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 先週は花の日礼拝を捧げ、その後花の日の訪問をすることができ、本当に感謝なときを持つことができて良かったです。長い人生の経験、信仰生活から多くのことを教えられます。
 いつも訪問に行って、多くの信仰の先達の姉妹兄弟から教えられることのひとつは、「感謝」ということです。様々な人生の辛酸を経験し、厳しいことも多くあったであろうその口から出る「ありがとう」の言葉は大変重く、強いものであります。いつもこちらの方が、元気と勇気を与えられます。
 今日の聖書、テサロニケ信徒への手紙は、最も早い時期に書かれたパウロの手紙です。4章13節以下に明らかなように、終末、つまりイエスの再臨について少し問題が生じていたようです。それでパウロはこの手紙を書いたわけですが、しかし他のことは、大きな問題はなかったようです。文章も後年のローマの信徒への手紙と比べると、非常にシンプルで、すっきりしています。そこから今日の聖書の16~18節の名言が生まれたのだと思います。
 今日は「感謝」に注目したいと思います。直接的には、信仰の歩み、人生の歩みを続ける中で、多くの人と出会い、そしてそこで何かあったとき、その相手に対して感謝する、ということが多いのではないかと思います。しかし、その相手の人の背後には神さまがおられるのです。神さまがその人を遣わし、自分と出会わせ、何かしらのことをなして下さっているのです。人と関わるとき、その人の背後におられる神を見ることができるかどうかというのは、大変大きな、重要な信仰の事柄だと私は思います。
 自分にとって嫌なこと、しんどいこと、つらいこと、そうしたことさえも感謝することができるようになったとき、つまり、すべては神さまからきて、すべては自分のためにあることなのだと受け入れることができたとき、信仰者として成熟した姿を呈することができるのではないかと思います。
 自らの弱さや、欠け、また他者のマイナスの面ばかりに心を奪われる者ですが、そのような私たちを救うため、主イエスが地上に来られたことをもう一度思い起こし、神に感謝する信仰の歩みをすすめて行く者でありたいと思います。

2018年6月24日 聖レ降臨節第6主日礼拝 笹井健匡牧師

 今日は花の日です。「花」にはいろいろな意味を持ち、様々な場面で使用されますが、その多くの場合、そこには「贈る側」の「贈られる側」への愛が込められているように思います。そういう意味で、花は愛の象徴であると言うことができるかも知れません。
 私たちが信じる神さまは、愛の神です。ですからきっと花々をたうさえ、共に礼拝をささげ、そして訪問をする、というのは神さまの喜ばれることだと思います。そして、同時に私たち自身も大きな喜びに包まれるように思います。
 今日の聖書は、大変有名な「愛」に関してのパウロの教えです。愛してやまないコリントの教会が、成長とともに、分裂していることに心を痛めたパウロは、最高の道として「愛」を説いたのです。どんなにものすごい賜物を神から与えられていたとしても、どんなに完全な信仰を持っていたとしても、命させ差し出したとしても、もしそこに愛が無いなら、何の益もない、とパウロは言い切っています。
 彼はもともと迫害者でした。しかし復活の主と出会い、回心し、そしてそれまでの罪をゆるされた者として、つまり神の大いなる愛を身をもって体験した者として、愛の大切さを強く訴え、説いたのです。
 私たちが生きている時代とは、価値観や社会の在り方や、その他多くのものが全く異なる時代でした。しかし、そのような時代の中にあっても、主イエスによって示された愛は、文字通りの神的な影響を人々に与えたのだと思います。
 私たちは、日々の歩みの中で、自分のことに精一杯で、なかなか他者のことまで心を用い、時間を用いることの少ない者ですが、愛の主イエスに救われた者として、少しでも、愛の業を行って行きたいと思います。
 そしてこの世に最も大切なものは、愛であることを、愛がなければ、愛なくば一切は虚しいことを、人々に語り続けて行く者でありたいと思います。

2018年6月17日 花の日礼拝 笹井健匡牧師

 今日の聖書の個所には「いやし」について書かれています。イエスさまの最初の弟子であるペトロとアンデレの兄弟の家が舞台になっています。まず、そこから弟子たちは家族と断絶したのではない、ということがわかります。また、そのことを「人々」がイエスさまたちに一番に告げたということから、その家には家族以外の人たちも大勢いたのだろうと思います。イエスさまはすぐにペトロの姑のところへ行き、手を取って起こされました。すると熱は下がり、それだけではなく、彼女は起きだして「もてなし」をするほど元気になったのです。
 マルコによる福音書には、イエスさまが「家」に行くといった場面がたくさん出てきます。(2:15、3:20、14:3他)イエスさまが滞在した家というのは、イエスさまの新しい教えを聞き、イエスさまによって示された神の国の福音を信じるようになった人たちが、血縁の家族を超えて集う場になっていたのではないかと思わされます。今日の聖書の30節にある「人々」とはそのような人たちだったのではないでしょうか。
 今日の聖書の後半には、夕方になって大勢の人たちが押し寄せてきました。ユダヤ教社会では、日が沈むと次の日になります。日が沈む前までは、安息日でした。安息日にはいかなる仕事もしてはいけないという律法があり、治癒行為も仕事とみなされていました。それで、病の人たちはイエスさまにいやしていただくため、安息日が終わるのを待っていたのです。しかし、イエスさまは、安息日であっても苦しむ人が自分の前にいるならば、癒しの業をされる方でした。安息日には治癒行為を禁じることは、人間の良心を無視した律法だと思います。(死に関わるような急病、大病なら助けてもいい。いつでもいい病ならいけない。) たとえ律法を破ることになったとしても、自分の前で苦しんでいる人がいたらいやしたいのだ、とイエスさまは強く思われたのだろうと思います。そして、愛の心をもって、イエスさまはいやしの業をなされたのだと思います。
 私たちは病の人を見舞う時、いやしの業はできなくても、愛の心をもって、見舞うことはできます。可能なら手をやさしく握るか、肩をそっと持って言葉をかけることができます。そして、祈ることもできます。声に出せない状況なら、手を握って、または肩に手をおいて、心の中で短く祈ることもできます。
 また、自分がいやされたなら、医学的治癒であったとしても、やはり、イエスさまの力が働いたのだと信じ、感謝し、自分のできる奉仕の業をなしていく者でありたいと思います。

2018年6月10日 聖霊降臨節第4主日礼拝 平島禎子牧師

 教会は実に多様で様々な個性をもった存在です。教派、信条とかだけではなく、規模の大小から、会堂の様子までほんとにバラエティーに富んでいます。
 今日の聖書は2000年前出来たばかりの教会、つまり第1番目の教会の姿を記しています。2章43~47節に一度記されているのに、もう一度ルカがあえて記しているのです。
 ルカが福音書を書いたのは70年代と言われています。その続編としてこの使徒言行録を記しています。つまり約40年後くらいに、この地上に最初に誕生した教会の姿を記したことになります。40年後の一信仰者であるルカから見てもやっぱりすごい教会だったんじゃなか、と思います。だから、また再度書いたと考えられます。
 もう一つは、バルナバのことです。使徒言行録の後半の主人公パウロにとって非常に大きな存在であった人物として、ここに前もって記しておいたのだと思われます。特に9章以下の頻繁に登場し、もと迫害者のパウロをとりなし、アンディオキアで丸一年パウロと伝道し、リストラの町では「ゼウス」と呼ばれ、最後は、パウロと激しい口論をし、別行動をすることになった、という感じの、聖霊と信仰に満ち溢れていた立派な人物だったようです。
 最初の教会で、みんながすすんで献げ、共有していた背景には、強烈な終末信仰がありました。すぐにでもイエスさまが再来され、今のこの世は終わりを迎える、新しい世になる、と信じていたのです。しかしルカの時代、すでに70年にエルサレムは陥落してしまいましたが、終末は、来ませんでした。最初の教会から約40年後の教会は、そんな中、様々な問題を抱えていたのではないかと想像できます。34節の「一人も貧しい人がいない」という言葉に、私は、ルカが読者に対してもっと「分かち合おう」と呼び掛けているように思えてなりません。そして教会が周囲の人々から好意を持たれていたのは、将来に対して「夢」を持つことが困難だった時代に、「心」「思い」がまことに一つとなるとき、夢は生まれるのかも知れません。現代も違う意味で困難な時代ですが、救い主イエス・キリストを信じた人々の群れとして、夢をもって信仰の歩みをすすめて行きたいと思います。

2018年6月3日 聖レ降臨節第3主日礼拝 笹井健匡牧師

 今日は三位一体主日です。神とイエスとともに聖霊を私たちは信じています。今日の聖書には、「汚れた霊」が登場します。続くペトロの家の場面では「悪霊」という言葉が繰り返し記されています。現を生きる私たちには理解しにくいものですが、はっきりしているのは、聖霊と反対のもの、ということです。人を苦しめ、また人を神から遠ざけるものだと思います。
 見出しにも、イエスさまが汚れた霊を追い出し、癒されたことが記されていますので、どうしてもそちらに意識が集中してしまいますが、一番の特筆すべきことは、イエスさまの教えが「新しい教え」だった、ということです。22節にはその教えを聞いた人々が非常に驚いたことが記されています。また27節には、「権威ある新しい教え」だ、と人々は言いました。
 イエスさまの教えは、それまで人々に律法を教えていた律法学者たちとは、まったく違う教えであったことが分かります。律法学者たちは、律法の専門家として、人々に律法に関する知識、解釈等を教えていたことと思います。例えるなら、先生が生徒に、生徒が知らないことを、また分かりにくいことを教えるように、人々を教えていたのだと思います。
 それに対して、イエスさまの教えは、律法の本質、神の本質をついた、その神髄を人々に悟らせるものだったのではないか、と思います。神の国が近づいて来ていること、だから悔い改めて福音を信ずべきことを、人々の魂に向かって語られたのではないかと思います。
 イエスさまは、もちろん深い愛のお方ですから、病に苦しむ人々を癒されました。しかしイエスさまの一番の使命は神の国の福音を宣教することでした。38節のイエスさまの言葉がそのことをよく表しています。
 ペンテコステの後、聖霊を受ける弟子たちも、この宣教の業がにまい進しました。イエスをキリストと信じる事、それは、イエスさまが宣教された福音を信じることと同じです。
 私たちは、いわば「人の国」に生きています。そこはさまざまな悩みや、苦しみがつきないところであり、多くの不条理が存在します。しかしそこに「神の国」が近づいて来ている、とイエスさまは言われたのです。
 そのイエスさまを信じる私たちは、イエスさまが教えられた「新しい教え」を聞き、まず自分自身がその福音の喜びに生き、そしてその喜びを神が出会わせてくださった人々と分かち合って行きたいと思います。

2018年5月27日 聖霊降臨節第2主日礼拝 笹井健匡牧師(平島の代理)

 ペンテコステおめでとうございます。本来なら、教会の誕生日ですから、ハッピーバースデートゥーチャーチ、と言うのがいいかも知れません。
 今日の聖書は、12ある小預言書のひとつ、ヨエル書です。この3章は、使徒言行録2章でペトロがペンテコステの説教の冒頭で引用したところです。内容は「主の日」つまり終末の預言となっています。
 預言者ヨエルについては、ほとんど情報がありません。名前の意味は「ヨ」はヤハウェを「エル」は神を意味していますので、「ヤハウェは神」ということになります。おそらく、厳しい状況にあったイスラエルの人々に、ヤハウェこそが、神であり、そこに立ち帰るべきことを強調しています。
 先日テレビで「裁くのトビバッタ」というのを偶然見ました。それはそれはおそろしいものでした。ヨエル書1章に書かれている「いなご」の害、というのも、わたしたちの想像を絶する恐ろしいものかも知れません。ヨエルが預言した終末は、神の裁きであると同時に、最後には大いなる祝福が待っている、というものでした。ですからある意味「希望の預言」であったのだと思います。
 「預言」とともに「夢」「幻」という言葉が出てきます。これはわたしの感覚ですが、「希望」というと「信仰、希望、愛」という表現にもあるように、非常に強い印象を受けます。「夢」はそれに比べると少し弱い、はかない感じがしますが、それでも「ドリーム カム トゥルー」という言葉があるように実現する、現実のものとなる、かなえる可能性がある、まだ少しちからのある感じを受けました。しかし「幻」となると、蜃気楼のような、実際にはないもの、「あれは幻だったのか」というふうに、現実感がかなり弱くなる気がします。「幻覚」という言葉はほぼ「錯覚」という感じで、見間違い、本当のものではないというもの、という感じさえ受けます。
 今の時代の中で、わたしたち信仰者が信仰によって見る将来はまさに「幻」ではないかと思います。一見はかなく、実際困難に思えますが、しかし2000年前の信仰者たちが、聖霊を受けて「幻」を信じて信仰の歩みを前進させて行ったように、わたしたちもそれぞれ与えられている「聖霊の賜物」を生かして力を合わせて信仰の歩みをすすめて行きたいと思います。「幻」を心に抱きつつ。

2018年5月20日 ペンテコステ礼拝 笹井健匡牧師

 今日の聖書は、イエスさまが最初の弟子たちを召されるところです。マタイ、ルカと3つの福音書では、ほぼ共通した内容になっています。しかしヨハネ福音書では、だいぶ違う内容が描かれています。いろいろな解釈が可能ですが、十数年前、平島禎子牧師が礼拝で言われたのは、イエスさまは最初お一人で宣教活動されたのではないか、というものでした。そう考えますと、ヨハネに記されている弟子の召しは、バプテスマのヨハネが生きていたときのことなので、納得がいくようにも思えます。
 「湖のほとり」を歩いておられたとき、イエスさまはどんな心境だったのでしょうか。私は、神さまから、弟子を召すように、との声を聞かれたのではないかと考えています。そしてそのとき、目の前に存在したのが、「漁師たち」だったのです。
 「漁師」を弟子にした理由は定かではありませんが、ガリラヤ湖を渡って行き来するのによかったのかもしれません。律法の専門家ではなく、あえて無学な存在をこそ弟子にされたのかも知れません。しかし、私自身は、以前にもお話しましたが、5番目に「徴税人」を弟子にされているところに注目しています。当時の社会で「罪人」同様人々からの厳しい差別を受けていたレビ(マタイ)を弟子にしているのです。 
 神の愛を持ったイエスさまは、当時の社会で最も厳しい差別を受けていた人々を救おうとされたのではないか、と思います。そのため「漁師」が弟子としてふさわしい存在だったのだろうと思います。 -中略ー
 召された4人の漁師は、イエスさまの言葉に従い、すべてを捨てて「弟子」となりました。彼らに声をかけられたイエスさまは、復活の主となられ、今も生きて働き、私たち一人ひとりに声をかけてくださいます。
 イエスさまは、今年の教会歴では、10日(木)に昇天されました。今、次週の主日、ペンテコステまでの、イエスさまがおられない10日間にあります。この時を、祈りを熱くして、そしてイエスさまの声を聖書をとおして聴いて、今年も私たち児島教会の上に、そして一人ひとりの上に、聖霊が降るように、支え合いながら、歩んで行く者でありたいと思います。

2018年5月13日 復活節第7主日礼拝 笹井健匡牧師(平島の代理)

 今日の聖書は、いわゆる「山上の説教」のひとつの大きなヤマ場です。19節から24節までに教えられた「神と富」とについての結論にあたるところです。「食べる事」と「着る事」を引き合いに出し、それらが私たち人間に必要なことは、神さまがよくよくご存知であることを教え、ただ神の国と神の義を求め、思い悩まずに生きるように教えられています。
 今日はいわゆるゴールデンウィークの最終日にあたります。多くの人々が移動をした日々が続いていたのだと思います。みんながどこかに行くので、特にお子さんやお孫さんとのため、とにかくどこかへ、と多くの人々が移動をするわけです。盆と正月と、さらにゲう曜日が休日の三連休も同じような現象が起きます。ある程度はいいのかも知れませんが、もう少し、個人の事情、理由で、それぞれに「移動」するようになったほうが何かといいと思うのは私くらいでしょうか。
 さて、今日のところへやって来ていた人々はどうでしょうか。決しておでかけの場所、行き先としてイエスさまのところに来たわけではありません。さまざまな事柄に悩み苦しむ人々が、救いを求めて集まって来ていたのです。その「目」には、憂いの色があったかも知れません。絶望の陰を帯びていたかも知れません。イエスさまは、そうした大変な状況にある人々に対して、だからこそ、「明日のことまで思い悩むな。」「神を信じろ。」と教えられたのだと思います。
 今日を生きる、今を生きるだけで、精一杯、ぎりぎりの人が大勢いた時代でした。ともすれば下を向いてしまう人々に対して、顔を上げて空の鳥を見てごらん。大丈夫。あなたたちも、大丈夫だから。
 また明日どう生きよう、と思い悩む人々には、足元に咲いている野の花を見てごらん。すっごいきれいだよ。だから大丈夫。あなたたちこそ、大丈夫だから。そんな思いを込めて、イエスさまは人々を教え、慰め、励まされたのではなかったでしょうか。
 わたしたちも大勢の人々にはできなくても、神さまが出会わせてくださった目の前の一人の人に対して、イエスさまを指し示して、イエスさまの言葉を伝えて、大丈夫、と言える者でありたいと思います。そして、またわたしたち自身も、イエスさまの言葉によって、顔を上げ、思い悩みを排して、神さまを信じて一日一日を生きて行く者でありたいと思います。

2018年5月6日 復活節第6主日礼拝 笹井健匡牧師