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説教題「いやし」 マルコによる福音書1章40~45節

 

今日の聖書には、重い皮膚病の人がイエスさまにいやされたことが記されています。律法では、重い皮膚病にかかった人は汚れているとされ、宿営の外に住まなければなりませんでした(レビ記13章45、46節)。そのような重い皮膚病の人がイエスさまの前にやって来ました。そして、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」と言いました。「御心ならば」を原文にすると「(あなたの)意志であるならば」となります。「清くする」とは「いやす」ということです。イエスさまはこの人のことを深く「憐れまれました」。この「憐れむ」という言葉の語源は「内臓」を意味する言葉であり、日本語でいうなら、「腸がちぎれるほどの思い」を意味しています。そして、この重い皮膚病の人に触れられました。重い皮膚病の人に触れるということは、触れた人もまた汚れるとされていました。しかし、イエスさまは、まずその人に触れた後、「よろしい。清くなれ。」と言われました。この「よろしい。」という言葉もまた「意志」を意味します。「私の意志である。」と訳すことができます。「イエスさまの意志であるならば…」という言葉に対して、「私の意志である。」とイエスさまは応えられたのです。そして、重い皮膚病はたちまちに去り、その人はいやされました。イエスさまはいやされたことを誰にも言ってはいけない、と言われましたが、その人は、イエスさまの前を立ち去ると、自分に起きた出来事を人々に告げ、言い広め始めました。イエスさまが町に入ると大騒ぎになってしまうので、町の外の人のいないところにおられましたが、それでもなお四方からイエスさまのもとへ人々は集まってきたのです。

今日の聖書から「いやし」ということについて考えさせられました。本当の「いやし」というのは、イエスさまと私という一対一の関係というものが存在し、イエスさまへのゆるぎのない信頼とそれに応えてくださるイエスさまの意志というものがなければなされないものであるかもしれません。イエスさまは私たちの思いを越えて、私たちを愛してくださり、必要な「いやし」を与えてくださるのです。その「いやし」の出来事を黙っていなさい、とイエスさまから厳しく言われても、黙っておれない、体も心もいやされ、その喜びを語らずにはいられないものではないかと思います。

水野源三さんという詩人がおられます。水野さんは、9歳の時、病気で全身まひとなり、目と耳の機能以外は失われる状態となり、母が作った五十音表で指された文字のところでまばたきをされ、意思の疎通をはかっていました。牧師の訪問がきっかけで聖書を読まれるようになり、クリスチャンになり、キリスト教信仰に基づく純粋で美しい詩を残されました。水野さんは体のいやしはなされなかったけれども、心のいやしはなされ、救われた喜びを詩という形で表していたのではないかと思います。

私たちもまた主イエスの「いやし」を思い、いやされた経験を、喜びをもって語っていくことができるよう、祈りたいと思います。

2022年1月30日 降誕節第6主日 平島禎子牧師


今日、1月23日は同志社の創立者新島襄の命日です。国禁を犯し、アメリカへと渡った彼が自らの使命としたのは、教育でした。そして文字通り、そのために自らの命を使って人生を駆け抜けました。

イエスさまは伝道を始めるにあたり、繰り返し「幸いである」との祝福の言葉を語られた後、弟子たちにその使命を「地の塩」「世の光」というとても印象的な言葉で教えられました。イエスさま以前にも、多くの人々が民の指導者として活動していた時代でした。洗礼者ヨハネ含め、その多くが荒れ野で活動していました。そういう状況の中から、イエスさまの活動がスタートしたのです。

今日のイエスさまの言葉の背景に、一つの可能性としてクムラン教団があるように思います。彼らも砂漠地帯で活動していました。「塩」の湖として有名な「死海」のほとりです。そして彼らは自らのことを「光の子」と称していました。

そう考えるといろいろ腑に落ちます。

クムランの修道院的な生活は、おそらく天上のことに、つまり死後の世界のことに重点が置かれていったのではないかと思います。それに対して、イエスさまは、「地」を強調されました。今、生きているこの地上の人々にこそ、神の救いが必要ではないのか。そういう意味で、今を生きる人々の、日常にこそ働きかけるのが大事なのだ、あなたがたは天の塩ではなく、地の塩となれ、というふうに。

そして神さまの光、救いの光は、あの世ではなく、この世でこそ、輝かされなければ意味がない、神さまからいただいた光をかくしてしまうのではなく、町の人々の前に輝かせることこそ、あなたたちの使命だと。

イエスさまの福音は、大事なものとして、穴をほって隠してしまうようなものではなく、その光がすべての人々を照らすように、今を生きる人々の、「生」の真っただ中に置かれるものなのです。人々の日々の営みの中に、光り輝くのが、イエスさまの福音なのです。

ここにいる私たちも、イエスさまからこの使命を与えられた者です。どんなにへたくそでも、不器用であっても、イエスさまについて歩んで行くなら、いつの日か、ほんの少しでも、イエスさまからいただいた光を放つことができるようになるのではないかと思います。そのことを信じて、また祈りながら生きて行く者でありたいと思います。

 

2022年1月23日 降誕節第5主日礼拝 笹井健匡牧師


「召命」とは、神から召されて聖職者になることを意味していましたが、宗教改革者たちによって、神さまから召されて与えられた職業をなすことも「召命」であると言われて、今日に至っています。「召命」のドイツ語はBerufという言葉で、「職業」という意味があります。英語では、Callingという言葉で「呼ばれること」という意味があります。「召命」とは、神から「呼びだされて」、ある「職業」につくことを意味しているのです。

エレミヤは「召命」を受けた時に、神さまから「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」(5節)とエレミヤに語られました。これはエレミヤだけに言われる言葉でしょうか。私たちもまた、生まれる前から神さまに知られ、それぞれの天職というものを備えられているのではないでしょうか。しかし、エレミヤはそのような神さまの言葉をすぐに受け入れることができませんでした。「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」と言って拒絶します。あの出エジプトの偉大な指導者であったモーセも、神から「召命」を受けた時、「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。…」(出エジプト4・10) と言って、拒もうとしました。神さまの召しは不思議なもので、この世的に考えると、弁が立ち、行動力のあるリーダー的な人ではないような人物を選ばれるのです。しかし、召された人たちは、その時不安になり、時に困難に遭い、このような役目は嫌だと時には思いつつも、その職務を全うしていくのです。

神さまは、「わたしがあなたを、だれのところへ 遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ。」(7節)と言われます。預言者の職務とは「神の言葉」を人々に語ることです。それは、心地のよいものではないことも多かったと思います。「神の言葉」を受け入れようとしない人々が大半でありました。神の言葉を語るということは、どれほど大変なことであったか、ひいては命に関わることでありました。しかし、神さまはエレミヤを鼓舞するように言われます。「彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて 必ず救い出す」(8節)と言われたのです。神さまは人を選び、遣わされるのです。その時、人は一人ではなく、神さまと共に、神の業をなしていくのです。神さまは私たちと共におられ、必ず救い出してくださるのです。

「召命」というのは、人間の都合で受けたり、断ったりするものではありません。神さまに呼ばれた(Calling)ならば、人はためらいや拒絶を持ったとしても逃れられないのです。そして、神さまはその人自身の弱さをも見られ、私が共にいてあなたを救いだす、と言われ、その人に与えられた職務につかせられるのです。

私たち一人一人「召命」を受け、神さまの言葉に従い、共にいてくださる神さまに助けられ、それぞれに与えられた職務を全うできるよう、祈る者でありたいと思います。

2022年1月16日 降誕節第4主日 平島禎子牧師


追記:現代の世界において、日本においても、職がなく苦しんでいる人たちも大勢います。それらの人たちにも天職は与えられているはずです。しかし、コロナ禍もそうですが、それを阻むものが存在するが故に、職を失する人が増えているのだと思います。また、そのような状況に対応していくのが国の務めであろうと思いますが、政治が本当に困っている人たちのところへ手が届いているのか、届いていないではないか、とう現実があります。そのような人たちのために自分に与えられた職務として活動している人たちもいます。私たちも小さなところからでいいので、できることをなしていく者でありたいと思います。


 毎年、この降誕節の時、イエスさまの生涯に思いを馳せながら歩みます。今年は3月2日が灰の水曜日なので、約2カ月、降誕節が続きます。

 今年の最初に示されたのは、なぜか悪魔の誘惑でした。イエスさまは洗礼を受けられた後、伝道を始められる前に、40日にも及ぶ、荒れ野での誘惑を受けられました。

 今日の聖書は、3つ目の誘惑のところです。1つ目はみ言葉によって生きる、2つ目は神を試すことなく生きるという答えによって、悪魔の誘惑を退けられました。そこで悪魔は最後の、そして最強の誘惑を持ち出します。

 この3つ目の誘惑は、第一義的には、悪魔を拝むことを拒否し、神を拝み、神に仕えて生きることを宣言されたことに意味があります。しかしここには悪魔のしたたかな、下心があるように思います。

 イエスさまは、これから人々に福音を宣べ伝えて行こうとされていたのです。その効率を考えるなら、すべてをわがものとし、それから福音を伝えるのが楽だと思えます。悪魔はするどいところをついているのだと思います。すべてを支配し、言うことを聞かせる、というのは王や、権力者のやり方です。全世界の頂に立たせて、ほらこれらを全部あげるよ、と悪魔はささやいたのです。お前は一番偉いのだから、すべての人を支配し、その頂上から教えればいいんだ、効率よく教えることができるぞ、と言う感じでしょうか。

 しかしイエスさまが選ばれたのは、それまでのリーダーたちとは全く違う方法でした。馬小屋に生まれられ、大工として生きて来られたイエスさまは、その社会の最も低きところから、言わば、下から上を照らすようなかたちで、福音宣教の業をなして行かれました。それこそが神さまのみ旨であり、導きであることを固く信じ、最後は十字架への道を歩まれたのです。

 ここに真の救いがあります。イエスさまは悪魔の最強の誘惑に打ち勝たれ、おそらくは、その後も、折を見て誘惑してくる悪魔に打ち勝たれながら、主の備えられた道を最後まで歩み抜かれたのです。

 私たちも、それぞれ大なり小なり、苦しみや悲しみを抱え、そこから来る様々な誘惑に直面しながらも、懸命に生きている存在です。すべての誘惑に勝利された主イエスに従って、私たちもこれからどんなことが起きようとも、しっかりと主に結ばれて誘惑に打ち勝つ歩みをすすめて行きたいと思います。

 

2022年1月9日 降誕節第3主日礼拝 笹井健匡牧師


 2022年、新年あけましておめでとうございます。

 12月から大変寒い日が続いています。しかし、夜明け前が一番暗いように、この厳しい冬の先には、暖かい、うららかな、新しい春が待っていることを信じたいと思います。コロナ禍も3年目に入りました。今年こそは、いろいろなことが解決し、安心して暮らせるようになることを、信じて祈りたいと思います。

 教会歴では、1月6日、公現日までがクリスマス週間です。そういう意味では、私たち信仰者はクリスマスの光の中で、新しい年、2022年を迎えました。この年も聖霊に導かれ、イエスさまに従って歩んで行きたいと思います。

 公現日の主役は占星術の学者、いわゆる博士たちです。ルカが誕生告知の物語の主役を羊飼いたちにしたのと対照的です。マタイは、より広い世界に、救い主イエス・キリストの誕生を位置づけようとしているのかも知れません。

 東方からはるばるやって来た博士たちは、エルサレムのヘロデのところにやって来ました。新しく誕生したユダヤ人の王を拝みに来たのだから、当然と言えば当然です。ユダヤの中心エルサレム、現在の王であるヘロデ、当然そこに新しく誕生した王もいると考えました。しかしベツレヘムというおそらく見知らぬ小さな町を示されたのです。最終的に、博士たちは星の導きによって目的を達成することができたのでした。

 帰途に就く時、博士たちは夢のお告げによって、来た道、エルサレム方面とは違う、別の道を行くことになりました。「ヘロデのところへ帰るな」というお告げは、文字通りの意味を越えて、深いものを感じます。幼子イエスに会いまみえたことによって、それまでの常識、価値観が打ち砕かれ、新しい心で、新しい道を歩む者へと変えられたのではないかと思うのです。

 知らない土地で、知らない町へと行かねばならなくなった博士たち、それは大変な災難でした。しかしそこでイエスさまに出会えたことによって、人生が大きく変えられたのではないかと思います。

 阪神淡路大震災の時、ボランティア元年という言葉が誕生しました。すべての苦しみは本来産みの苦しみだと私は思います。このコロナ禍で、最悪の困難の中で、主イエスをお迎えした私たちは、博士たちと同じように、それまでとは違う、新しい道を歩む者へと変えられ、主イエスをしっかりと見つめながら、新しい歌を歌い、新しい心で、新しい歩みに踏み出して行く者でありたいと思います。

 

      2022年1月2日 新年礼拝(降誕節第2主日礼拝) 笹井健匡牧師