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「迷える羊の憩う場所」 エレミヤ書50章6節

「迷える羊の憩う場所」 エレミヤ書50章6節

 今日の聖書には、羊と羊飼いの比喩によって、神の民が神から離反している姿が描かれています。民が迷っているのは、羊飼いの誤った指導によるものであるといわれているのです。ここで言われている羊飼いとは民を指導する王、祭司、預言者のことを指しています。民はさ迷い、いつのまにか自分の憩う場所を忘れてしまうのです。
 今日の聖書を教会にあてはめますと、教会の牧師が説教、牧会を怠ると、羊である信徒たちは迷い、さまよわないといけなくなる、ということであろうと思います。「自分の憩う場所」とは「自分の教会」です。最悪の場合、牧師がしっかりしていないため、信徒が教会を離れ、さ迷い、「自分の教会」を忘れてしまうことになるのではないかと思います。
 イエスは、五千人に食べ物を与えられたとき、「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」とマルコによる福音書6章34節に記されています。笹井牧師が代務をしている新見教会で1日(木)に召天された姉妹があり、2日(金)に前夜式を、3日(土)に告別式を行うことになりました。児島から新見までは車で大体2時間かかる距離なので、2日は新見に泊まり、3日の午前中に告別式を終えて、児島に帰り、スイッチを入れ替えて、午後3時頃から教会で主日礼拝の準備をしました。代務であったとしても、牧師がしっかりしていないと、信徒を迷わせてしまうということを強く思わされました。新見教会は私にとって大事なことをいつも教えてくれる教会です。
 葬儀の時だけでなく普段から、牧師は信徒を迷わせるようなことをしてはいけません。牧師も人間ですので、欠けのある土の器にすぎません。しかし牧師になった以上は信徒を迷わせないように努力しなければならないと思わされました。そして、牧師は、信徒、求道者1人1人を平等に愛さなければなりません。そしてまた今度は、信徒に愛されることによって、牧師も支えられ、神さまのご用をしていくことができるのであろうと思います。
 また教会は、この世にあって大変な思いをしている人たちの憩いの場になるべきではないかと思います。この世の中でさ迷っている人たちにこそ、教会は開かれた場にならなければならないと思います。教会が「迷える羊たちの憩う場所」となることができるように、皆で祈り、実践していく者でありたいと思います。

2016年9月4日 聖霊降臨節第17主日 平島禎子牧師

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