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 今日の聖書の箇所は、コリント教会からエルサレム教会への献金について書かれています。献金をする時は、不承不承ではなく、また強制されてするのではなく、自分の心が決めたとおりにしなさい、というのです。そして、「喜んで与える」人を神さまは愛してくださるのだ、と7節に記されています。寛大に気前よく喜んで献金する人には、神さまは豊かに報いて下さるのであると、パウロは言うのです。

 12節、13節に記されている「奉仕の働き」、「奉仕の業」というのは「献金」のことを意味しています。エルサレム教会の人々はコリント教会の「奉仕の業」がもたらすものは、キリストの福音を従順に公言していることへの神の賛美であり、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることは、神をほめたたえることであるというのです。献金の業が、福音に対する従順と福音の宣言につながるのだというのです。

 「献金」というものは「喜んで与える」ものであると改めて思わされました。いつの間にか義務化している自分がいることにも気づかされ、神さまに感謝して、喜びの心をもって献金をなしていかなければならないと思わされました。

 今日の聖書は献金のことが記されているのですが、献金に限らず、自分の人生を「喜んで与える」ということをなした人たちが大勢います。その中でも、アリス・ぺティ・アダムス、留岡幸助、山室軍平と共に岡山四聖人と言われている石井十次のことを思わされます。石井十次は児童福祉の父とも言われています。石井十次は、宮崎の出身ですが、熱心なクリスチャンの医師と出会い、現在の岡山大学医学部へ入学し、医師になることを決意します。そして、現在の日本キリスト教団岡山教会で金森通倫牧師より洗礼を受けます。十次が医学実習をしていた診療所の隣に、貧しい巡礼者の宿があり、一人の子どもを引き取ることになり、さらにまた二人の孤児を預かることになりました。やがて孤児救済のための「孤児教育会」の看板をあげるようになりました。「孤児教育会」は「岡山孤児院」となり、孤児の数は徐々に増えていきました。その後、天災による孤児たちを引き取り、岡山孤児院の孤児数は1200名にのぼったそうです。孤児院の経営は苦しく、困難はありましたが、十次は情熱をもって突き進んでいきました。十次の精力的な活動は人々に感銘を与え、児童福祉という概念と共に、徐々に賛同者や協力者を増やしていきました。 (―後略―)

 十次の人生を思う時、誰に強制されたわけでもなく、自分の心の中から湧き出てくる思いを大切にして、児童福祉のために自分の人生を「喜んで与える」人であったと思わされます。

与えるものはお金に限りません。自分の人生の時間を喜んで与えるということが本当に大切なことであると石井十次の一生から思わされたことでした。

 私たち一人一人、心の底から「喜んで与える」ということをなしていく者でありたいと思います。心が喜びに包まれ、日々の生活を喜びをもって歩んでいく者でありたいと思います。

     2022年9月25日 聖霊降臨節第17主日 平島禎子牧師


 残暑お見舞い申し上げます。まだまだ暑い日が続いています。近年は気候が不順になり、季節感がおかしくなっているように思います。

 「風にふるえるオレンジ色の枯葉の舞い散る停車場で、

きみと出会った9月の午後、男と女のめぐり逢い。」

 これは、わたしが中学生の時買った、流行歌の一節です。

 それでも日本は春夏秋冬の四季があり、やはり自然が豊かなところだなあと、

あらためて感謝をします。

 イスラエルは、典型的な地中海性気候で、特に乾期(5月~9月)は、全く雨

が降りません。それが夏であり、短い秋を経て早ければ10月中旬には冬になるそうです。これが雨期ですが、合計700ミリくらいしか雨が降りません。大変厳しい自然環境です。

 日本人の感覚だと、特に稲作の影響で、春に耕し、秋に収穫、と思いますが、イスラエルでは、秋に耕し、春(初夏)に収穫(果物は秋に収穫)という感じです。だから学校も秋から始まり、初夏に終わるのです。

 今日の聖書は、旧約最後の預言者と言われるヨエル書です。ヨエル書は冒頭から「いなごの害」「主の怒り」が記されています。堕落したイスラエルの民に対する神さまの厳しい言葉の後、神は憐みを示されます(2:18)。そして再び豊かな恵みを与えて下さる、と今日の個所で言われるのです。果物の豊かな実り、恵みの雨によって、穀物と、ぶどう酒、油が溢れるようになる、と。

 日本でも、秋は様々な食物の豊かな実りの季節です。厳しい夏を歩み抜いたご褒美と言えるかも知れません。そして同時に、同じく厳しい冬に備える時であるかも知れません。短くなったとはいえ、ほっと一息つける、「実り」を楽しむ、素晴らしい季節であることに変わりはありません。

 人生にも春夏秋冬があるのかも知れません。人によっていろいろですが、人生の秋、それは、それまでの自らの期し方をふり返り、感謝と静かな喜びに満たされながら、やがて神さまのもとに帰る時を、心して待つ時なのかも知れません。

 「実りの秋」のこの季節、自分自身の人生の秋をも意識しながら、神さまの恵みに感謝し、救い主イエスさまに導かれながら、共に信仰の歩みを進めて行く者でありたいと思います。

 

     2022年9月18日 聖霊降臨節第16主日礼拝 笹井健匡牧師


 今日、9月11日は、21年前の2001年にアメリカにおいて同時多発テロが起きた日です。この日を忘れないで、犠牲になられた方々のことを想い、心に刻み続けなければならないと思います。また、現在起きているロシアのウクライナ侵攻による戦争が一日も早く終わるようにと願うと共に、ミャンマーなど軍事政権下にある国々のことをも心に留めておかなければならないと思います。また、戦争に加えて、コロナウィルスの蔓延が未だに収束しません。もう2年以上の月日が経っています。21世紀が戦争と病の世紀にならないように、これからなんらかの希望が与えられるようにと願うばかりです。神さまは、このような私たち人類の愚かさや苦しみを放っておかれる方ではありません。私たちを憐れみ、希望の光を与えてくださいます。

 今日の聖書にはイスラエルの罪と神さまの憐れみということが記されています。神さまは、幼かったイスラエルの民を親が子にするように愛し、育ててくださいました。にもかかわらず、イスラエルの民は神さまから離れ、バアル信仰という異教の忌むべき神のもとへと走っていきました。そのことは神さまの目に悪と映ることでありました。そして、アッシリアという大国から北イスラエルは滅ぼされるのですが、そのアッシリアは、剣が町々を荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち、たくらみのゆえに滅ぼされるのだ、というのです。そして、民が天に向かって叫んでも 助け起こされることは決してないと、言われるのです。神さまの怒りが頂点に達しているように思われます。が、しかしです。そのような強い怒りを持たれた神は、にもかかわらず、8節から11節までにおいて、イスラエルへの憐れみが記されています。それでも、神さまは、イスラエルの民を見捨て、滅ぼすことができない、と言われ、激しく心を動かされ、「憐れみ」に胸を焼かれる、と言われるのです。そして、「もはや怒りに燃えることなく、エフライム(北イスラエル)を再び滅ぼすことはしない。」と言われるのです。激しい怒りを持ちつつも胸を焼かれるほどの憐れみを、神さまは持たれるのです。そのようなことは人間にはできないかもしれません。しかし、神さまには可能なのです。神は神であり、人間ではないからです。私たちが計り知ることのできない、神さまの苦悩と胸を焼かれるほどの憐れみがあるのです。

私たちが、決して許すことができないような悪事を人間が働いた時、神さまはそのことに対して烈火のごとき怒りを持たれることでしょう。しかし、それでもなお、神さまは、胸を焼かれるような憐れみをもって、人間に働きかけ、導こうとしてくださるのです。神さまの憐れみは胸を焼かれるような激しいものです。この神さまの憐れみを知り、それほど深く、激しく、人間を憐れんでくださっているのだということを知り、罪多き人類、社会、世界において、神さまの憐れみを思い、その憐れみに応えて歩んで行く者でありたいと思います。

 

       2022年9月11日 聖霊降臨節第15主日 平島禎子牧師

 


 教会学校が盛んだった頃は、9月の第1日曜日は、新起日と言って、夏休みが終わり、二学期が始まって、気持ちも新たに、遠くにクリスマスを見据えながら新しく歩み出す、という感じでした。最近ではもうすでに夏休みが終わり二学期が始まっている学校も多いようです。また残暑が厳しいため、9月と言っても新しい季節、秋を感じることが難しいように思います。

 私たち人間は、暦など、いろんなことを用いて、気持ちを新たにします。最近ではサウナで「ととのう」のが流行っています。私達は日々、気持ちをリフレッシュして生きているのです。

また肉体も表面的には、老化して行くところだけが、目につきますが、実際には多くの細胞が日々新たに生まれ変わっているのはご存知の通りです。そういう意味では、肉体も日々新たにされていると言えます。

 今日の聖書は、「外なる人」と「内なる人」と言う印象的な表現が記されているところです。パウロがよく使う言葉に置き換えると、「肉」と「霊」ということになります。しかし直前のところでは、「体」と「イエスの命」と記しています。そうすると「外なる人」というのは、体も頭も心も全部含めた、生きている自分自身全体を表していると言えます。つまり、肉体も衰え、頭脳も衰え、気力も衰えるということです。しかしそんな中、唯一、日々新たにされて行くのは、イエスの命をいただいた私たちの霊だと言っているのかも知れません。

 イエスさまから新しい命をいただいた私たちは、その他の全部がたとえ衰えていくとしても、主にある命(霊)だけは、日々新しく成長して行くのです。

今の時代の信仰者の生き方としては、見える世界を誠実に生きながらも、見えない世界を信じて、いつか神さまのもとに帰るその時まで、自らの最も深い部分を磨きながら生きて行く、ということかも知れません。

 この世の様々な情報に一喜一憂するのではなく、神さまの喜ばれる生き方をイエスさまにつながりながら、続けて行く者でありたいと思います。

 

    2022年9月4日 聖霊降臨節第14主日礼拝 笹井健匡牧師