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「怒る神」   エレミヤ書21章3~7節

 先週は、「沖縄慰霊の日」、いわゆる「教団創立記念日」(24日(月))、そしてホーリネス弾圧記念日(26日(水))と重要な日々がありました。そこに、今年は28日(金)29日(土)とG20サミットが開催され、直前の27日
(木)には、低気圧が台風(3号)に変わりました。
 そうした中、個人的にもいろいろなことがあり、四国から2通の、全く中身が違う便りが届きました。そうした経験から、自らの在り方を、もう一度深く反省させられた一週間でした。
 エレミヤは、若くして預言者となり、バビロン捕囚に関して、イスラエルの民に、悔い改めて、神に立ち帰るようにと、預言を語り続けたのです。しかし、彼は「疲れ果て」(20:9)、そしてヨブのように、生まれた日を呪います(20:14)。それでも彼は最後まで預言者としての使命に生きたのです。
 今日の聖書は、そんなエレミヤの預言の中でも、最も厳しい預言のひとつです。この箇所だけ読んでいると分かりませんが、エレミヤが厳しい言葉を語っている相手はいわゆる「全イスラエル」ではありません。この後をずっと読んで行くとわかりますが、この厳しい預言はユダの王ゼデキヤとその高官たち、エルサレムに残った者、そしてエジプトに住み着いた者に向けられています(24章)。一方、捕囚になった民に対しては、神の恵みを語っています。
 つまり、神に信頼し、信仰を貫いて、そのため捕囚の民となった人々には神の恵みが注がれるが、反対に保身を図り、この世的解決を選んだ人々には神の怒りが下される、とエレミヤは言っているのです。
 ホーリネス弾圧記念日には、毎年必ずそのことを心に刻む集会が開催されています。何年か前の講演(説教)の中で、ある牧師が「弾圧を受けた牧師、信徒は確かに大きな犠牲、傷を受けたが、弾圧を回避した教会は、もっと大きな、そして取り返しのつかないダメージを受けた」と言っておられました。信仰的に見るならば、迫害される方が「まとも」である、ということです。
 「怒るイエス」という説教題は、いわゆる「宮清め」を取りあげて時々なされます。しかし「怒る神」となると「恐ろしすぎる」感じがします。できれば耳ざわりのいい言葉を語りたい、という誘惑にかられる者ですが、時にはどんなに厳しくとも、神が語れと言われれば、「怒る神」を語らなければなりません。つまずきそうになる信仰者は、きっと愛の主イエスが守ってくださることを信じ、臆することなく、しかし愛をもって厳しき「怒る神」を語りたいと思います。

2019年6月30日 聖霊降臨節第4主日礼拝 笹井健匡牧師

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