています。民はさ迷い、いつのまにか自分の憩う場所を忘れてしまうのです。
 今日の聖書を教会にあてはめますと、教会の牧師が説教、牧会を怠ると、羊である信徒たちは迷い、さまよわないといけなくなる、ということであろうと思います。「自分の憩う場所」とは「自分の教会」です。最悪の場合、牧師がしっかりしていないため、信徒が教会を離れ、さ迷い、「自分の教会」を忘れてしまうことになるのではないかと思います。
 イエスは、五千人に食べ物を与えられたとき、「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」とマルコによる福音書6章34節に記されています。笹井牧師が代務をしている新見教会で1日(木)に召天された姉妹があり、2日(金)に前夜式を、3日(土)に告別式を行うことになりました。児島から新見までは車で大体2時間かかる距離なので、2日は新見に泊まり、3日の午前中に告別式を終えて、児島に帰り、スイッチを入れ替えて、午後3時頃から教会で主日礼拝の準備をしました。代務であったとしても、牧師がしっかりしていないと、信徒を迷わせてしまうということを強く思わされました。新見教会は私にとって大事なことをいつも教えてくれる教会です。
 葬儀の時だけでなく普段から、牧師は信徒を迷わせるようなことをしてはいけません。牧師も人間ですので、欠けのある土の器にすぎません。しかし牧師になった以上は信徒を迷わせないように努力しなければならないと思わされました。そして、牧師は、信徒、求道者1人1人を平等に愛さなければなりません。そしてまた今度は、信徒に愛されることによって、牧師も支えられ、神さまのご用をしていくことができるのであろうと思います。
 また教会は、この世にあって大変な思いをしている人たちの憩いの場になるべきではないかと思います。この世の中でさ迷っている人たちにこそ、教会は開かれた場にならなければならないと思います。教会が「迷える羊たちの憩う場所」となることができるように、皆で祈り、実践していく者でありたいと思います。

2016年9月4日 聖霊降臨節第17主日 平島禎子牧師