子どものころ、たくさんの「昔話」を聞きました。おじいさん、おばあさんが登場するものが多いですが、動物もよく登場しました。今では、日常的な関りがあまりなくなった動物も多いです。うさぎが登場するものもありました。因幡の白兎やうさぎとかめ、両方ともうさぎはマイナスのイメージで登場します。
今回、今日の聖書をあらためて読んで見て、どういうわけか、泥船のイメージが浮かび、ああそうだ、かちかち山だと思い出しました。うさぎが仇討ちをしたヒーローのように描かれています。
パウロの忠告(10節)を聞かなかったために、ついに船は難破してしまいます。パウロにも命の危機(42節)が迫りますが、百人隊長ユリウス(1、43節)によって助けられて、それどころか全員の命が助かったのです(22節)。天使のみ告げ(23節)があり、必ずローマに着くことを、信仰を持って確信していたからに他なりません。しかしここには書かれていないパウロの経験があったからこそ、パウロは冷静に落ち着いていられたのかも知れません。
コリント二11:16~33には、パウロの苦難が、これでもか、というほど記されています。中でも25節には、3度の難船と、一昼夜海上に漂ったことが記されています。パウロの時代、地中海の航海は発達していましたが、しかしそれは現代とは違い、遥かに危険な、文字通り命がけのものでした。パウロは何度もその危機を、神さまに救われて、このローマ途上にいるのです。
教会はよく船に例えられますが、ガリラヤ湖上のイエスさまと一緒の弟子たちに自分たちを重ねますが、地中海上のパウロと一緒の方に自分を置くと、それはそれは恐ろしいと思います。しかしこの船には、著者のルカ(1節以下)、それにアリスタルコ(2節)も一緒にいたのです。信仰者が3人集まっていたのです。そこにはイエスさまも一緒におられたのです(マタイ18:20)。
私たちも、人生の歩みの中で、信仰の歩みの中で、今日の聖書のような危機的な状況に出会うこともあるかも知れません。もちろん、船は大事です。物理的な建物としての教会も、とっても大事です。泥船ではすぐ沈んでしまいます。しかし最も大事なものは、その船に乗っている者たちであり、そこに信仰と希望と愛があるなら、イエスさまが共におられるのなら、必ずや皆の者が救われるのです。一緒に生きている、共に船に乗っているすべての者が、全員が無事に、目指すところへたどり着くことができるのです。神さまの導きと救いを信じて、最後までこの世の荒波を共に進み行く者でありたいと思います。
2024年10月6日 聖霊降臨節第21主日礼拝 笹井健匡牧師