教会に通い始めた頃、その教会にはベテスダ会というボランティアの会がありました。私が信仰の母と思っているK姉が始められた会です。いろんなことを学ばせていただきましたが、何より、教会につながり続けた大きな要因となった会でした。やがて共同作業所ベテスダの家となり、現在はデイサービスセンター・ベテスダの家となり、第2の施設イマジンもできて、総勢100名を越える大きな存在となりました。
今日の聖書は、今治教会「伝道師」となる時、母教会でした決別説教の聖書の個所です。ヨハネ福音書では、イエスさまはすでに2章で「宮きよめ」をされています。そこでエルサレム神殿の様子を目の当たりにされたことだと思います。今回はすぐに神殿の北側にあるべトザタ(ベテスダ)の池に行かれました。祭りで賑わう神殿と対照的に、ひっそりとただ「癒し」を待つ多くの人々がいた池、イエスさまの足は、池の方に向かったのです。
38年も病気で苦しんでいる人がいました。イエスさまはこの人に「起きよ」と言われました。(エゲイレ:ギリシャ語エゲイローの命令形)この人の病状ははっきりとは分かりません。異常な長期間であること、足が相当弱っていること以外は想像するしかないのですが、14節のイエスさまの言葉からは、何か容易ならざる事情があるようにも思えます。彼は本当に良くなりたいと思っていたのでしょうか。
起きよ、という言葉は、ただ単に横たわっている状態から、起き上がるということだけではなく、目を覚ませ、甦れ、心を高く上げよ、人間としての誇りを取り戻せ、もう一度やり直せ、生き直せ、というような心を奮い立たせる言葉なのだと思います。彼は、病が癒されただけではなく、その心が、魂が生き返ったのだと思います。
床には、それまでの、ダメな自分のみじめなすべてが染み込んでいます。それをどっかにほったらかして、なかったことにして、忘れて生きるのではなく、それを自ら担いで、それと共に生きて行くようにと、イエスさまは言われました。
私たちももう一度、イエスさまの言葉を聞いて起き上がり、自らの重い荷を一緒に担って下さる方と共に、生まれ変わった新しい人生を生きて行く者でありたいと思います。
2024年2月4日 降誕節第6主日礼拝 笹井健匡牧師