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 地上を歩んでいます私たちにとって、“時”というのは不思議なものです。しかし、さまざまな制限がある、有限な地上での人生には、必要不可欠なものと言えるかも知れません。
 先日、19日(月)受洗40年の記念日を迎えました。40年前の、洗礼を受けたばかりの私は、まさか今、このような人生、信仰生活をしているとは想像もできないでしょう。
 また、今治教会でいわゆる「伝道師」を始めてから30年になりました。やはりそのころの私には、今こうして岡山の児島で牧師をしているのも、想定外のことでしょう。
 そして25年前、筑豊の宮田教会で平島禎子牧師と共同牧会を始めました。骨をうずめるつもりで始めたので、今違うところに生きているのは本当に不思議な気がします。
 みなさんにもそれぞれ、人生における大切な“時”がおありだと思います。よく人生を旅にたとえますが、そういう意味では私たちはみな、時の旅人と言えるかも知れません。
 神さまは私たちに大いなる自由を与えて下さいましたが、それと同時に、大切な節目にあたる“時”も備えて下さったのだと思います。あまりにも自由が大きすぎると手にあまります。ある程度の予定というか、青写真のようなものとして一人ひとりに最も良い“時”をあらかじめ定めて下さったのかも知れません。
その代表は、生まれる時、死ぬ時です。
 私たちの人生をスタートさせ、そして今日まで豊かに守り導いて下さった神さまは、これからもきっと“時”に応じてふさわしい助け、導きを与えて下さいます。人の時を超えた神の時があり、そしてその時、神の恵みは私たちに十二分に注がれることを信じて、今のこの時を感謝と希望をもって歩んで行く者でありたいと思います。

              2021年4月25日 復活節第4主日礼拝 笹井健匡牧師

 新年度、2021年度になって、4月も半ば過ぎになりました。今年は新年度の最初の日曜日がイースターで、キリスト教会では嬉しい出発となったと思います。もちろんコロナ禍で大変な教会も多々ありますが、それでもイースターを迎えたということはやはり喜びであります。
 今日の聖書は復活の主イエスが弟子たちに現れる箇所です。ペトロをはじめとする弟子たち7人は、イエスさまの十字架の死を経験して、ガリラヤに帰ります。この物語の設定では、弟子たちがまだ復活のイエスさまに出会ってないことになっています。
 ペトロは漁師でした。ガリラヤに帰ったペトロが、「わたしは漁に行く。」と言うと、他の弟子たちも一緒に行くと言いました。7人の弟子たちが全員漁へと出かけたのです。しかし、この日は夜通し漁をしても、何も漁れませんでした。
そして、夜が明けた頃、イエスさまは岸辺に立っておられました。そしてイエスさまは、「子たちよ、何か食べるものはあるか。」と弟子たちに訊かれました。弟子たちは、「ありません。」と答えました。イエスさまは、「舟の右側に網をうちなさい。そうすれば漁れるはずだ。」と言われました。弟子たちは言われた通りにすると、魚があまりに多くて網を引き上げることができないくらいになりました。弟子たちはこの時までイエスさまであるとわかりませんでした。
 しかし、イエスさまの弟子のひとりが「主だ。」とペトロに言うと、ペトロは裸同然だったので、上着を着て湖に飛び込みました。ペトロはイエスさまを裏切ったことを深い心の傷として持っていたのだろうと思います。そんな自分がイエスさまに顔向けできない、と思い舟から湖へ飛び込んだのかもしれません。
ペトロを除いた弟子たちは、イエスさまのところまで200ぺキスつまり90mしか離れていなかったので、魚でいっぱいの網を引いてきました。
 弟子たちが陸にあがると、イエスさまが火起こしし、魚を焼いて、あと、パンもそこにはあり、弟子たちを迎えました。イエスさまが弟子たちのために朝食の準備をされたということは、「仕える」姿勢をもっておられたからかもしれません。弟子たちは、復活の主イエスとの食事で、イエスさまが弟子たちを許してくれたことを悟り、弟子たちは悔い改めと新しい希望を持つことができるようになったのではないかと思います。
私たちの生きる日常の中にもイエスさまは、姿を変えて現れて、私たちを祝福してくださるのではないでしょうか。私たちの日常がイエスさまから祝福され、イエスさまの愛で満たされるものとなるように、日常での歩みを喜びをもって歩んで行く者でありたいと思います。
                 2021年4月18日 復活節第3主日 平島禎子牧師

 イースターを迎えて1週間が経ちました。主の復活の喜びで心は満たされているでしょうか。それとも早くもこの世のさまざまな事柄に心を奪われ、暗くなってしまっているでしょうか。いやいやそもそも復活の喜びをまだ十分に味わえていない、と言われる方もあるかも知れません。
 2千年前にも、イースターの喜びからひとり取り残された弟子がいました。主イエスはその弟子トマスを救われる行為をとおして、後の時代を生きる多くのクリスチャンたちに大切なことを教えられました。
 「見ないで信じる」ことです。イースターの日、他の弟子たちと共にいなかったトマスに対して、自らの傷跡を見せて、信じるように言われました。トマスはどんな思いだったでしょうか。
 イエスの死後、弟子たちはユダヤ人を恐れ、家に鍵をして閉じこもっていました。しかしトマスは外に行っていました。一番勇気があったのかも知れません。最後に大役を果たすため、神さまはあえてトマスを他の弟子たちから引き離されたのかも知れません。「わたしたちは主を見た」という復活の証言は、トマスにとって面白いものではなかったと思われます。悶々として1週間を過ごしたトマスに復活の主が顕現されます。トマスの心を見透かすように、傷跡を見せられるイエスさま。トマスは主イエスを見捨てて逃げ去ったこと、主イエスがただひとり十字架につかれたことをあらためて目の当たりにし、懺悔の思いがこみ上げたかも知れません。イエスの御傷はトマスの心を根底から突き刺し、そして救ったのだと思います。
 「わたしの主、わたしの神よ」という信仰告白をしたトマスに対して主イエスは、見ないで信じることの大切さを伝えられました。
 見たから信じるのではなく、他の弟子たちの「わたしたちは主を見た」という証言を聞いて、信じる者になりなさいと言われたのです。見て、信じるのではなく、見ないで、聞いて、信じる者になる、そういう人こそが幸いなのです。この福音書を読んだ多くの人々、また耳で聞いた多くの人々がイエスさまの復活を信じました。
 今を生きる私たちも、見なくても、聞いて信じる者となり、復活の主と共に、新しい道を歩んで行く者となりたいと思います。

               2021年4月11日 復活節第2主日礼拝 笹井健匡牧師

 イースターおめでとうございます!コロナ禍にあっても、こうして共に主の復活を喜び祝えることを心から神さまに感謝します。
 復活に関して豊かな情報を提供してくれるのはルカ福音書とヨハネ福音書です。マルコとマタイはほんの少ししか情報を提供してくれません。マタイは大筋でマルコを踏襲しながら、そこに独自の情報を挿入しています。一つは番兵に関すること、そしてもう一つが今日の聖書、ガリラヤの山における派遣命令です。
 ユダを除く11人の弟子たちは、二人のマリアから復活の主の言葉を聴き、生前に聞いていたガリラヤの山に登ります。そこで初めて復活の主に遭うことができたのですが、喜びや驚きの詳しい様子は一切記されず、ひれ伏したことと、疑う者もいたことだけが記されます。
 大学時代に新約聖書を教えていただいた教授は、この「疑う者」のところは、11人の中の数人が疑ったのではなく、11人すべてがひれ伏して礼拝しながらも疑った、ととるべきと書いておられます(新共同訳新約聖書注解Ⅰ)。つまりみんな主イエスの復活を望みながらも、どこかで疑っていた、ということです。
もしかしたら、イエスを見捨てて逃げてしまったことを後ろめたく思っていたかも知れません。あるいは生前のイエスさまから復活について聴いていたけれど、本当にそのことが実現するとは思ってもいなかったのかも知れません。いずれにせよ、復活ということについて、よく理解できていなかったのではないかと思います。
 そんな弟子たちにお構いなく、イエスさまは18節以下、最後の締めの言葉を授けられます。復活された主イエスは、すべてに完全勝利され、いっさいの事柄はイエスさまにゆだねられたことを言われます。そして、だからこそ弟子たちにすべての人々のところへ行き、イエスさまのことを宣べ伝え、洗礼を授け、弟子にするように言われました。そして最後に復活の主は、どんなときも最後の最後まで共にいてくださることを宣言されました。誕生物語でのインマヌエル預言がここに成就したのです。
 この時の弟子たちと同じように、私たちも復活についてはよく分からないという思いを持ちますが、長い信仰生活の中で、復活の主が共にいてくださることを感じて、信じています。復活された主イエスは、どんなときも共にいてくださることを信じてこれからも信仰の歩みをすすめて行きたいと思います。

                2021年4月4日 イースター礼拝 笹井健匡牧師