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 昨年10月17日、私たちが敬愛する難波玉惠姉が召天されました。平島牧師と私が赴任したころはまだお元気で、訪問するとよくいろんなお話を聞かせて下さいました。また途中から送迎をするようになりました。その車中でもほんとに愛と信仰をもって教会とそれに連なる人々のことを話して下さいました。
 入院され、やがて施設に移られてからも、訪問するといつも私たちの手を握りその時々の思いを、率直にまた愛と配慮をもって話して下さいました。讃美歌もご一緒に歌いました。また祈りを合わせました。今は天で安らかな時を愛する人々に囲まれて過ごしておられるのではないかと思います。
 今日の聖書は児島教会にとって大切な個所だと思います。新会堂が完成し、献堂式を終え、その翌年の2011年度の信仰目標に掲げた聖句のところです。言わば新生児島教会のスピリットが、ここに込められていると言っていいのかも知れません。
 この手紙はパウロが書いた手紙の中で最初期のものです。非常に初々しいというか、シンプルな言葉遣いが多く、ローマの信徒への手紙等とは正反対です。おそらく、あのコリント滞在時に、先に寄って来たテサロニケの教会の噂を耳にして、励ましと慰めを与えるために書いたのだと考えられます。
 今日は「祈り」に注目したいと思います。信仰の歩みでなすことはいろいろありますが、最後の最後、もはや何もできなくなった時でも、残された奉仕、業は祈りであると私は思っています。日本人は、どうしても形式にとらわれがちですが、私は、祈りとは、究極的には、「思う」ことだと思っています。神さまのことを思い、信仰の友のことを思い、多くの人々のことを思う、そのことは実は大変大きな力をもっており、時に大きなヤマをも動かす奇跡を起こすと私は信じています。パウロもその祈りの力をよくよく知っていたと思われます。だからこそ、25節で、自分のためにも祈ってほしいと記しているのです。
 祈りは、神さまとの間でももちろん、信徒同志の間でも両方通行でなければなりません。祈りは言わばキャッチボールのように行き来するものです。そのことによって互いにより強められ、また慰められ、励まされるのです。
 私たちも初心に帰って、祈りの力が最大限発揮されるよう、神さまを覚え、またお互いを覚えて、祈りつつ信仰の歩みをすすめて行きたいと思います。

2019年10月13日 聖霊降臨節第19主日礼拝  笹井健匡牧師

 近年は、残暑が非常に厳しく季節感が麻痺しそうですが、もう10月、本来なら秋たけなわ、の季節です。今日の聖書は仮庵祭の最終日の出来事です。名前の由来は、荒野での40年に及ぶ天幕生活を、仮庵で一週間過ごすことによって想起するという意味があります。これがいわゆる収穫感謝と結びついて、三大巡礼祭になっていました。
 古代の祭りには儀式が多く取り入れられていましたが、特にこの祭りでは、水に関するもの、水注ぎ、水汲み等の儀式が行われていたようです。つまり荒野で渇くことが多かったイスラエルの民が、その時の経験を想起し、神の恵みを再び心に刻むことが一番の目的だったのかも知れません。しかし今で言うボジョレーヌーボーの解禁日ではありませんが、新しいぶどう酒に酔っぱらっている人たちが、祭りの後半には多くなっていたのかも知れません。しかし、そんな人たちだけではなく、イスラエルの現状を憂い、未来を心配していたまともな信心深い人々もいたに違いありません。あの時、神さまが、あの荒れ野での40年を導き守ってくださったように、今の自分たちを顧みてくださいとの祈りをもって祭りに来ていた人たちもいたと思います。
 イエスさまはそんな人々に対して、形骸化してしまった祭りに酔いしれるより、自分の話を聞くように(14節)、まことの神の言葉を聴くようにと教えられていたのだと思います。形式だけになってしまったユダヤ教の中で、懸命に、神に立ち帰るように説教されたのだと思います。そしてイエスを信じたならば、やがてその時(ペンテコステ)が来たら、聖霊がまるで生きた水のように流れ出ると言われたのです。
 人はパンだけで生きるのではない、神の口から出る言葉によって生きる、と言われたように、人は水だけで渇きを癒されるのではない、イエスを信じることによって与えられる聖霊によって、自分自身も全身をうるおされ、そして周りの人々をもうるおして行くのだと言われているように思います。
 お金や、物や、情報が散乱し、気が付けば多くの「ゴミ」の中で、現代の砂漠の中で生きているような私たちに対して、もう一度立ち止まって本当に大切なものは何かを、イエスさまから問われているように思います。
イエスさまから「生きた水」をいただいて、心も魂もうるおされ、日々の歩みを、うるおいある愛をもって、なして行く者でありたいと思います。

2019年10月6日 聖霊降臨節第18主日礼拝 笹井健匡牧師