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 今日の聖書は、見出しの下に記されていますように、マルコとヨハネの福音書にも同じような内容が記されています。両方ともいわゆる5千人の給食の奇跡の直後に記されています。
 弟子たちは相当疲れていたのではないかと思います。もともと休むために人里離れたところに行った(マルコ6:31)のですが、休むどころか、5千人もの給食の業をなしたのです。それで、イエスさまは強いて弟子たちを先に行かせ、ご自身で群衆を解散させられたのです。
 逆風に悩む弟子たちに、あっと驚くことが起きます。陸に残っておられたはずのイエスさまが、何と、湖の上を歩いて近づいて来られたのです。それだけでもびっくり仰天ですが、マタイでは何とペトロまで湖の上を歩こうとしました。どうしてマタイはこんなことを記したのでしょうか。…中略…。
 船の位置を見ると、マタイが奇跡のすごさを強調していないことがよく分かります。マルコでは「湖の真ん中」(6:47)、ヨハネは陸から「二十五ないし三十スタディオン」つまり数百メートルにしています。マタイはおそらく奇跡のすごさではなく、ペトロに関することを証したかったのではないかと思います。
 湖上を歩くだけでも信じられないことですが、もはやイエスさまは湖上に立っておられます。そのイエスさまに対してペトロは、自分も水の上を歩きイエスさまの方へ行かせてほしいと願い、途中まで湖上を歩くことができました。最初、イエスさましか見えていなかったペトロですが、おりからの逆風に気づき、怖くなり、沈みかけたのです。
 ペトロの信仰はイコール、イエスさまへの愛と言っていいかもしれません。とにかくペトロはイエスさまが大好きでした。極論すれば信仰とは何か、論理的に分かっていた訳ではありません。それでもペトロを突き動かしていたのはイエスさまへのあふれんばかりの愛でした。湖上のイエスさまは、その愛に応え、途中までとは言え、湖上を歩かせてくださったのだと思います。
 現代を生きる私たちには、2千年前とはまた違ったかたちのイエスさまとの関係があるかもしれません。湖上のイエスさまはペトロに対して「来なさい」と言われたように、今も私たちを招いておられます。
 強い風の中にあっても、しっかりとイエスさまを見つめてこのレントの時を最後まで歩み行きたいと思います。

               2021年2月28日 受難節第2主日礼拝 笹井健匡牧師

 先週の水曜日、17日は「灰の水曜日」で、この日よりレント(受難節)が始まりました。レントの間は「克己」の生活をするということが大切です。克己の生活とは人それぞれだと思いますが、コーヒーを飲む回数を減らしたり、甘い物などを控えたり、お酒を飲む人はその量を減らしたりというようなことをすることであると思います。しかし、自分の中で決めた克己する事柄が「誘惑」され、ダメになってしまうこともあるかもしれません。また、コロナ禍の中で自粛し、不要不急の事でないと、外に出ることができない、ということもあります。そんな中で、自粛をやめてしまおうというような「誘惑」があるかもしれません。
 マタイによる福音書4章1節から11節までを見ますと、イエスさまが、荒れ野で「誘惑」を受けられたということが記されています。イエスさまは、聖書の言葉をもって、「悪魔の誘惑」を退けられました。イエスさまは公生涯の始まりに「誘惑」を退けられたことは大きな力となったのかもしれません。「誘惑」を退けるということは、その人を強く、正しい人にするのかもしれません。
 「誘惑」について、まず覚えておきたいのは、神は人間を誘惑される方ではないということです。神さまは、私たちが成長するように試練を与えられますが、「誘惑」することはありません。「誘惑」の発生源は、人間の「欲望」から生まれるものです。人間の「本能」がその人の「理性」と「判断力」を奪って、あらぬ方向へと引きずり、もともと欲していなかった「罪」へと引き入れるのです。
人間の「欲望」から「誘惑」は引き出されていくのです。
 「誘惑」は神から来るものではありません。何か悪いことが起きたとき、「なぜ神さまは・・・」と思うのは、神さまへの責任転嫁です。「なぜ」ではなく「なにを」と考えることが大事であると思います。この状況下で自分は「なにを」すべきなのか、と考え、実行することが大切であると思います。そして、キリスト者であるならば、まず祈り、祈りの中で示されたことをすればいいのだと思います。
 この世には色々な「誘惑」があり、自覚していなかった自分の中の「欲望」というものがあるかもしれません。「誘惑」を受けることで自分の中にある「欲望」が呼び覚まされ、その「欲望」から「罪」が生まれ、その「罪」が熟して、「死」が生まれると15節に記されています。そのようなことにならないように、悪魔の誘惑を退けられたイエスさまに助けられながら、私たちも「誘惑」に負けない歩みをしていく者でありたいと思います。
         
                   2021年2月21日 受難節第1主日 平島禎子牧師

 今日が降誕節最後の主日で、17日(水)、灰の水曜日から受難節、レントに入ります。
 今日の聖書の後半、10節以下は、イエスさまの受難と復活について、パウロ自身の実体験から来る、強い信仰を感じる個所です。迫害者であったパウロは、まさに闇(6節)であり、あのダマスコ途上で復活の主の光を受けて、自らの内から光が輝き出しました。それは言わば土の器から宝である光があふれ出すようなものだったのではないかと思います。
 土の器という表現の背景には、創世記2章の影響があるように思います。神さまが土の塵で人を形づくり、命の息を吹き入れられたことを、土の器に宝を入れていると表現しているのだと思います。さらに闇の世に真の光であるイエスさまが来られたことも、暗に言っているように思います。闇(迫害者)のような存在であった自分が、イエスさまの光を受けて、光の存在へと変えられた体験が軸になっていると思います。
 8節9節の言葉は、コロナ禍にある私たちを大いに励ましてくれるのではないでしょうか。よく言われるように、たとえどんなに行き詰った状況であろうとも、上(天)だけは常に開いている、そこにこそ私たちの救いはあるということを改めて思わされます。
 この春で、牧師になって30年になりますが、何度も何度も行き詰まりを経験する度に、あらためて土の器で良かったと思わされます。若い頃は、宝を入れるのに自分はふさわしくないとか、安っぽい土の器であることを嘆いたりもしましたが、この年になると、土の器で良かったと心から思えます。もし、立派な器だったら、自分自身を誇ったり、また見失っていたりしたかも知れません。宝のすばらしさではなく、それを持っているということで、勘違いして自分が宝のように思ってしまっていたかも知れません。自分がボロボロで安っぽい器だからこそ、その破れから宝石のような、いやそれ以上のイエスさまの光が外へとあふれ出す、それでいいのだ、それがいいのだと今は思います。
 水曜日から始まるレントの日々を、イエスさまの受難を覚えながら、同時に自らが土の器であることを再確認しながら、遠くにイースターの希望の光を見つめつつ、一歩一歩、歩んで行きたいと思います。

               2021年2月14日 降誕節第8主日礼拝 笹井健匡牧師

 来週の日曜日はバレンタインデーです。3世紀のローマの司祭がモデルになったと言われています。当時、ローマ皇帝によって兵士の士気が下がるのを防ぐため、兵士の結婚を禁止されたそうです。バレンタインはそれに逆らって、結婚式を執り行ったため、殉教の死をとげました。信仰、そして愛が大事であることを貫いた結果でした。
 キリスト教はその歴史において、もちろん不完全な面は多々ありながらも、主イエスが教えられた愛の教えを実践して来ました。愛に生きた、有名、無名の多くの人々によって、その歴史は紡がれて来ました。それはこれからも変わらないことでしょう。私たちも小さくてもその伝統に連なり歩んで行きたいと思います。
 今日の聖書は何度も取り上げている個所です。今回は35節の方に注目したいと思います。
 13章1節からヨハネの最後の晩餐が始まります。そこでイエスさまは洗足を行われました。弟子たちを愛して、愛し抜かれたその証しとして足を洗われ、そして、弟子たちにも足を洗い合うように、愛し合いなさいと教えられました。相手の前にひざまずき、相手の汚いところをきれいにする、そのようにして相手を愛し、愛し合うのだと教えられたのです。現代にまで、「洗足木曜日」として伝えられいる通りです。そして今日の個所で、遺言のようにして、たった一つの「新しい掟」として、イエスさまが愛されたように、愛し合うべきことを教えられたのです。
 そして最後に、愛し合うならば、周りの人々がイエスさまの弟子だと知るようになると言われました。裏を返せば、愛し合わないならば、イエスさまの弟子ではないということになります。うまくできなくても、きれいにできなくてもいいのです。自分に与えられたものを生かして、それを相手のために少しでも差し出すことができればいいのです。たとえば少しの時間を提供することも立派な愛です。難しく考えて、何もしないより、少々まちがってもいいので、少しでもできることをすればきっと神さまも、イエスさまも喜ばれると思います。そして何より自分の魂が喜ぶと思います。
 コロナ禍で大変な時代ですが、そうした中だからこそ、少しでも自分にできる愛の業を行って行く者でありたいと思います。

                    2021年2月7日 降誕節第7主日 笹井健匡牧師