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ヨナはニネベに行くようにと言われた神さまの言葉から逃げ、タルシシュ行きの船に乗りました。そして、海が荒れた時も神さまに祈るということをしませんでした。くじで海が荒れた原因がヨナにあることがわかり、ヨナは自分で言いだして、海へ投げ込まれます。そして、ヨナは大きな魚に呑み込まれます。ヨナはそのような苦難の中にあって、神さまに祈りを捧げました。ヨナは死を覚悟するくらいのどん底にいました。しかし、そこから跳ね上がることができたのです。7節の後半から、主に対する感謝の言葉が記されています。ヨナは神さまが命を引き上げてくださり、ヨナが息絶えようとする時、主の御名を唱えると、祈りが神さまに届いたというのです。ヨナの中心の深いところにあったもの、動かそうとしても動かせないものがあった、それは神への信仰であったと思います。ヨナは苦しみのどん底で祈り、迷いながらも、神に立ち帰ったのだと思います。ヨナは神さまから再び新しい生命を贈られました。そして、再び神さまと共にいることの喜びの中で感謝の声をあげたのです。そして、ニネベの町へ行き、「町の滅亡」を人々に告げるということを果たそうというのです。ヨナの叫びを聞き、ニネベの人たちは悔い改めました。神さまは悔い改めたニネベの町を滅ぼすことをやめられました。ヨナはそのことに不満を持ち、神さまに文句をいいますが、最後には神さまから諭されたというところでこの物語は終わっています。

ヨナはとても人間的な人だと思います。しかし、「ヨナの祈り」は、祈りの大切さを教えてくれているのではないでしょうか。7節の前半と後半の間には、絶望から感謝への跳躍が記されています。ローマの信徒への手紙7章24節、25節には、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体からだれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」と記されています。24節と25節に記されています。24節の絶望から25節の感謝へと何の言葉もなく跳躍しているのです。ヨナの祈りの7節の前半と後半の間もまた、言葉もない跳躍がなされているのです。自分は苦しみの中にいる、と深い苦しみの中にあって、神の救いの光を見出し、苦しみから、必ず自分を救ってくださる感謝の気持ちへと跳躍しているのだと

思います。このような祈りをなせる人、このような経験をできる人は幸せだと思います。

私たちも人間的な弱さや罪を持つ存在です。時として、死ぬほどつらい出来事を経験するかもしれません。その時こそ、とても人間的である「ヨナの祈り」に倣って祈ることが大切ではないかと思います。ヨナは救われた後、神さまからの使命を果たすも、自分が言ったとおりにはならなかったことで、不満を持ち、文句を言います。ヨナが、そのような人間だからこそ、ヨナのなした祈りというのは、私たちにとって、実は身近なものであるのかもしれません。「ヨナの祈り」を大切なものとして受けとめ、3月2日の灰の水曜日より始まるレントの時に備える者でありたいと思います。

2022年2月27日 降誕節第10主日 平島禎子牧師


「探しものは何ですか。」という流行歌のフレーズがあります。政治の季節の終わりを象徴した「あさま山荘事件」の翌年に流行りました。戦後日本は、新しい道、生き方を求めて、それなりに「熱く」歩んでいたのだと思います。そして「夢の中へ」(良い夢か悪い夢かは分かりません)とすすんで行きました。人々はいつも「何か」を探していたのかも知れません。

教会学校の教師をしていた頃、よく話していたのは、結局「自分探し」だったのかも知れません。もちろん、イエスさまについて話す訳ですが、その中に、それで、みんなはどう生きますか。何を探して生きて行きますか。そのような問いを発しながら話していたように思います。自己実現とか、なぜ生きるのかとか、自分とは何者かとか、そういうことがテーマでした。若い頃の、特権だったのかも知れません。人間の生にとっては「探しもの」はなくてはならないものなのかも知れません。

今日の聖書にも、「探しなさい。そうすれば、見つかる。」と記されています。最後のまとめにあるように、ユダヤ人たちは律法と預言者を尊重し、そしてそこにこそ、神、真実、永遠の命等の答えがあるとして、研究していました。それは言わば「宝さがし」でした。

イエスさまは他のところで、旧約の中心は、神への愛と隣人への愛だと教えられています。12節の言葉は隣人愛を平易に表現したものです。旧約時代には、「人からされて嫌なことは人に対してもするな。」と言われていました。マタイはそれを前向きに言い換えたのです。積極的にどんどん良いことをしなさいと。

パウロはさらにすすめて、コリント一10:24では「自分の利益ではなく、他人の利益を追い求めなさい。」と言っています。実は、この聖句は口語訳ですが、私が洗礼を受けたときにいただいた聖書に書かれていた聖句です。自己中なわたしにとって、信仰生活の目標、道しるべとなりました。少しずつ、他者の事を考え、思うことができるように導かれて来ました。

みなさんもそれぞれの人生において、いろいろなものを探して生きて来られたのではないかと思います。クリスチャンである私たちは、イエスさまを見つけました。私たちが見つけた「探しもの」は、見つけて終わり、ではなく、そこから共なる歩みがスタートして行く、共に生きる、「宝」です。そのイエスさまと一緒に、これからも新しい何かを探して、歩みをすすめて行きたいと思います。

 

2022年2月20日 降誕節第9主日礼拝 笹井健匡牧師


 今日の聖書は18章1節から始まるひとかたまりの結びの部分です。「正しい人の正しさとはその人だけのものであり、悪人の悪はその人だけのものだけである。」と20節に記されています。現状をいたずらに嘆き、不幸を神さまや親、子のせいにすることは間違っており、自分に責任があるのだと自覚することが大切であろうと思います。神さまは因果応報の神ではなく、一人一人の責任を問われる方なのです。

 30節の冒頭に「イスラエルの家よ、わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く」と記されています。神さまはイスラエルの民に呼びかけておられますが、集団としてこうしなさい、というのではなく、その民を構成しているひとりひとりの生き方を問われているのです。神さまは民ひとりひとりに「悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。」と言われています。バビロン捕囚の民となったことを、先祖の罪のせいであると嘆いていた民ひとりひとりが、それぞれの今の状況を顧み、そこに自分の罪を見出し、神さまに立ち帰る必要があったのです。そして「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。」と神さまは言われます。人が自らの人生を真剣に顧み、自らの過ちを知り、悔い改めをなし、神さまへ立ち帰るという意志を持ち、そしてそこに神さまの働きかけがなされ、その神さまの力が働いて、その神の力によって人間の内面が変革されるのです。そしてその時に「新しい心、新しい霊」が造り出されるのです。31節後半から32節には「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って生きよ。」と記されています。誰ひとりとして滅びること、死ぬことを神さまは喜ばれない方です。人間が神さまに立ち帰って、神さまの創造された本来の人間として生きることを望まれる方なのです。

 私は2・11平和集会に参加をし、「ミャンマーの現状とわたしたち」と題した、渡邊さゆり先生(アトゥトゥミャンマー共同代表・牧師)のお話を聴きました。昨年の2月1日にミャンマーで軍事クーデターが起き、軍がミャンマーの政治を牛耳っている現状の中で、否を唱える人たちがCDM(市民不服従運動)を行なっています。しかし、そのような人たちを軍部は、捉えたり、拷問にかけたり、殺したりしています。日本ではそのミャンマーを覚えて、毎週金曜日に祈り会を行なっています。私も11日に初めて参加したのですが、祈りの力というものを感じ、これら各人の祈りは必ずきかれると思わされました。私も「新しい心」をもって、与えられた出会いを大切にして、自分にできることをなしていきたいと思います。

 「新しい心と新しい霊を造り出せ。」という神さまの言葉を聞き、古き自分にとらわれることなく、悔い改めるべきことは悔い改め、前のものに全身を向けて(フィリピ3章13、14節)いく、「新しい心」を日々造り出していく、そのような者となれるよう、祈る者でありたいと思います。

                      2022年2月13日 降誕節第8主日 平島禎子牧師


戦争や災害の時、直接的な苦しみは、もちろん非常に大変です。しかし実は、より深刻なのは、心の被災です。恐怖や不安に長期間苛まれると、次第に私たちはその心の健康を害して行きます。そんな中、祈り、特に近しい関係にある人々の祈りは、大きな力を発揮します。ヤコブの手紙の最後には、そんな祈りの力が雄弁に書かれています(ヤコブ5:13~16)。

今日の聖書は有名な「主の祈り」のところです。「祈り」というと「行い」と対比して考えがちですが、もともとユダヤ教では「祈り」は行為でした。6章の1節から18節は一塊になっていて、「施し」「祈り」「断食」という3つの善行を記しています。もともと偽善者という表現がされている「ファリサイ派」の人々が念頭に置かれています。そこに7~15節の「主の祈り」に関する教えが挿入されているのです。相手も偽善者から異邦人に代わっています。9~13節の『』の部分が主の祈りの原型です。非常にシンプルです。出だしは当時礼拝の終わりにアラム語で祈られていた「カディシュ」の祈りからとられているそうです。それに食べ物と「赦し」に関することが加えられています。

つまり、祈るときは、隠れて(人知れず)、そして端的に短く祈れ、とイエスさまは言われているのです。そして教えられた祈りの中心は、14・15節にもあるように、「赦し」についてであると思います。5章の終わりには「愛敵」の教えがあります。敵を愛するには、まず、その敵を赦すことが必要だからです。赦すことができて、はじめて心から愛することができるのです。

不安や恐れが長く続くと、人は疑心暗鬼になったり、不要な意見の対立を起こしたりしがちです。そうなると、祈り自体も、閉鎖的になったり、自己目的的になったりします。しかしそれでは、そんな祈りでは、その本来の力を発揮することができません。大変な時だからこそ、自分だけではなく、他の人々も大変であることをしっかりと思いましょう。

他者を赦し、そして愛をもって祈る者となりたいと思います。イエスさまも私たちのことを覚えて祈って下さっています。愛に満ちた祈りが集められて行く時、愛の波は非常に大きな祈りの力となって、この地に、私たちに救いをもたらすことができるのではないかと思います。

主が教えて下さった祈りの力を信じて、心を高く上げ、共に助け合いながら、この時を歩んで行く者でありたいと思います。

 

2022年2月6日 降誕節第7主日礼拝 笹井健匡牧師