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説教題 「 偽 善 」      聖書:マタイによる福音書6章1~4節

 信仰に基づいて善行をしていくときには、ひとつ大きな注意点があります。それは、「偽善」です。
 私たちは、幼い時から、親、大人にほめられようとして、「善い事」をします。周囲の大人たちも、「よしよし〇〇ちゃんはいい子だね」と褒めてくれます。子どもの頃はそれでいいのかも知れません。しかし大人になると「真の善行」と「偽の善行」を峻別しないといけないのかも知れません。
 信仰生活をしていても、ときどき「自分の前でラッパを吹き鳴ら」す人に、残念ながら出会うことがあります。しかもそのラッパは目にも見えず、音も耳にも聞こえないように、知らない間に、巧妙に「善行」をアピールしているのです。今日の聖書よりも、たちが悪いかも知れません。
 イエスさまは、「右の手のすることを左の手に知らせ」るな、という非常にシンボリックというか、印象的な表現で、偽善を批判されます。「右手」と「左手」は確かに違う「手」ですので、Aの善行をBに知らせるな、ともとれる言葉です。しかしよくよく考えてみると、右手と左手は、体を通してつながっているので、何もしなければ、つまり自然にしていれば、右手の善行は左手に伝わってしまうのです。イエスさまは「知らせ」ないように、と言われます。
 昔は相撲が好きでよく見ていたのですが、勝利者インタビューでよく聞かれたのは「体が勝手に動いていた」という言葉でした。意識しなくても、自然に体が動く、まさに練習の賜物です。
 私たちが偽善をしなくなるとき、克服することができるとき、それは意識しなくても自然に善行をしてしまうようになったときなのかも知れません。相当な訓練が必要かも知れません。
 現代は、詐欺やカルトが横行している時代です。しかしもしかしたら、もっと大きな「だまし」、大偽善がこれから私たちを襲うかも知れません。そんなとき、真の善行はどんなものか、偽善ではないか、そのことを今日の聖書に記されているイエスさまの言葉から峻別するものでありたいと思います。そして最終的には、分からないとき、神さまに祈り、神さまから答を与えられて、偽善の方ではなく、善の方へ歩みを進めて行く者でありたいと思います。

2019年8月18日 聖霊降臨節第11主日礼拝 笹井健匡牧師

 先週の平和聖日でお話しましたが、イエスさまの福音の中心の一つには、5章9節の「平和を実現する」というメッセージが含まれているように思います。そして山上の説教でいくつかその方法に触れておられます。今日の聖書の直前の「復讐してはならない」もその一つです。そして今日の聖書ではさらにすすめて「敵を愛しなさい」と言われるのです。
 今日は43節、44節に注目したいと思います。『』に入っていますと、旧約の聖句の引用のように錯覚してしまいますが、『隣人を愛し、敵を憎め』という聖句は存在しません。おそらく人々の言い伝えの中に、そのようなものが存在していたのだろうと思われます。旧約聖書(聖句)では、むしろ敵にも親切にしなさいと教えらえています。
 しかし新しいのは、敵を愛し、迫害者のために祈れ、という教えです。古代社会においては「敵」「味方」がある意味はっきりしていました。「隣人」というのは同じイスラエルの民、つまり同胞を指す言葉です。しかし現代社会においてはだれが味方でだれが敵かということが大きく揺らいでいるように思います。
 「思春期」という言葉があります。大人になって若い日々のことを振り返ると甘酸っぱい思いや、ほろ苦い思いとともに「ああ、あのころは思春期だったなあ」と振り返ったりします。私のイメージとしては大きな木にたくさんの「さなぎ」がぶらさがっている感じです。自分の殻に閉じこもり、自分らしさを磨いている時期と言えるのかも知れません。しかし多くの場合は、同じような経験をしている仲間が、隣にいるのです。そして時にはその存在が大きな励ましになります。しかし、他から完全に孤立し、自分だけが、苦い、苦しい思いをしていると思ってしまう「さなぎ」があります。最近の無差別殺人等に見られるのは、自分以外は全員「敵」だという感覚です。そこには「隣人」「味方」「仲間」という存在が感じられません。
 敵を愛するには、まず隣人を愛することが必要です。そしてその愛する隣人が多くなればなるほど、敵を愛することもできやすくなるのかも知れません。
 イエスさまも教えられたように、自分を愛し、隣人を愛し、そして敵を愛して行くのが私たちの人生、特に信仰者としての人生かも知れません。その意味で、この「愛敵」という言葉は特別な意味を持っているのかも知れません。憎しみの連鎖を断ち切り、愛することこそ、愛し合うことこそ、最終的に平和を実現し、諸問題を解決する道であることを信じて歩んで行きたいと思います。

2019年8月11日 聖霊降臨節第10主日礼拝 笹井健匡牧師

 今日は平和聖日です。いわゆる「戦責告白」が出されて、半世紀以上が過ぎました。「告白」にはすでに私たちの国が再び憂慮する方向へ、つまり戦争への道を歩み始めていることが記されています。多くの人々の努力と祈りにより、今日まで戦争しなかったことを、いやできなかった、させなかったことをとりあえずは喜びたいと思います。しかしその陰で多くの世界の戦争に在日米軍の基地、特に沖縄の基地が使用されて来ました。そしてその戦争から来る特需の恩恵を受けて経済発展して来たのも事実です。今も多くの武器を製造し、輸出しています。
 いろいろ暗い部分はあるのですが、それでもとにかく戦争だけは直接して来なかったのです。そこには「あきらめない」、つまり平和をあきらめない、という強い思いがあったのだと思います。戦争だけはもうこりごりだと。しかし世代が変わるとそこもあやうくなっているように思います。
 歴史を見ると、権力者、支配者は、なんだかんだと屁理屈をつけては戦争をし、その利益を得ようとしています。大きな流れが出来上がってしまうと、もはやだれにも止めることはできないのかも知れません。しかし戦争の芽、つまり悪の芽は小さいうちなら私たちにも摘むことができるかも知れません。
 今日の聖書でイエスさまは、8節までは、貧しくとも神を信じ、誠実に生きている人々に対する愛にあふれた言葉を繰り返されているように思います。しかし、9節の平和の実現からは、この世から迫害される厳しい信仰者の生を語られているように思えます。つまり9節の平和の実現と、10節以下の「迫害」は切り離せない、ということです。イエスさまは預言者たちを中心とした、この世に真の平和をもたらそうとして、そのために苦しい人生を送った先達たちに思いを馳せられながら、やがてご自身もその荊の道を歩むことを思っておられたのかも知れません。
 これから私たちの国が戦争への道を歩んで行くとき、わたしたちは指をくわえて見ているのでしょうか。声を上げることができなくても、祈ることだけはできます。そして平和をあきらめない祈りを続けて行くことが、唯一できることであり、それこそが最終的に平和を実現して行くのかも知れません。不透明なこの時代を救い主イエス・キリストをしっかりと見つめながら、平和への祈りを熱くしていく者でありたいと思います。

2019年8月4日 平和聖日(聖霊降臨節第9主日)礼拝 笹井健匡牧師

 若い日の私にとって最も重要だったのは、「真理とは何か」ということでした。そしてそれは当然のことながら、「自分にとって」の真理ということでした。ですから、教会に行き始めてからの私にとって、教会とは、自分の、自分による、自分のための教会でした。そこで自分が満足を得られることをのみ考えていたのだと思います。しかし初めにすることになったのは、ボランティアでした。人生で初めての経験でした。見よう見まねに、今から思うと恥ずかしい限りですが、他者のために何かするとはこういうことなのだと教えられたように思います。
 背景には、礼拝におけるメッセージがありました。よく聞いたのは、自分中心の生き方から、神中心の生き方へと変えられる、という話でした。自分のことばかり考えていた私にとってはまさにコペルニクス的転換でした。自分が中心にいて、その周りを太陽はじめ多くのものが回っている、と思っていたのですが、神が中心にいて、その周りを自分が、回っていると知らされたのです。
 私たちはふだん自分のことを考え、自分のペースで日常を歩んでいます。なかなか他者のことを考えることはできません。まして他人の利益なんて、まったく考えない存在です。どうしたら自分にとっていい結果になるか、自分の利益になるか、そんなことばかりで日を過ごしています。
 神を中心として生きることによって、他者を中心として生きることができるようになる、他人の利益を考えて生きることができるようになる、ということを教会でたたき込まれたように思います。
 23節には「すべてのことが許されている。」と2回繰り返されています。私たちはイエスさまに救われた者として、真の自由を与えられました。しかしその自由をどう用いるかで、その後の自分の歩みは大きく変わって行きます。救われた私たちは、救ってくださった方が喜ばれる生き方をしたいものです。
 日々の喧騒から離れて一人静かに祈るとき、神さまの小さな声を聞くことができるかも知れません。また聖書を読んで、今日の個所もまさにそうですが、いつの間にか自分中心になっていた在り方を軌道修正され、もう一度、神さまを中心とし直す、そこから何か示されるかも知れません。
 いずれにしても、すべてを許された者として、自らすすんで他人の利益を追い求める生き方を、まず神さまによって同じ教会に集められた信仰の友に対して、そこから他の教会、そして様々な苦しみの中にある人々に対して、その利益を追い求めて行く生き方ができるように、成長させられて行きたいと思います。

2019年7月28日 聖霊降臨節第8主日礼拝 笹井健匡牧師

 人生は選択の連続です。何年か前「選タクシー」というドラマが放送されていました。過去に戻って大事な選択をやり直すことができるタクシーの話だったように思います。現実は過去を変えることはできません。今日は参議院選挙の投票日ですが、選挙、というのもひとつの選択です。
 選択にはいろいろありますが、それぞれの人にとって、究極の選択とも言える選択があると思います。
 今日の聖書は、イエスさまのいわゆる「山上の説教」の、頂点に位置する聖句だと思います。救いを求めてイエスさまのところへとやって来た多くの人々に対してイエスさまが言われた究極の選択、それは「神と富」でした。
 最近日本では、格差社会という言葉を越えて、ついに階級社会という言葉が言われるようになりました。ひとりの社会学者が面白いことを言っています。大都会に林立するタワーマンション、あれは中流階級から落ちこぼれたくない、中流にしがみついている人々の心の象徴だと。屈折した、現代版バベルの塔かも知れません。
 イエスさまは讃美歌280番にあるとおり、「貧しきうれい、生くるなやみ」をつぶさになめて生きて来られました。ですから「富」の大切さ、力をいやというほど体験してこられた方です。しかし「富」は所詮手段でしかありません。決して目的にしてはいけないのです。ましてや「仕える」つまりすべてをささげるようになっては、最も大切な命を失ってしまいます。(ルカ12:13~21)
 九州の宮田教会時代、ある牧師を特伝に呼びました。そのメッセージは「愛か金か」という内容でした。結論としてその牧師は両方大事だと言いました。そしてそれから先はお一人お一人考えて下さいと。私は若かったせいもあり、当然愛やろ、と批判的に聞きましたが、しかしその方の生い立ち、まさに貧しさをつぶさになめながら生きて来られた経験からの言葉に、人生が違うと、聖書のとらえ方もこうまでかわるものだと考えさせられたものです。
キリスト教では、神を第1とし、その神を愛することをあたり前のように説きますが、それは口で言うほど、簡単で、単純なものではありません。しかしそれでもイエスさまは「富」ではなく「神」に仕えるように、貧しい人々に教えられたのです。究極の選択として、神を選び取り、その神に仕える者として、どう生きるのか、何を選択していくのか、を考えて行く者でありたいと思います。

2019年7月21日 聖霊降臨節第7主日礼拝 笹井健匡牧師

 昨年の明日、15日10時21分に、故三宅八重子姉は召天されました。日曜日の礼拝が始まる直前の時間でした。八重子姉の思い出はいろいろありますが、正直、訪問時間が長くしんどいこともありましたが、それでも八重子姉の言葉からは信仰があふれんばかりに湧き出ていました。召天日の7月15日、というのも私にとっても忘れられない日となりました。…。
 17歳の私が、自分なりにたどり着いた「境地」は、「真理」には人間の力では到達できない、というものでした。「向こう」からやってくる、人間はそれを待つのみ、かすかに心で感じることができる、というものでした。実際友人が誘ってくれたので教会に行くことができ、今日につながっています。
 はじめのころは純粋な信仰で、何の疑問もなく、幸せな日々が続きました。しかし献身することになり、神学部で学び、その後、はじめて地方の大教会で過ごした私は、信仰とは?と考え、思う日が増えたように思います。
 それでもそんな私の信仰を支えてくれたのは、少数の信仰熱き人々でした。神さまは信仰の弱い私を支えるため、多くの信仰の友を与えて下さいました。だいたい牧師というのは一番信仰が弱く、それゆえ、この世では信仰者として生きられないからこそ、神さまが教会で働くようにしてくださる存在だと思います。
 見えないものを信じる、というのは口で言うほど簡単ではありません。だからこそ、目に見える存在として信仰の友が与えられているのだと思います。実際には逆説的ですが、見える姉妹兄弟を愛して行くことにより、神を愛することができるようになり、そして神を信じることが、つまり目に見えない存在を信じることができるようになるのだと私は思います。
 私にとっては、最晩年ではありましたが、三宅八重子姉にお会いできたことは幸せなことでした。人生の荒波を、信仰をもって乗り越えられて来た、その鍛え上げられた信仰はまさに「筋肉は裏切らない」ように「信仰は裏切らない」ということを体現されていました。そして私にとって、信仰とは、目の前にいる人を愛して行くことであることをあらためて姉妹から教えられたように思います。
 天国で再会したときに、その後いろんな歩みをしましたが、特に三宅八重子姉の召天から1年、いろいろなことがありましたが、その都度、三宅さんの信仰を想い起し、何とか乗り越えて行くことができました。ありがとうございました。と心から喜んで報告したいと思います。

2019年7月14日 聖霊降臨節第6主日礼拝 笹井健匡牧師

 西日本豪雨から1年が経ちました。今もなお、大きな悲しみの中にある人たち、また懸命に前を向いてすすんで行こうとしている人たちに心を寄せて、今日の礼拝をささげたいと思います。
 今日の聖書を記した著者は、おそらくイザヤ書65章17節以下を思い浮かべていたと思われます。それはバビロン捕囚から帰って来たイスラエルの主だった人々が、エルサレムに残っていた人々、サマリア人たちとたたかいながら、自らの精神的支柱としての神殿再建に取り掛かり、見事第2神殿を完成させ、そしてメシア王国が到来するのをひたすら待ったときの預言です。しかしそれは実現しませんでした。そんな、歓喜から失望へと落とされたイスラエルの民に、新しい希望を語ったのが第3イザヤでした。「地」だけではなく、「天」まで新しく創造される、と言うのです。完全な新しい世界が実現し、喜びに満ち溢れる、と預言されているのです。
 今日の黙示録の著者は、今こそ、今度こそ、完全なる新しい世界が実現する、との確信を得たのです。エルサレムもあたらしくなり、そしてイエス・キリストが再臨する、と預言しました。彼ら彼女らが、いかに厳しい時代を生きていたかは、4節の「涙をことごとく」という言葉によく表れています。それまでさんざんな目に遭ってきたが、「もはや悲しみも嘆きも労苦もない」のです。
 私たち日本列島に住む者は、古代より多くの自然災害に苦しめられて来ました。そしてそれは残念ながら、これからも続いて行くでしょう。しかしその時、思いもかけない苦しみに遭った時、どのように生きることができるか、で、ずいぶんかわるものだと思います。自分が信じる神さまが共にいて、そしていつの日か必ずや新しい希望の地をくださる、と確信していたならば苦しみを耐え抜くことができるかも知れません。自然を支配してきた、西洋的な考え方と、自然に翻弄されながらもそこから恵みをいただき、感謝して、また立ち上がって生きなおすことを繰り返してきた私たちの経験、そこに、すべてを支配される全能の神への信仰が加わる時、人はどんな困難に遭おうとも、希望をもって生きて行くことができるようになるのかも知れません。
 どんな状況であろうと、どんなに絶望的に思えようと、必ずや神さまは新しい地を与えて下さる、との強い信仰に立ち、悲しみ、喜びを共にしながら信仰の道を互いに支え合いながら歩んで行きたいと思います。 

2019年7月7日 聖霊降臨節第5主日礼拝 笹井健匡牧師

 先週は、「沖縄慰霊の日」、いわゆる「教団創立記念日」(24日(月))、そしてホーリネス弾圧記念日(26日(水))と重要な日々がありました。そこに、今年は28日(金)29日(土)とG20サミットが開催され、直前の27日
(木)には、低気圧が台風(3号)に変わりました。
 そうした中、個人的にもいろいろなことがあり、四国から2通の、全く中身が違う便りが届きました。そうした経験から、自らの在り方を、もう一度深く反省させられた一週間でした。
 エレミヤは、若くして預言者となり、バビロン捕囚に関して、イスラエルの民に、悔い改めて、神に立ち帰るようにと、預言を語り続けたのです。しかし、彼は「疲れ果て」(20:9)、そしてヨブのように、生まれた日を呪います(20:14)。それでも彼は最後まで預言者としての使命に生きたのです。
 今日の聖書は、そんなエレミヤの預言の中でも、最も厳しい預言のひとつです。この箇所だけ読んでいると分かりませんが、エレミヤが厳しい言葉を語っている相手はいわゆる「全イスラエル」ではありません。この後をずっと読んで行くとわかりますが、この厳しい預言はユダの王ゼデキヤとその高官たち、エルサレムに残った者、そしてエジプトに住み着いた者に向けられています(24章)。一方、捕囚になった民に対しては、神の恵みを語っています。
 つまり、神に信頼し、信仰を貫いて、そのため捕囚の民となった人々には神の恵みが注がれるが、反対に保身を図り、この世的解決を選んだ人々には神の怒りが下される、とエレミヤは言っているのです。
 ホーリネス弾圧記念日には、毎年必ずそのことを心に刻む集会が開催されています。何年か前の講演(説教)の中で、ある牧師が「弾圧を受けた牧師、信徒は確かに大きな犠牲、傷を受けたが、弾圧を回避した教会は、もっと大きな、そして取り返しのつかないダメージを受けた」と言っておられました。信仰的に見るならば、迫害される方が「まとも」である、ということです。
 「怒るイエス」という説教題は、いわゆる「宮清め」を取りあげて時々なされます。しかし「怒る神」となると「恐ろしすぎる」感じがします。できれば耳ざわりのいい言葉を語りたい、という誘惑にかられる者ですが、時にはどんなに厳しくとも、神が語れと言われれば、「怒る神」を語らなければなりません。つまずきそうになる信仰者は、きっと愛の主イエスが守ってくださることを信じ、臆することなく、しかし愛をもって厳しき「怒る神」を語りたいと思います。

2019年6月30日 聖霊降臨節第4主日礼拝 笹井健匡牧師

 今日は私のもう一つの誕生日です。(笑)
 午後3時からお隣の琴浦教会で牧師就任式が行なわれます。今まで何十回と出席して来ましたが、そのたびにいろいろな示唆を与えられて来ました。一番はやはり「初心に帰る」ということです。洗礼が第2の誕生だとするならば、就任式は、さしずめ「第3の誕生」みたいなものだと思っています。もう一度、自分の人生を、信仰生活を初めから振り返ることができるのです。
 私の人生を語ると日が暮れてしまいますので、今日は一冊の、ある本に書かれている言葉で代えさせていただきたいと思います。「それでもこの世は悪くなかった」です。いろいろありましたが、「それでも」今こうして皆さんとここに生きておられることをほんとうに心から神さまに感謝しています。
 今日の聖書は非常に有名な箇所で、おまけに最近すでにメッセージした箇所です。しかしどうしてももう一度取りあげてみたいという思いを与えられました。パウロは、迫害者から伝道者へと、180度転換する人生を歩みました。そしてこの手紙を書くころには、もう有名な「使徒」?になっていました。それでもまだ「既に得た」「既に捕えた」とは思っていない、と言っているのです。そしてこれからもひたすら走って行きたいと言っています。
 今回私は、「別の考え」という言葉が心に響きました。パウロは自分の主張をめいっぱいしながらも、しかしそれを絶対視せず、皆さんに他の考えがあるならそれもおそらく神のみ旨だと、他者の信念、価値観を尊重しているのです。これは逆の面からみるならば、自分の生き方に、信仰の歩みに確信があるからこその言葉だということができるかも知れません。自分に自信(決して過信ではなく)を持っているからこそ、他者の生き方、在り方を尊重できるのかも知れません。
 16節の結論で言っていることも、つまりは、神さまから示された自分の信仰の道を、人の目を気にすることなく、ただ神だけを見上げて、そして自分にしか生きれない、信仰者のあゆみを歩んでほしいと言っているように思います。
 私はすべての人は「詩人」だと思っています。一人ひとりが神さまから招かれ、イエスさまに捕えられた者として、それぞれの人生の詩を歌いながら、自分にしか生きれない「自分史」を生き、そして自分にしか歌えない「自分詩」を歌って信仰の歩みを前にすすめて行く者でありたいと思います。
 
2019年6月23日 聖霊降臨節第3主日礼拝 笹井健匡牧師

 今日は三位一体主日です。私たちは神さまを信じ、イエスさまを信じ、そして聖霊を信じている信仰者です。個人的な見解ですが、クリスマスにイエスさまをイースターに神さまを、そしてペンテコステに聖霊を意識して生きて行くのがクリスチャンとしての一年のひとまわりの歩みとしては、歩みやすいように思います。もちろん、基本は毎日三位一体の神を信じて生きるわけですが、特にこの時期には、聖霊の働きを意識する、ということです。
 聖霊の働きの中でも大きな位置を占めるのは、言うまでもなく教会です。今日は、教会のあるべき姿というか、理想というか、そういうものをエフェソの信徒への手紙から考えてみたいと思います。
 今日の聖書の後の三つの「見出し」は、「古い生き方を捨てる」「新しい生き方」「光の子として生きる」となっています。つまり今日の聖書の個所の「キリストの体は一つ」という見出しは教会の在り方について述べられていて、その後、その教会に連なる信仰者としての生き方が、最終的には「光の子」という言葉に集約して行くのです。
 中心にあるのは今日の聖書の「霊による一致」と7節以下の「賜物を生かし合う」ということだと思います。まず、聖霊によってイエスをキリストと告白させていただいた私たちは、神の息である聖霊を受け、そしてその聖霊に満たされ、導かれて生きて行く存在だということが重要です。もちろん理性や知性も大切ですが、何よりも神の霊によって、ひとつにされていることが教会の生命線です。これなしには何をやっても、結局人の業で終わってしまいます。
 一致のために必要なこととして、「愛をもって互いに忍耐し」「平和のきずなで結ばれて」いることが挙げられています。つまり、「主にある交わり」が形成されているかどうかが、重要だということです。共に礼拝をささげ、賛美をなし、祈りをすることによって「主にある交わり」はより深められて行きます。
 また今日は礼拝後、マナの会例会がありますが、そこでなされる「話」(証し)は本当によい機会です。教会によっては、礼拝だけで、終わると潮が引く様に、みんな帰ってしまうところもあります。
 伝道が困難な時代だからこそ、まずは足元の私たち自身の信仰者としての絆を強くしたいと思います。そこから聖霊に押し出され、福音を伝えて行くことができるように、互いに祈り合い、支え合いながら歩んで行きたいと思います。
 
2019年6月16日 聖霊降臨節第2主日礼拝 笹井健匡牧師

 ペンテコステおめでとうございます!
また今日は花の日でもあります。聖霊そのものは、神の息、風、雨等いろいろに例えられますが、その聖霊の結ぶ実についてもいろんなものがありますが、一言で言うと「愛」です。(ガラテヤ5:22)
 イエスさまの生涯を一言で表すとしたらやはり「愛」の生涯だったのではないかと思います。イエスさまの存在そのもの、言動のすべてが神の愛を表したものであると思います。
 今日の聖書は有名な「一粒の麦」のところです。エルサレムに入城され、ご自身の死を覚悟されたイエスさまの思いが、この短い言葉からあふれるように伝わってくる気がします。おそらくイエスさまはイザヤ書53章を思い浮かべておられたのではないかと思います。
 13節では「ホサナ。…イスラエルの王」と群衆の歓喜の声で迎えられたわけですが、そんな中、そのものすごいうわさのイエスさまに会いたいとやって来たギリシャ人に対して、期待とは真反対の返答をされたのです。
 本当は、本来は、何の犠牲もなく、この地上に愛の花が咲くことが理想です。しかし現実はそうは行かないのです。平島禎子牧師と私に大きな影響を与えた方の口癖は「捨て石になりましょう。」でした。キリスト教が本当の意味でこの日本の地に根付くためには「捨て石」が必要なのかも知れません。
 イエスさまは、今から2千年も前に、人類のあるべき姿、進むべき方向を指し示して下さいました。そしてそのために尊い命まで投げ出されました。そしてその後、誕生した教会も、当初はそのイエスさまの精神「愛」を実践し、福音を宣べ伝えて行きました。しかし、歴史の荒波の中で、変節を繰り返すことになります。なかなか「愛の花」を咲かすことは簡単ではありません。
 しかし、私たちには希望があります。イエスさまは復活と昇天の後、聖霊を降して下さる約束をして下さいました。そして弟子たちは聖霊を受けて生まれ変わったようになってイエスさまのことを宣べ伝えて行ったのです。毎年ペンテコステ礼拝をささげる意味がここにあるように思います。
 弱く、小さな私たちですが、神さまから聖霊を与えられ、それぞれの賜物を生かし合って、少しでも「愛の花」を咲かせて行く者でありたいと思います。

2019年6月9日 ペンテコステ礼拝(花の日礼拝) 笹井健匡牧師

 今日は復活節最後の主日ですが、復活の主はすでに地上におられません。毎年のように、祈りを熱くしてこの時を過ごしましょう、と言っていますが、今年は少し角度を変えて、イエスさまの、一連の最後の出来事を俯瞰してみたいと思います。
 十字架の死、それは歴史的「事実」であった、つまり実際に起こり、だれもが認める事件だったということです。次に、復活ですが、これは弟子たち、つまり信じる者たちにとっては実際に体験したことですが、信じない者たちにとっては、無かったことになります。しかし現実に多くの証人が存在し、そこから弟子集団は新しい希望、力を得ました。これは「真実」ということができるかも知れません。信じる者たちにとっては「真」の「事実」なのです。
 今日の聖書には、聖霊のことが、「真理」の霊と表現されています。聖霊は私たちに「真理」をことごとく悟らせてくれる、というのです。「真理」とは私たちクリスチャンにとっては、ナザレのイエスこそ、キリストである、ということです。そして14節15節を読むと、イエスさまと聖霊と神さまがひとつにつながっていることが分かります。この「真理」は、三位一体と後に呼ばれるようになりますが、聖霊の降臨によって、本来、人間には理解できないことであっても、その「真理」を悟ることができるようになる、と今日の聖書は私たちに教えてくれているのです。
 今の時代は混沌として、この先一体どうなるのだろうか、という不安をおぼえることも多いのですが、確かなことは、私たちはイエスさまを救い主と信じているということ、だから、聖霊が「真理」を悟らせてくれる、ということです。
 理解できないことがらに直面するとき、そのときこそ私たちは信仰者として「真理の霊」である聖霊に導かれ、神さまの思いがどこにあるのか、自分の歩むべき道はどのみちなのか、そうした重要で、根源的な問いに「光」を与えられて、進むべきところへと行きたいと思います。たとえそれがこの世的にどんなにおかしな道であったとしても、神さまが備えられた道であるならば、信仰と勇気をもって歩んで行く者でありたいと思います。

2019年6月2日 復活節第7主日礼拝 笹井健匡牧師

 今年の教会歴では、今週の木曜日、30日に昇天日を迎えます。その後、6月9日(日)のペンテコステの前日、8日(土)まで10日間、イエスさまがおられず、聖霊もまだ降臨していないときを私たちは過ごすのです。使徒言行録1章14節にあるように、「心を合わせて熱心に祈って」このときを過ごしたいと思います。
 イエスの昇天に関しては、使徒言行録以外では、福音書の最後の最後に少し記されているだけです。ですからなかなかとらえにくい面があるように思います。しかし今日の聖書の、このヨハネによる福音書には15章から17章にわたって繰り返し、いろいろな表現で昇天について、イエスさまご自身が語っておられます。十字架と復活の前に、あらかじめ弟子たちに昇天することを、そしてその後、聖霊がくだることを予言しておられるのです。具体的には、どういうふうな様子だったのか分からなくても、イエスさまご自身が繰り返し言われていることで、心から信じる事ができるように思います。
 今日の聖書の少し前の15節から、聖霊を与える約束が記されています。ですから、最近までの私の理解は、この28節の言葉「…去って行くが…戻って来る」というイエスさまの言葉は、再臨よりも聖霊を暗示しているように思っていました。しかし今回あらためて思わせられたのは、そう区別して考える必要はないのではないか、ということです。確かに昇天の後、聖霊降臨があったわけですが、パウロに現れられたのは、まぎれもなく復活の主イエスだったと思うからです。使徒言行録は、そのことを詳細に、しかも3回も記しています。つまり聖霊が降り、26節にあるように「教え」「思い起こさせて」くれるわけですが、復活の主イエスご自身も、ずっと神さまの右にとどまっておられるのではなく、必要に応じて、私たちのところに来られ、働かれる、ということなのだと思います。
 そう考えると、イエスさまの昇天はほんとに喜ばしいことなのです。旧讃美歌では、ベートーヴェンの第9の曲に歌詞をつけた、昇天の讃美歌158番がありました。イエスさまはこの世の「すべて」に勝利され、神さまのもとへと凱旋されたのです。そして今も私たちを見守り、働いておられるのです。
 私たちも喜びをもってこの10日間を過ごしたいと思います。そして互いに思いを一つにし、熱く祈りながら聖霊降臨、ペンテコステの日を待ち望みたいと思います。

2019年5月26日 復活節第6主日礼拝 笹井健匡牧師

 私の母教会では、夕礼拝が行なわれていました。以前もお話ししましたが、そこでは信徒の証が行なわれていました。もちろん、日常に経験した小さな信仰の出来事も話されましたが、ときどきいわゆる「罪の告白」がなされました。そのおかげで私自身も中学時代から苦しんでいた自らの罪を告白することができました。そして教会学校の礼拝でも話すことができるようになりました。教会は今日の聖書にあるとおり、罪を告白し合い、互いのために祈り合うところでした。
 しかし、それはなかなか難しいことであることを、後に知ることになります。全国の教会は同じようなところだと思っておりましたが、それは私の無知でした。なかなかそのように教会形成をすることは容易ではないことを、今牧会者となって特に感じています。時代もあるのかも知れません。しかし少しでもそういう教会へと成長して行きたい、いや成長させていただきたいと願います。
 今日の聖書では、ここまで「富める者と貧しい者」、「信仰と行い」について多く書いて来た著者が、「祈り」について繰り返し奨めています。特に今回私が示されたのは、「正しい人の祈り」についてです。今まで私は、この「正しい人」についてどこか他人事でした。自分は全然正しくないので、だれか他の信仰者のことを思い浮かべていました。しかしそうではなく、ここで言われているのは、「自らの罪を告白した人」のことを正しい人と言っているのではないだろうかと思わせられました。よくよく考えてみれば、神の前に正しい人など、もともといないのです。問題は、罪を犯したときにそれを告白することができるかどうかだと思います。そして罪を告白したなら、神の赦しと、恵みにより、正しい人としてくださるのです。それゆえ罪を告白した人の祈り合いは、正しい人の祈り合いとなるのです。そしてそれは大きな力があり、効果をもたらすのです。
 現代を生きる私たちは、戦後の日本の歩みが大きく変化したことを体験しているように思います。中でも私自身が思うことは、こんなに自己宣伝をする「国民性」がほんとにわたしたちに似合っているのだろうか、という疑問です。どこか虚勢をはっているように思えてなりません。
 信仰者として、本当の意味の謙虚さを身に着けたいと思います。それはおそらく罪を告白し合い、互いに祈り合うことによって実現するのだと思います。困難なこと、不安なことの多いこの時代だからこそ、祈り合う教会として成長させられて行くように神さまに祈りたいと思います。

2019年5月19日 復活節第5主日礼拝 笹井健匡牧師

 今日は母の日です。人それぞれですが、そしてまた中には「母」という存在を知らない人もいます。しかし大きく考えてみれば、私たちは何らかの母なる存在によって守られて、はぐくまれて生きているように感じます。地球も、宇宙も、母なる存在ということができるかも知れません。
 私自身は20代前半くらいまで実家にいましたので、結構母との結びつきは強かったように思います。しかしその後、1人暮らしをし、遠方に住むようになり、結婚したことや、また教会の中に、母のような存在の方々がおられたので、少しずつ距離感が出来て行ったように思います。
 イエスの場合はどうだったでしょうか。詳細は分かりませんが、ルカ3:23の記述を信頼するなら、もしかしたら30歳くらいまで母マリアと一緒に暮らしていたかも知れません。そうだとするとかなり深い関係だったと言えると思います。
 ヨハネによる福音書では、今日の聖書でもそうですが、少し冷たい言い方を、イエスさまがされているように思います。2章のカナの婚礼のところでも同じです。しかし私は、これは宣教に出られてからの、イエスさまの信仰的決意から、強い使命感から来ているのではないかと思います。一緒に生活していた時は、やはりもっと暖かい呼びかけの言葉を用いておられたのではないかと思います。
 十字架上という、これ以上ない厳しい苦しい場面で、イエスさまは母マリアのことを思われ、愛する弟子に託されたのだと思います。コリント一9:5でのパウロのことばから類推すると、すでに弟たちも結婚してそれぞれの家庭を築いていたのではないかと思われます。だからこそイエスさまは自分のかわりになってくれる存在を母に与えられたのです。イエスさまの母への思いがこの聖書の場面にはよく表れているように思います。
 私たち信仰者は、今日の母の日を、自分にとっての母なる存在に心を向ける日として覚えたいと思います。もちろん実際の母に対してもですが、他にもいつも自分を見守ってくれている存在、また大自然や、究極的には母なる存在を与えてくださった神さまに感謝する日としたいと思います。そしてそこからまた新たな力をいただいて、新しく歩み出して行く者でありたいと思います。

2019年5月12日 復活節第4主日礼拝 笹井健匡牧

 私自身もそうでしたが、子どもたちはいわゆる「ヒーローもの」が好きなように思います。ですから、教会学校では、いろいろある教材の中で、少年ダビデがペリシテ人の戦士ゴリアテ(新共同訳ではゴリアト)を倒す、17章の物語が人気があったように思います。
 今日の聖書はそのダビデが預言者サムエルから油を注がれる、つまり、サウルに代わる新しいイスラエルの王として選ばれる場面です。最初父エッサイは、8人の子どもの内、7人を連れて会食に行きます。そして一番上のエリアブを見たときサムエルは彼こそ新しいイスラエルの王になる者だと思います。しかし神さまは、外見ではなく、内面を見る、と言って彼を退けられ、その後続く6人も退けられました。この時、サムエルは疑問を持ったかも知れません。エッサイが連れて来た子どもの中に、神さまが選ばれた者が存在しなかったからです。それで他に息子はいないのか、とサムエルは聞きました。エッサイはおそらくこの子はまだ幼く、会食に出なくてもいい、だから羊の番をさせておこう、と思っていたに違いありません。しかし、サムエルは、「その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」と強い言葉を発しました。サムエルは、神さまが必ずエッサイの子どもの中から、新しい王になる者を見出されたことを固く信じていたのだと思います。
 私たちは、自分のそれまでの経験や常識で物事を判断することが多いのですが、時に、神さまのやり方は人間のそれとは違う方法でなされることがあるということをこの聖書の個所は教えてくれているように思います。サムエルが7人であきらめていたら、ダビデの出番はありませんでした。最後まで神さまを信頼し、追及したからこそ、ダビデは見出され、そして神の言葉が成就したのです。
 またもうひとつ考えさせられるのは、最初の王サウルのことで失意を経験したサムエルは、もう一度、神を信じその言葉に従い、そしてついに次の王となるべき存在を見出したということです。しかもその者が「少年」であったにも関わらず、サムエルは神さまの言う通り、油を注ぎました。自分の固定観念を越えて神の業を信じる信仰者の姿がここにあるように思います。
 「少年ダビデ」はこの後、いろいろ大変なことも経験しますが、サムエルと同じように、最後まで神さまを信じ、従って歩みました。私たちも同じように、自分の勝手な思い込みを捨て、神さまを信じ、歩んで行く者でありたいと思います。

2019年5月5日 復活節第3主日礼拝 笹井健匡牧師

 世の中は10連休ということで、大騒ぎになっていますが、「休む」ということは私たち日本人にとって、少し「苦手」なものに感じます。後ろめたいというか、悪いことのように感じてしまう人も多いのではないでしょうか。
 聖書には安息日が記載されていますが、モーセの十戒にも明記されています。もともとは今日の創世記で神さまが安息されたことに由来します。
 よくよく考えてみれば、人生のかなりの時間を睡眠というかたちで私たちは休んでいます。そういう意味では、休むことも大切な人生の一コマなのかも知れません。またうまく休むことができないと、結局よく働くこと、行動することはできません。古代社会において「安息」が重要なこととして教えられているのはやはりすごいことだと思います。
 現代の日本人はほんとによく働きますが、以前は、例えば江戸時代以前はどうだったのでしょうか。私は専門知識はありませんが、ひとつだけ思うのは、日本は季節の変化があり、また天候の変化もあることから、やみくもに、いつもいつも働き続けていた、というのはもしかしたら現代人の思い込みかも知れません。
夏は昼間の一刻が長く、冬は短かったりもしました。人々は自然と共に、自然のリズムに合わせて生きていたのではないでしょうか。そして労働の間にはうまく休憩時間をとっていたのではないかとも思います。
 今は、ずべてが管理され、職場によっては分単位で仕事が行われています。もしかしたら現代の労働の方が、より大変な面もあるのではないかと思います。
 イエスさまは「…わたしのところに来なさい。…休ませてあげよう」と言われました。笑い話のようですが、「休む」ために教会に来たのに、忙しくてこき使われて、なんかおかしいですね、という信徒の証しを聞いたことがあります。
 もちろん神さまの御用をすること、特にこの復活節にイエスさまのことを伝えることは大事なことだと、あらためて思わせられます。しかし、教会は、基本的には神さまの安息にあずかるところ、イエスさまから平安を授かるところだということを忘れないようにしたいと思います。そして、その復活の主イエスに救われた喜びを、心から楽しく人々に語っていける者となりたいと思います。

2019年4月28日 復活節第2主日礼拝 笹井健匡牧師

 イースターおめでとうございます!今年は4月21日と大変遅いイースターでしたので、レント(受難節)が長く感じられたように思います。やっと今日、大きな喜びの日、イースターを迎えることができました。
 今年はヨハネの福音書の最初の復活の場面から復活について考えてみたいと思います。ヨハネは20章のはじめに、まず墓がからっぽ、つまりイエスの遺体、亡骸がなくなっていることを記します。ワンクッションおいているのです。8節最後の「信じた」はもちろん復活ではなく、イエスの遺体がないことを信じた、ということです。理由は定かではありませんでした。ペトロともう一人の弟子は家に帰りますが、マグダラのマリアだけは墓に残り、そこに主イエスが復活の姿を現されたのです。どこか「エマオ途上」と似ているところがあります。それは最初イエスが来られ、話しかけられてもイエスだとは気づかない、という点です。
 イエスが「マリア」と名前を呼ばれた時、マリアはその人がイエスだと気づくのです。復活の姿というものについて、いろいろと考えさせられます。
 使徒信条で「からだのよみがえりを信ず」と告白していますが、実際どのような姿になるのかはっきりしません。イエスさまは「天使のようになる」とも言われています。ある言い伝えでは、そのひとが最も輝いていたとき、若く生命力にあふれていたときの姿に似た天使のような姿になる、というものがあるそうです。もしかしたら復活の主イエスもそうだったのかも知れません。もちろんこの後のトマスとのやりとりにあるように、手やわき腹に傷跡はあったのかも知れませんが、それでも十字架上で、ボロボロの姿になられたイエスさまの姿とは違う、元気な若々しい姿だったのではないか、と私は思っています。だからこそ、園丁と間違えたのだと思います。
 イエスさまはアラム語を話しておられました。マグダラのマリアはヘブライ語で「ラボニ」と答えています。おそらくふだんからそう呼び合っていたのだと思います。イエスさまから自分の名前を呼ばれたとき、その音感というか声から伝わる気持ちから、マリアはイエスさまだと分かり、いつものように反射的に「ラボニ」と答えた、つまりその人が復活したイエスさまだと分かった、ということだと思います。
 復活節のこの時、私たちもそれぞれイエスさまから名前を呼ばれ、そして復活の主に「イエスさま」「主よ」と呼びながら、心からの喜びを胸に、歩んで行きたいと思います。

2019年4月21日 イースター(復活節第1主日)礼拝  笹井健匡牧師