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「神の言葉として聴く」 テサロニケの信徒への手紙一2章13節

「神の言葉として聴く」 テサロニケの信徒への手紙一2章13節

 私たち人間は、人と人の間で生まれ育つ存在です。ですから、いろいろな人がらいろいろなことを聞いて成長していきます。何をどう聞いたか、というのは、結構その人の人格形成の上でも大きな影響を与え、時に人生を左右するものであるのかも知れません。私自身も職業柄、聞く、聴くということを非常に意識するようになってきたように思います。
 今日の聖書は、テサロニケの信徒への手紙です。たくさんのパウロの手紙の中で後ろの方に置かれているので、勘違いしやすいですが、この手紙は現存する手紙の中で最も古いもの、つまり、パウロが最も早い時期に書いたものです。よく読むと、その新鮮な感じ、生き生きとした感じが読みとれます。また他の手紙に多くみられるような、問題の指摘や、課題の解決、厳しい非難等は、まったくありません。パウロも心からうれしい気持ちでこの手紙を書いたことがよく分かります。
 パウロは今日のところで、神の言葉として聴くことの大切さを教えてくれています。信仰者が一生懸命に伝道したとき、神の力が働いて、その人の言葉は、神の言葉として聴かれるのです。「人の言葉」として聴くか、「神の言葉」として聴くか、ここには決定的な違いがあります。私たちは毎週のように礼拝に集い、神の言葉として聴くことは言わば体得していますので、あまり普段は意識しませんが、この差は天と地ほど大きいのです。私自身も、中高6年間学校で聖書の言葉を聞きましたが、教会に行くようになってから、はじめて聖書の言葉を神の言葉として聴くようになりました。信仰の弱い私には、周りにいた神の言葉として聴く先輩集団が必要でした。学校で経験したものとは、まったく違う空気感というか、雰囲気でした。ですから、自然に導かれるように神さまのもとへ行くことができました。
 現代は、伝統的な宗教も、そして「明治」以降に誕生した宗教も衰退しています。天皇の人間宣言以来、日本に住む人々は飼う者のない羊のようになってしまいました。ポケモンが神、仕事が神、お金が神、そんなふうにも見えてしまいます。そんな社会、時代の中にあって、教会こそが、もう一度神さまのちからによって、先に神の言葉として聴くことを与えられた私たちが、周りの人々に本物の心のやすらぎと潤いを、また人間性を回復させる役割を果たしていく存在でありたいと心から願います。

2016年9月11日 聖霊降臨節第18主日 笹井健匡牧師

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