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「光を放つ」 マタイによる福音書5章13~16節

今日、1月23日は同志社の創立者新島襄の命日です。国禁を犯し、アメリカへと渡った彼が自らの使命としたのは、教育でした。そして文字通り、そのために自らの命を使って人生を駆け抜けました。

イエスさまは伝道を始めるにあたり、繰り返し「幸いである」との祝福の言葉を語られた後、弟子たちにその使命を「地の塩」「世の光」というとても印象的な言葉で教えられました。イエスさま以前にも、多くの人々が民の指導者として活動していた時代でした。洗礼者ヨハネ含め、その多くが荒れ野で活動していました。そういう状況の中から、イエスさまの活動がスタートしたのです。

今日のイエスさまの言葉の背景に、一つの可能性としてクムラン教団があるように思います。彼らも砂漠地帯で活動していました。「塩」の湖として有名な「死海」のほとりです。そして彼らは自らのことを「光の子」と称していました。

そう考えるといろいろ腑に落ちます。

クムランの修道院的な生活は、おそらく天上のことに、つまり死後の世界のことに重点が置かれていったのではないかと思います。それに対して、イエスさまは、「地」を強調されました。今、生きているこの地上の人々にこそ、神の救いが必要ではないのか。そういう意味で、今を生きる人々の、日常にこそ働きかけるのが大事なのだ、あなたがたは天の塩ではなく、地の塩となれ、というふうに。

そして神さまの光、救いの光は、あの世ではなく、この世でこそ、輝かされなければ意味がない、神さまからいただいた光をかくしてしまうのではなく、町の人々の前に輝かせることこそ、あなたたちの使命だと。

イエスさまの福音は、大事なものとして、穴をほって隠してしまうようなものではなく、その光がすべての人々を照らすように、今を生きる人々の、「生」の真っただ中に置かれるものなのです。人々の日々の営みの中に、光り輝くのが、イエスさまの福音なのです。

ここにいる私たちも、イエスさまからこの使命を与えられた者です。どんなにへたくそでも、不器用であっても、イエスさまについて歩んで行くなら、いつの日か、ほんの少しでも、イエスさまからいただいた光を放つことができるようになるのではないかと思います。そのことを信じて、また祈りながら生きて行く者でありたいと思います。

 

2022年1月23日 降誕節第5主日礼拝 笹井健匡牧師


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