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「新しい心」 エゼキエル書18章30~32節

 今日の聖書は18章1節から始まるひとかたまりの結びの部分です。「正しい人の正しさとはその人だけのものであり、悪人の悪はその人だけのものだけである。」と20節に記されています。現状をいたずらに嘆き、不幸を神さまや親、子のせいにすることは間違っており、自分に責任があるのだと自覚することが大切であろうと思います。神さまは因果応報の神ではなく、一人一人の責任を問われる方なのです。

 30節の冒頭に「イスラエルの家よ、わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く」と記されています。神さまはイスラエルの民に呼びかけておられますが、集団としてこうしなさい、というのではなく、その民を構成しているひとりひとりの生き方を問われているのです。神さまは民ひとりひとりに「悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。」と言われています。バビロン捕囚の民となったことを、先祖の罪のせいであると嘆いていた民ひとりひとりが、それぞれの今の状況を顧み、そこに自分の罪を見出し、神さまに立ち帰る必要があったのです。そして「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。」と神さまは言われます。人が自らの人生を真剣に顧み、自らの過ちを知り、悔い改めをなし、神さまへ立ち帰るという意志を持ち、そしてそこに神さまの働きかけがなされ、その神さまの力が働いて、その神の力によって人間の内面が変革されるのです。そしてその時に「新しい心、新しい霊」が造り出されるのです。31節後半から32節には「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って生きよ。」と記されています。誰ひとりとして滅びること、死ぬことを神さまは喜ばれない方です。人間が神さまに立ち帰って、神さまの創造された本来の人間として生きることを望まれる方なのです。

 私は2・11平和集会に参加をし、「ミャンマーの現状とわたしたち」と題した、渡邊さゆり先生(アトゥトゥミャンマー共同代表・牧師)のお話を聴きました。昨年の2月1日にミャンマーで軍事クーデターが起き、軍がミャンマーの政治を牛耳っている現状の中で、否を唱える人たちがCDM(市民不服従運動)を行なっています。しかし、そのような人たちを軍部は、捉えたり、拷問にかけたり、殺したりしています。日本ではそのミャンマーを覚えて、毎週金曜日に祈り会を行なっています。私も11日に初めて参加したのですが、祈りの力というものを感じ、これら各人の祈りは必ずきかれると思わされました。私も「新しい心」をもって、与えられた出会いを大切にして、自分にできることをなしていきたいと思います。

 「新しい心と新しい霊を造り出せ。」という神さまの言葉を聞き、古き自分にとらわれることなく、悔い改めるべきことは悔い改め、前のものに全身を向けて(フィリピ3章13、14節)いく、「新しい心」を日々造り出していく、そのような者となれるよう、祈る者でありたいと思います。

                      2022年2月13日 降誕節第8主日 平島禎子牧師


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