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「誘惑」 ヤコブの手紙1章12~15節

 先週の水曜日、17日は「灰の水曜日」で、この日よりレント(受難節)が始まりました。レントの間は「克己」の生活をするということが大切です。克己の生活とは人それぞれだと思いますが、コーヒーを飲む回数を減らしたり、甘い物などを控えたり、お酒を飲む人はその量を減らしたりというようなことをすることであると思います。しかし、自分の中で決めた克己する事柄が「誘惑」され、ダメになってしまうこともあるかもしれません。また、コロナ禍の中で自粛し、不要不急の事でないと、外に出ることができない、ということもあります。そんな中で、自粛をやめてしまおうというような「誘惑」があるかもしれません。
 マタイによる福音書4章1節から11節までを見ますと、イエスさまが、荒れ野で「誘惑」を受けられたということが記されています。イエスさまは、聖書の言葉をもって、「悪魔の誘惑」を退けられました。イエスさまは公生涯の始まりに「誘惑」を退けられたことは大きな力となったのかもしれません。「誘惑」を退けるということは、その人を強く、正しい人にするのかもしれません。
 「誘惑」について、まず覚えておきたいのは、神は人間を誘惑される方ではないということです。神さまは、私たちが成長するように試練を与えられますが、「誘惑」することはありません。「誘惑」の発生源は、人間の「欲望」から生まれるものです。人間の「本能」がその人の「理性」と「判断力」を奪って、あらぬ方向へと引きずり、もともと欲していなかった「罪」へと引き入れるのです。
人間の「欲望」から「誘惑」は引き出されていくのです。
 「誘惑」は神から来るものではありません。何か悪いことが起きたとき、「なぜ神さまは・・・」と思うのは、神さまへの責任転嫁です。「なぜ」ではなく「なにを」と考えることが大事であると思います。この状況下で自分は「なにを」すべきなのか、と考え、実行することが大切であると思います。そして、キリスト者であるならば、まず祈り、祈りの中で示されたことをすればいいのだと思います。
 この世には色々な「誘惑」があり、自覚していなかった自分の中の「欲望」というものがあるかもしれません。「誘惑」を受けることで自分の中にある「欲望」が呼び覚まされ、その「欲望」から「罪」が生まれ、その「罪」が熟して、「死」が生まれると15節に記されています。そのようなことにならないように、悪魔の誘惑を退けられたイエスさまに助けられながら、私たちも「誘惑」に負けない歩みをしていく者でありたいと思います。
         
                   2021年2月21日 受難節第1主日 平島禎子牧師

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